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黒い川

『ただそこにあるんだよ』ボロボロの布を纏ったじいさんが言った。じいさんは何日も風呂に入っていないように見えた。病院のような大きな建物の中にいて廊下沿いにたくさんの老人が座り込んでいた。皆、なにやら皿のカレーらしきものを食っている。

廊下を歩いていくと桟橋に出た。そこにはカヌーを素朴にしたような細い葉型の小舟が浮かんでいてさっきのじいさんが乗っている。『進行の一秒一秒にわたしはいる。』まるでおまえに啓示を与えたのだ言わんばかりの威厳に満ちている。さっきまでカレーを食ってたのに。

ただそこにあるものは、動き続けていた。自然と湧きおこるのだ。噴水の池に波紋がつぎつぎと作られていくように。

わたしは無数の葉が池に落ちた位置をぼんやりながめた。どうして自分でランダムに置いてみても、こんなふうな位置関係にはならないのだろうか?

落ち葉の一枚一枚が点滅し始める。落ち葉はじいさんが浮かぶ黒い川に流れ出していた。その動きの刻みに私は切り刻まれた。刻まれたわたしは、輪郭を得て美しいかたちになる。もうだれにも邪魔されることはない。わたしは完璧なかたちなのだ。無数のわたしがそれぞれの一秒を担うとき、それはやってきた。

じいさんは黄色い歯をぎらっと見せてにやにやしながらさらに言った。『お前には影がないじゃないか。』その瞬間、美しいと思われた輪郭が溶け、醜く流れだした。わたしは必死に溶けてなくなりそうなかけらの断片をだきしめたまま黒い川に巻き込まれた。

影は森の奥で、ごみのようなかけらをかき集めていた。自分の身体に集めてはくっつけていく。まるでモザイクの壁画のような肌だ。いつかほんとうの一つの身体になるための呪文でもとなえるしかすべがない。

しかし、いつまでもそれはモザイクのままわたしの体につなぎ目を残しているだろう。つぎはぎのつなぎ目にはいつも黒い川が流れているのだ。

画・文 Rumiko Hosoki

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