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月の野獣

とにかくお金がない。
時間だけはたっぷりある。
ようやく大学受かって、これでわたしも東京で暮らせる。って思ってたのに、ちょっと出かけようと思うともう電車賃半端ないでしょ。仕方がないから、時間だけはあるからさ、歩く。外を。多摩川のほとりで。飛んでる鳩眺める。

今日もいつも行く肉屋を横目で見ながら(豚肉が安い)川沿いぶらぶらあてもなく歩いていたら、古い公園にたどり着いた。水の出ない元噴水池のまわりが広場になってておじさんがパンの耳を撒いてる。ものすごい数の鳩。ハト、ハト。ハトだらけ。おじさんをみんなで取りまいてる。もうおじさんしか目に入らない。おじさん、ハトのアイドルじゃん。なんかすごくうらやましい。

まだまだ時間はあまってる。ハトのアイドルを向かい側のベンチに座って眺め続ける。灰色の空。地面の石畳も黒ずんでる。ほかに動きはまるでない。パンの耳があらかたなくなって、おじさんのブームもあっという間だった。わたしはジャケットのポケットから文庫本を出した。足穂の少年愛。なんとなく恥ずかしくて本屋のカバーをつけたまま読んでる。足穂のね。わたしは月のお話が好き。びゅっと放り投げられたりするところ。ぱんって弾けたり。一瞬真っ白になって、全部なくなる。そして、あれっ?って。戻ったはずが以前とは全然違うところにいる。

じぶんのなかでなにかがとぐろを巻いている。黒い渦のようなものだ。それをなんとかしたい。見るのが恐ろしいから、ずっと蓋してきた。女の子だからそうしていなければいけないとどこかで思い続けてきたのだ。しかし、それがとんでもない野獣のようなものに育っている気がしてくる。

ベンチにいるのも飽きてきたので本をポケットにしまい立ち上がる。風船を持った小さな男の子とお母さんが通り過ぎた。男の子が砂場に気をとられたとき、風船が手を離れ木に引っかかった。お母さんはどこからか木の枝を拾ってきて、風船を取ろうとしている。でも、届かない。そのうちお母さんは、木を揺らし始めた。ちょっとくらいの振動では絡みついた紐はほどけないようだ。お母さんはどんどん木を揺さぶる。ゆさゆさと音がして、葉が落ち始める。お母さんはやめない。木の振動はますます激しくなり、葉が嵐のように降ってくる。わたしはただぼうぜんとそれを眺めている。お母さんはもう、風船のために木を揺さぶっているようには見えなかった。ただただ揺さぶりたいのだ。徹底的に。
とうとう風船の紐がほどけた。そして、風船はあっという間に空に昇り風に連れられ多摩川の上流へ向かう。しばらく風船を目で追っていたが消えてしまう。灰色の空に溶けそうな薄くて白い昼間の満月しか残っていない。

気がつくと男の子とお母さんは居なくなっていた。なんだかそこに参加しているような気分だったから、なにも協力していないのが申し訳ないような気持ちになっていた。風船が飛んで行ってしまい、とにかくそれを目で追いかけることで、良心をほんの少し表明するくらいしかできなかったのだけれど。ハトのアイドルも消えていて、公園には私一人しかいなかった。木の下へ行くと、まだはらはらと葉が落ちてきた。私は落ち葉をかき分け猛然と地面を探り始めた。掻いても掻いても、どこまでも落ち葉が重なって、延々と地面に届かなければいいと思った。

画・文 Rumiko Hosoki

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