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「地獄のような世界」と「理想の世界」

「一人の成功者に周りの人間がぶら下がる」世界

今朝(2024年1月18日9時ごろ)見かけた、
2年前の岡田斗司夫さんが気になることをおっしゃっていました。

これから日本は、50年くらいかけて毎年約140万人が死んでいき、
70年がかりで半分くらいになる「人口オーナス期」に入ります。
この「オーナス期」には、
「偶然に成功した成功者にすがるのが当たり前・健全」になります
東南アジアでは、例えば、警察署や役所に誰か家族が一人就職したら、みんなすがるじゃないですか。親兄弟から親戚から、みんなそいつにたかるんです。これからの日本はそうなっていくし、それが正しいと思います。
そういうのが実はアジア型の生き方に近いんですよ。
「成功というのはある種の偶然であって、その偶然を得た人が地域資産になる」という考え方をしている。その「資産」を褒め称えていい気持ちになってもらって、彼からの施しを当てにして生きている。
もし日本がこれから、人口がどんどん増えて経済的に発展する「人口ボーナス期」なのであれば、こんな生き方しなくていいです。
かつて正しいと思われていた「一人一人が独立して、一人一人が成功を目指して、若いうちにお金を貯めてリタイアして」という考えかたで問題はないけれど、それは今の日本では難しい。
この流れには、歴史的な巨大な慣性力がついているんですよね。
日本人という1億人前後の人口が長年かけて造ってきた巨大な質量とその動きの方向という慣性力がついているので、誰か一人の決心で変えれる余地がない。なので、成功者にぶら下がるのが健全だと、僕は思っています。

岡田斗司夫ゼミ#428 (2022.2.6) 要約(ちょっと意訳混じってます)

…情報が古いと言われればそれまでなのですが(汗)、
この話を伺った時、
「え、地獄…」と思いました。
「地獄の鬼どもが溢れかえるってことじゃん」とも。

事務員として働いていた頃、
創意工夫を楽しめるくらいに仕事に入れ込んでいた職場で
いつまでも「わからないからできない」というスタンスをとり続ける先輩方に「仕事の仕方を教えて」と寄って来られる事態になったことがあります。
私はその状況を「地獄だ」と思いました。

「職場のため」「今後のため」と思って
自分が守ってきたやり方を伝えても、
相手がそれを「自分の利になるように使う」人だと
どうしようもないんですよ。むしろ悪化します。
その状況に次第に耐えられなくなり

「こいつらにぶら下がられんのはごめんだ」という
不遇感ルサンチマンに呑まれて、
それまで積み上げてきていた努力を手放したことを
思い出しました。
(きっちり後継の方に引き継いで退職しました)

私が「成功者」になりたくない理由は、
この経験によるものかもしれません。
「知りもしない他人」に群がられるのは、
二度とごめんなんです。

これまでの努力を「一方的に搾取される」ために使うのは嫌だ。

この感情に気づいた時、
もしやこれは「利己心」か、と苦い気持ちになりました。
…自分の身の安全を守りたいと思うことにNGを出す癖が
まだちょっと残っているようです。

「利己心」と認めたくない自分が
「でも、だって」と言い出したので
この感情を深掘りしてみると、
「自分の安全を守りたい」という気持ちと同じくらいに、
想定している「他人」に対して
強めの敵愾心てきがいしんがあることに気づきました。

おそらく私は、この「知りもしない他人」に
「他者が苦労を引き受けることを当てにして、
 自分はその蜜の部分だけを享受することばかり画策している」
「他者の領域を侵害している略奪者」
「他者が本来受け取るべき実りを奪うことで得をしようとしている」

というイメージを投影しているようです。

このイメージに該当する人々は、
私の子供の頃によく見た大人たちです。

私の「家族」には、
成功者のような華々しさはありません。
ただコツコツと働いて多くを欲しがらず
安定した生活をする工夫をしていただけです。

にもかかわらず、
その質素な暮らしに充てる収入を
酒盛りと馬鹿騒ぎに消費するためにわざわざ訪問する
「知りもしない他人」がいたんです。
大人の事情を知らない子供の私から見た
彼らの立場は「居候の客人」でした。

なので、彼らが宴会で馬鹿騒ぎをしている様を
私は「ずるい」とか「何の権利があって」とか、
そういう気持ちで見ていたと思います。

当時は勢い余って、
日曜の夜にたまに見かける「ノリスケおじさん」にも
憎悪の念を抱いていました。
その次に「カツヲ」が嫌いでした。彼らにはとんだとばっちりですが。

当時の私は、
ちゃっかり者と、あとは
いい歳して「ねえ、なんで思い通りになってくんないの!」と周りにキレる
見た目は大人、頭脳はこどもの人たちが
とっても嫌いだったんです。
どういう理屈で物を考えたら怒れるのかがまず理解できなかった。

つべこべ言う前にまず自力で生きる努力をしろや
というのが、
幼少期からの私の持論だったんだと思います。

これに対するもう一人の私:
「そういう私だって、できてるって言えるの?」

ただ、それを言ったら
私は幼少期たしかに両親に養われていたし、

成人してからも、自分の居場所を得るために
仕事を「社会から与えてもらおう」としていた。

食べるものはほとんどスーパーやコンビニで買った出来合いのお惣菜だし
得意料理は「白いおにぎり(無造作)」です。

YouTubeのショートで見かける「炊飯ジャー」シリーズならできるかな…と、つい最近になって料理に希望を見出し始めた干物です。

いまだに収入を得るために出稼ぎに行こうという発想になるし、

「自分の居場所を自分で作る」ために始めた「発信」も、
すでに何万人というユーザーが定着しているSNSを利用しています。
本当に「一から創造する」ということを
一度もできたことがない気がします。

やってみたいと思った時、
まず「学ぶために学校に入る」という選択を想定してしまうのも、
成功例に倣おうという心理からくるんだと思います。

でも、
ぶら下がる側に回るのも、嫌なんですよね。
だってぶら下がられたくないから。

もしかしたら、「手に負えない量に群がられる恐怖」
みたいなものがあるのかもしれません
…起こってもいないのに(笑)

こういうことを考えて足踏みするくらいなら、
これは「自立なのか」とか余計なことを考えずに
お気軽になんでもやってみて
面白かったら続ける
飽きたら別のことをやってみる
うっかり成功したら
負担のない範囲で「私」を構成する世界の人に還元する

というのが、気楽で身軽な生き方なのかもしれない。

地獄を想定して再度考える、「私の理想の世界」

一つ気づいたことがあるのですが、
私は、ぶら下がると言うことは
「自ら支配下に入る」と同義だと思っています。

どれだけ貶されても大人しく「カレ色」に染まらないと
生きていけないんですもん。

それは嫌だ。

一生かけて、自分の面倒を見れる仕事をしたい。死ぬまで。

あわよくば、
それが誰かを「本当に」活かすきっかけになれば、なお良い。

…具体的には想像できないけど。

誰か成功者からの寵愛を当てにして生きるか、
手に負えない数の「自称家族」の人たちにぶら下がられる成功者になるかの二択しかないんですかね?

私が若い時に感銘を受けて、今でも大事にしている理想の世界

一燈照隅いっとうしょうぐう萬燈遍照ばんとうへんじょう

です。

そこでは誰も、誰かにぶら下がろうなんて発想はしない。
誰かが「やってくれる」と期待せず、
自分ができることを実践し続けて、
同じような心がけでできることをやっている人がいれば
仲間と見做して、
自分の領分で力を尽くしながら、
励ましあったり助け合ったりしている世界。

実践しているからこそ、
一人ひとりに実力と自負があって、
だからこそ他者を仲間と見做しながらも、
その境界線を尊重できている。

この2年、SNSやインターネットを通じて出会ったのは
「活かしあう社会」を目指している活動ばかりでした。
誰も彼もが何かにぶら下がる了見で生きているわけじゃないと
むしろ世界を好きになれた2年間でした。

なので、そっちが実現するように
できることをやっていこうというのが、

来る「地獄」に向けた私の足掻きです。

2024年1月18日 拝


知る・学ぶ・会いにいく・対話する・実際を観る・体感する すべての経験を買うためのお金がほしい。 私のフィルターを通した世界を表現することで還元します。