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空っぽでいられる間


高円寺で、友人の佐藤熊弥さんが展示をするというので、先日見に行ってきました。彼はタンネラウムの設計で協働したり、私の「絵と空間」に対する考え方にかなりの影響を与えているひとりで、今回もそれに対する考えが広がる展示でした。

今回の展示は、iii architectsという建築家ユニットの内装設計している空間で、着工前の1か月ほどの間、展示空間として開かれた場として用意されたものでした。そこに、熊弥さんが監修として呼ばれ、黒坂さんと奥さんが展示作家として呼ばれた形です。

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DM(twitterから引用)

このような形式を聞いて、(建築家=空間)>(作家=展示)という関係を想像してしまったのですが、行ってみると、(建築家=作家)=空間構成という形式なのだと捉えられました。
iiiが設計した内装計画がダンボールによって1:1模型で表現されており、それを大枠の動線計画や作品の支持体として機能させることで、(建築家=空間)>(作家=展示)を感じるものの、その模型の壁には、絵画作品と同じように鉛筆でクレジットがされており、あくまで並置しているのではないかと感じ取りました。また、窓際に置かれた二つのテーブルもそれを象徴していて、一つはiiiによる模型やテキスト、もう一つは奥さんのテキストや展示にまつわるカセットテープなどというように等しい態度が取られていました。

なぜこの点を強調したかったかというと、この展示は空間あっての展示ではなく空間を作っていくための展示のセッティングであるということとして、私が捉えたからで。そうすることで、普通はネガティブ視されてしまうであろう、ダンボールと細い角材で支持された少し歪んだ模型を、「会場構成」ではなく「ただ模型である」ということにしておけると思ったからです。空間を扱う「模型」が、「展示」という現時点の実空間を取り巻いていることで、それを鑑賞する身体の時空が歪んでしまうので、それを少し言葉にして整理してみます。

今回は、実物そっくりつくる「モックアップ」とは違い、スタディとしての「模型」であることが重要です。個人的に、最近什器の仕事などをするようになり「モックアップ」という言葉を使うことが多くなりましたが、建築の仕事ではほぼモック、ということを使わず、1:1だとしてもそれを「部分模型」と名付けることがほぼほぼです。
私(建築家)たちは、模型に対して思想(狙い)を込めます。1:50では、ボリューム感を見たいからスタイロフォームで作り、材の割付までは書き込まないとか、1:20では、部分の素材の関係を見たいから、材のテクスチャや家具まで作り込むとか。プレゼンテーションで見せる模型だとしたら、実空間を想像させるようにパースを作り、それとは別に空間の構成を伝えるために白い模型を作ったりします。
それに対してモックアップは、思想ではなく、そのものそっくりを目的として作られます。構造から、材の選定、仕上げ、そのままに。そんなことを建築ではできない(本体と同じくらいコストがかかる)ので、学生の頃は特に、親しみがありませんでした。
模型は、材料や作りかたによって、検討したい事項以外のことは一旦棚に上げてしまう、ことが可能なツールなのです。

長くなってしまいましたが、そういう意味で考えると、今回iiiが作った模型は、実際の壁の高さや通路の幅などの空間計画を検証するための模型でした。それに対して、「展示」をする際には、目に見えるそのもの全てが見られる対象になるため、その検証と所作が必要になります。

たとえば、入り口をくぐってすぐの奥さんの絵のバックに緑のシャイニーな色紙がそれに当たります。その色紙は、奥さんの絵の背景として、すでに絵の一部のようなあり方をしていますが、それは支持体としてのiiiの模型から、距離を取るための単なるバッファーなのでしょうか。どんな壁に対しても同じように絵が独立するための額なのでしょうか。(額の働きには本来もっと意味があると思いますが)
ダンボールで作られた模型は、材料の規格により横目地(隙間)が入ってしいます。これは、模型の目的である計画の検証においては問題ではなく、そこに絵を掛けることにも問題ではありません。(他の絵は平然と掛かっている)しかし、この場の質(最初に見るゲートによって切り取られる壁)にとっては、その横目地は少しノイズになってしまったのでしょう。
それを消すための色紙なのだとしたら、絵の矩形のように隙間ないぴったりとダンボールに貼り付けることも可能だったところを、上だけ留めて、下はペロンとめくれたように放っておかれています。そうすることで、ダンボールと色紙の間に影ができ、背景にある横目地の隙間と呼応する関係になっています。

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バッファーのような独立した中間部材ではなく、どちらにも加担する重なり部材です。背景の色紙ごと購入した方もいると聞いたように、絵と色紙で持ち出されたとしても成立します。
もしもバッファーだとしたら、剥がされた瞬間消えて無くなるでしょう。(例えば、「中庭」が単なる庭になってしまうように。)

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これを見て私は、質が良いというよりも「精度」が高い、に近いなと感じました。精度というのは、「正確さ」を表す言葉ですが、この展示はこの模型が実際の構法ではないことによる歪みが多くあることや、私の中に絵画の正確さという概念がないことから、それに当たりません。だからと言って、「豊かだ」なんて言葉で示すほど、無邪気で明るい場所でもない。
たまに町工場のPR動画であるような、逆光気味の薄暗い工場で、金属の機械に慎重にノミを入れて平滑にしている様子に似た光景が頭に浮かびます。
この展示で覚えた「安心感」みたいなものは、そういうところにあるかもしれません。

そもそも、この展示は、誰かの作品に他の人の作品が重なっている、というありえない構成をしています。空間と展示の入れ子の関係でもなく、ズレと重なりの関係であることで、見る人によって異なる<内容と箱>が与えられるために、感想の振れ幅を作っているようにも思えて、興味深かったです。

家にある奥さんの作品にも、背景の色紙を添えてみようか、なんて考えるも、でもうちは綺麗にクロスが貼ってあるんだよな、と少し残念に思いながら、このテキストを打っています。