中庭のメロディ


 中庭がある。ただそれだけを理由に選んだ高校で、マキはぼんやりと空を見上げていた。学校説明会は午後の部となり、今は自由に校内を見学しても良い時間。マキは中庭の真ん中で、校舎に囲まれた空を、その輪郭を、なぞるように見ている。他の中学生はたいてい親と一緒に来ていて、パンフレットを片手にあっちへこっちへとせわしなく移動している。中庭を取り囲む壁には各階の教室の窓が張られ、時々、見学中の中学生が見えた。マキはひとりだ。
 親子連れが一組、中庭に入るのを視界にとらえた。二人は隅にあるベンチに腰掛け、パンフレットを見ている。彼らがここを選ぶのかどうか、ふっと想像してみる。マキはもう、ここを受験するだろうと考えている。あの子だって同じ年かもしれない。もしかしたら試験の時、隣にいるかもしれない。そして、もしかしたら同じクラスになるのかもしれない、なんて、ちょっと考えてみただけのこと。マキにはそんなこと、どうだってよかった。
 ただ、中庭に立っていることがうれしかった。それだけで、胸は躍り、夏の日差しなんて気にならないくらいさわやかな気分だった。

 ちょうど視線が向いた先で、窓が開いた。ひとりの女の子が、身を乗り出してこちらに手を振っている。赤いネクタイ。在校生らしかった。マキはあたりを見回す。ベンチにいた親子連れは、いつのまにかいなくなっていた。手を振る相手は、マキの他にはいないように思える。

「ねえ、アイス食べるー?」

 女の子は手のひらをメガホンにして、叫んだ。アイス。冷たくて甘い響きが、マキの頭上に落ちてくる。
 女の子は三階にいた。マキは腕時計を見る。体育館に戻る時間まで、まだ二十分あった。あわてて手を振り返すと、女の子は立てた親指を振って、「おいで!」とジェスチャーをした。

 ガラス戸を開け、昇降口に面した廊下に戻る。一気に目に入る光が減って、くらくらしながら、階段を探した。中庭に浸るのに夢中で、建物の構造はまるで確認していなかったのだ。なんとか見つけた階段をとりあえず上り、女の子がいたあたりを目指して、廊下をぐるりと回り、隣の棟へと移動する。
 ロッカーや自習用のテーブルが置かれた広い廊下に出た。中庭に面した壁がガラス張りになっており、窓から身を乗り出している女の子が見えた。アイスキャンディーを口にくわえて、空の眩しさに目を細めている。
 マキは小走りで窓のある教室に向かっていく。被服室、和室、放送室……。戸を開けて見学中の中学生が顔を出す。マキに向ける視線もすぐにそらされ、みな、次の見学先へと移動していく。

 たどり着いたのは、掲示板を看板のように構えた、ひときわ小さな戸だった。生徒会室、と書かれたプレートは、すこし曲がっており、戸は半開きだった。半分顔を出すようにのぞくと、例の女の子が振り向いた。

「いらっしゃい、いろいろあるよ」

 女の子はもうすっかり棒だけになったアイスで、床に置かれたクーラーボックスを指した。いろいろある、というのは、アイスのことらしい。
「失礼します」
 と声に出して、沓摺をまたぐ。
 外から覗くだけでは見えないいろいろが視界に飛び込んでくる。ホワイトボードでふたつに仕切られた部屋は、手前には四角いテーブルとパイプ椅子がいくつか。その向こうに、積まれた段ボール箱が見える。テーブルには色付きのマジックペンが散乱し、何やら制作中らしい画用紙や、何を模したのかわからないぬいぐるみ、何に使うのかわからない花飾り……とにかく、散らかっている。

 クーラーボックスには、棒つきのバニラアイスがいくつかと、チョコレートアイスがいくつかと、ソーダアイスがいくつか。カップの抹茶アイスがふたつ。女の子がにこりと笑いかける。

「好きなもの選んでいいよ。どうせ食べきれないし」

 チョコレートアイスを手に取ると、指先から冷たさが入り込む。中庭で立ち尽くしていた間の汗が、すっと思い出されると同時に、引いていく。
「いただきます」
 ビニールを破くと、細かな水滴が粒になって、手に飛び散った。促され、パイプ椅子に座る。ひとくちかじる。正面に座った女の子が、膝に頬杖をついてマキの様子をじっと見ている。
「受験生?」
「いえ、二年です」
「え、中二から学校説明会なんて行ってるの?」
「まあ」
 しゃり、とアイスについていた氷の粒が歯にあたる。マキは正直、居心地が悪い。アイスと聞いて駆けつけてきてしまったけど、知らない女子高生に見守られながら食べる気まずさは、想定していなかった。

「生徒会の人なんですか?」
 何か話すとしたら、そのくらいしかとっかかりがなかった。腕時計を見る。集合時間まで、あと十分。
「うん。副会長をしてるよ。会長の挨拶、聞いてた?」
「はい」
 生徒会長だという女の子が、午前の説明会で、檀上で挨拶をしていた。拍手の大きさから思うに、立派なスピーチをしていたのだろう。マキはその時から、中庭のことばかり考えていたわけだが。
「あの子、前でしゃべるの上手いでしょ。でもね、教室では誰とも喋れないって、いっつも悩んでるの。面白いよねえ」
 笑っている女の子を前に、食べ終わったアイスの棒を持て余しながら、自然に窓の方に視線が向く。女の子はマキの視線に気づいて、窓辺から身をずらした。

「君ずっと中庭に立ってたでしょ。つい気になっちゃってさ。もしかして熱中症? なんて思ったんだけど、元気そうだね。外、見る?」

 マキは女の子が立っていた場所から中庭を見る。

 さっき親子連れが座っていたベンチには、男子中学生の二人組が座っていたが、すぐに立ち去っていった。そろそろ体育館に向かうのだろう。マキも移動しなければならない。が、上から見る中庭はまた違った美しさで、マキは立ち去りたくない。ぐるりと周りを囲むような花壇では、白や黄色や桃色が手を振っている。芝生になった地面は、向かい側の校舎の影を半分背負って、夏のコントラストが綺麗だった。中庭に面した窓からは、やはり人や教室の様子が垣間見え、今はマキもそのひとつになっている。マキは息を吸い、吐いた。生ぬるい風が、チョコレートアイスで乾いてしまった喉をなでていく。

「……ねえ、もう行った方がいいんじゃない? 大丈夫?」
 女の子が遠慮がちに声をかけたが、マキは小さく頷くばかりだった。
「うん、ま、いいでしょ、行かなくても。あたしもサボってる最中だし」
 そう言って、女の子は背もたれにだらしなく身を預け、二本目のアイスを開けた。いや、もしかしたら三本目かも。マキも二本目を渡されてしまった。今度はソーダ味。

「え、サボってたんですか?」
「役員は今みんな、中学生の案内中だよ。ここにいるのはあたしだけ」
「大丈夫なんですか?」
「大丈夫じゃないけど、まあ、たまにはこういう日もあるよ」
「へえ」
「それでなんで中庭にいたの?」
「なんで……」
「ずっといたじゃん。あたし最初から見てたよ。もう三十分くらいずっとあそこに立ってた」
「それは」
 中庭が好きだから、としか言いようがない。

 小学校にも中学校にも、校庭や裏庭はあっても、中庭なんてなかった。アニメや小説にはたびたび出てくる、その不思議な場所に、身をおいてみたい。マキの長年のあこがれである。いちばん家から近い高校に、こんな素晴らしい中庭があるだなんて、学校で配られるパンフレットを見るまで知らなかった。それもそのはずだ。中庭は、外からは決して見えない場所。だからあこがれるのだ。

 今日、マキは初めて、あこがれの中庭に立った。暑さと、まぶしさの中で、毎日ここに入り浸る未来を想像して、胸がふるえた。
 自分は、今、この学校の外からは見えないところにいるんだ。
 家からも中学校からも見えない場所に。それはなんと開放的な瞬間だったろう。

 と、わざわざ初対面の相手に話すのも気が引けて、マキは口をつぐんだ。見かねた相手は、幸いなことにおしゃべりな性格のようで、勝手に話し始めてくれた。
「あたしはね、待ってたの。友達を」
「…………」
「だから仕事もサボった。あの子が来るとしたら、学校じゃあここくらいだからね」
 マキは頷くことすらできない。だって、この人の友達のことなんて、何も知らない。手のひらで、アイスの棒がぬるくなっていく。

 女の子はふいと立ち上がり、部屋の隅まで大股で移動すると、くずいれに棒を放り込んだ。そのまま壁際の棚を、はじめてここに入った中学生のように丁寧に眺め、そこからひとつの小箱を手に取り、窓際に戻ってきた。

「これなんだと思う?」
 言われ、手元の小箱をのぞき込む。黒っぽい木の箱だ。つややかにニスがぬられている。大きさはメガネ入れくらい。小さなパウンドケーキでも焼けそうな形だ。

「箱ですか」
「そう、箱。でも中身はわからないでしょ?」

 女の子はおもむろに蓋を持ち上げた。中は二つに仕切られており、片側には小さな芝生、もう片側には小さな銀色のねじ回し。上からつまんで回せるようになっていた。

「あ、オルゴール?」
「正解」

 女の子がねじを回す。きゅるきゅる、と、透明な糸をつむぐようなか細い音がした。やがて手が離れると、オルゴールは音を奏で始める。マキの知らないメロディだった。メジャーコードの三拍子。耳を傾けながら、小さな箱庭を眺めていると、芝生はかすかに風にそよいでいるようにも見える。女の子は窓辺に頬杖をついて、その芝生を指のはらでなでた。

「友達のものなんだ。大事にしてたのに、ここに置いていったまま学校にも来なくなっちゃった。夏休み前からずっとだよ」
「……中庭みたい」
「え?」
「いや、オルゴール。芝生もあるし、四角いし」
 それに、中が決して見えないつくりも、中庭を連想させた。
「中庭かあ」
 女の子はオルゴールを手のひらに乗せて、じっと視線を注ぎ、押し殺したようなため息をついた。
「本当に好きなんだね。そんなにいいもの? 中庭って」
「はい」
 女の子がくずいれをもってマキの方に差し出した。アイスの棒を投げ込む。
「なんか、夢があります」
「へえー、夢」
「外からは見えないっていうのがいいです。秘密めいていて、そこに浸れるようになったら、何かが変わるのかなって」
「ふうん、秘密……」
 女の子はマキの言葉をくりかえすばかりで、その目はオルゴールの方に向いていた。マキは恥ずかしくなって、そういえばと思い時計を見る。もう集合時間を五分すぎていた。まずい、行かなきゃ。と思うのに、腰が上がらない。

「でも、きっとさあ」
 女の子の口が開いた。ほのかにバニラアイスの甘いにおいがした。

「中庭なんて、きっとすぐに見慣れて、飽きちゃうよ。そんで、また新しい秘密の場所にあこがれたりするんじゃないかな」
「…………」

「アキノもそうだったのかなあ」

 オルゴールの音楽が止まる。

 こぼされたのは、おそらく独り言だった。アキノというのが、苗字なのか、名前なのか、人の名前ではない何かなのか、マキには知る由もない。

「なーんて、高校生が中学生にこんな夢のない話しちゃだめだよね」
 マキは小さく首を横に振る。どの文節を否定したいのか、自分でも、よくわからなかった。

「ここ、受けるの?」
「たぶん」
「まだ二年生でしょ? ゆっくり決めなよ。中庭のある学校なんていくらでもあるしさ」
「あの」
「ん?」
「オルゴール、回してみてもいいですか」
「ああ……はい、どうぞ」
 まだ、もう少し、ここに座っていたかった。オルゴールを回すのは、その口実でもあった。

 手に取ると、軽さがなんともあっけない。芝生の面を、彼女がしていたようにそっとなでてから、ネジのつまみに手をかける。そもそも小さなスペースに収納されたネジは、二本の指で持つことが意外に難しく、回すのに手こずった。それでも、回り始めれば、きゅるきゅると軽やかな金属の音がする。カチリ、と止まる瞬間があり、マキは手を離した。

 メロディが、生徒会室を満たしていく。今度は二人、無言で、オルゴールに聞き入っていた。マキは、やはり中庭を重ねていた。オルゴールに、そして女子高生の友達に。
 きっと、女の子が言ったとおりなのだろう、と思う。マキは中庭に満足できなくなる。中庭は、非日常だから素敵なのかもしれない。毎日通う学校の一部になってしまったら、それはやっぱり、面白くないのだ。
 だけど……。

「さっきの話、夢のない話なんかじゃないです」
 音楽が鳴りやむと、自然に口が開いていた。

「さっきの?」
「中庭に飽きて、新しい何かにあこがれるって」

 女の子は、また、遠くを見る。友達のことを考えているんだろうなと思う。マキはオルゴールのふたを閉めて、今度はその表面を見つめてみる。
 中に何が隠れているのかなんて、こうして見るだけではわからない。目の前の女の子だってそうだ。このオルゴールの持ち主だって。

 そうした、隠された小さな世界があちこちにあるのだと思うと、マキは救われるのだった。

 世界は、中学校や、今日帰る家ばかりじゃないと、信じることができる。

 女の子は、ふ、と笑って、マキが差し出したオルゴールを受け取った。
「そうだといいなあ。君にも、アキノにも」

 その時、女の子のスカートから、陽気な電子音が聞こえた。
「あ」
 ポケットから、何気なくスマートフォンを取り出した女の子が、声をもらした。
「どうしたんですか」
「んーん、ただ、返信がきてただけ。待ってる友達から」
 女の子は頬をゆるませて、何事か文字を打とうとしたようだったが手を止め、
「ごめん、時間。大丈夫?」
と、顔を上げて言った。
「大丈夫ではないですけど」
「うわあー、もう、やっちまったね、申し訳ない。体育館だよね、案内しようか」
「いや、いいです」
「でもとりあえず戻った方がいいよ」
「あ、アイス、ごちそうさまでした」
「そんなんはいいって、ほら、ほら」
 唐突に慌てる女の子についていけないまま、マキは追い出されるように生徒会室を出た。

 廊下の生ぬるい空気にのって、体育館での話し声が聞こえてきた。校長か誰か、大人が前に立って話しているようだった。ようやくマキも急ぐ気になって、階段を駆け下りていく。体育館の後ろから入り、そっと、空いているパイプ椅子に座った。誰からも何もとがめられなかった。
 中学生やその親たちが、ぞろぞろと門から出て行く。マキも彼らに混ざりながら、校舎を振り返ってみた。

 もう中庭が見えないところまで来ていた。

 あの人の友達だという人は、どうして、オルゴールを手放してしまったのだろう。
 どうして学校に来なくなってしまったのだろう。
 学校よりも、中庭よりも、オルゴールよりも、もっと深い秘密めいた場所を知ってしまったのだろうか。
 考えても仕方のない疑問が、マキの中に浮かんで、沈んでいった。

 トートバッグの中身は、ペットボトルのお茶と学校のパンフレットくらいで、頼りない軽さだった。説明会の間、ひとたびも開かなかったパンフレットを取り出す。表紙には、青空を背景にした白い校舎の写真と、高校の制服を着た男女のイラストがあった。

 歩きながら、マキは初めて、パンフレットを開き、読み始めた。

 とりあえず、校舎の案内図のページから。



 生徒会室の戸が開いた。
「カホ先輩、やっぱりここにいた」
「会長が心配してたっすよ」
 二人の生徒が入ってくる。カホと呼ばれた女の子は、スマートフォンを片手に顔をあげた。
「みんなお疲れ。幸田先生からアイスいっぱい届いてるよ」
「お、やった」
「何があります?」
「一人二本までね」
 ソーダ味がひとつ、チョコレート味がひとつ、選ばれていった。
「……それ、また回してたんですか」
 一人が、窓辺に置かれたオルゴールに気づいて、言った。
「まあね、ちょくちょく回しておかないと、なんか壊れそうでさ」
「アキノ先輩から返信、来たんですか」
 もう一人が、重たい口ぶりで問う。
 カホは静かに笑い、問いには答えずに、
「会長の分、冷やしておかないとね」
と、クーラーボックスに蓋をした。

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