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シュライン#21. 藤ヶ崎龍神(滋賀県近江八幡市)

この「藤ヶ崎龍神」「倭神社」と同様、メインの目的の「ついで」にふと寄った神社なのでーー最終的にはここに来なくてはならないからあの予定を入れたのでは、となるくらいの引きがあるのだがーー帰宅してからいろいろ調べた。わかったことを順に書いていこう。

もともとこの日、近江八幡を訪れた目的は、姉妹のように育った母方の従姉妹が働くクラブハリエ本社こと「ラ・コリーナ」の観光である。
クラブハリエは洋菓子屋さん、滋賀県民にとっては和菓子屋で有名な「たねや」の洋菓子部門であって、従姉妹はクラブハリエのパッケージデザインを担当している。現在東京では結構熱い、滋賀のスポットとなっている「ラ・コリーナ」に3/31のイベントでジャズを歌ってくれた親友が行きたがっていて、こんなうってつけのガイドはいないだろうと従姉妹に案内を頼んだ。

じゃじゃん。奥に見える可愛らしいのが本社。

館内で無料配布されているマップ。こういったマップの作成も、
いとこがやっているらしい。

いとこがデザインしたリーフパイ。

ひとしきり「ラ・コリーナ」を堪能したあと、せっかくだから近くに神社でもあればご挨拶して帰ろうということになった。
親友はその日東京に帰るから、彼女に選んでもらおうということで近所の神社を2つピックアップする。「藤ヶ崎龍神がいいな」彼女のひと言に加えて、もう一つの候補であった「沙沙貴神社」は意外とと遠いなあということで、ちょうどコリーナから野洲駅への帰り道となる藤ヶ崎龍神に参ることにしたのだが、これがなぜ「行くべくして」だったかというと、
この藤ヶ崎龍神、俵藤太(藤原秀郷)というお人ととても関わりがあることが行く道すがらでわかって来たからである。

湖岸道路から小さな脇道をふっ、と入ってしばらく行ったところにその神社はあって、すなわちもう、湖のへりのところに鳥居が立っている。

ここには、湖側に「龍王」が祀られており、
向かい合う形で、山側に「龍神」が祀られている。

そしてこの龍王さん(♂)と龍神さま(♀)はご夫婦ということらしい。(安直な記号を使用しすみませんが、結構頭がこんがらがって来ると思うのでこうさせてください)

そして「名高き藤太家名藤原」とある。
これは俵藤太(別名/藤原秀郷)のことでしょうな。

龍王さまの鳥居を背にして回れ右すると、このように龍神(ナトさん?)の鳥居が見えます。

奥宮という感じです。入り口には網が立てかけてありますが、
それはカラスよけであって、参拝客は網を外して中に入れます。
(中はあまりに神秘的ゆえシャッターを押せなかった)

龍王(♂外)さま、龍神(♀奥)さま、双方、とても手厚く美しく手入れがされており、龍ですから卵が添えられ、参拝客のためのろうそく、
ライター、そして龍神祝詞まで、供えられており、この場所をとても大切に守っている宮司さんの姿を、
目には認められなくとも感じることができました。

さて。ここでようやく藤原秀郷(俵藤太)の話。
藤原秀郷という人は平安中期の豪族、武将で、平将門の首を討ったことで有名ですが、三上山の百足退治でも有名。

三上山の百足退治というのは近江に伝わる物語で、
ある時瀬田の唐橋のふもとに大きな大蛇が現れた。それにびくともせず、その上を歩いていこうとした藤太を大蛇は「実はわたしは龍の化身です」と呼び止め、三上山を7回り半もとぐろを巻いている大百足(おおむかで)の退治を頼んだ。この藤太に百足退治を頼んだのは、昨日わたしが調べた限りだと、奥様のナトさん(龍神)の方ということになる。

大蛇は白蛇で、白蛇と龍は同じという意味合いがあって、
つまりナトさまは龍神であらせながら弁財天様でもあるということになるかもしれない。だとしたら熱海の来宮神社で祝詞をあげたことがここへの扉に繋がったのかもしれない。繋がったというか、そこの弁財天様がこちらのナトさんに口利きしてくれたのかもしれないね。

途中は割愛するのですが藤太は無事大百足を退治し、龍王たちから、たくさんの米俵を送られて”俵藤太”と呼ばれるようになった。

そしてこの時に龍王より贈られた「鐘」があの三井の晩鐘の鐘ということなのだそう。「三井の晩鐘(みいのばんしょう)」というのはとても切ない近江の人間なら誰もが知っている物語である。そう考えると当たり前だが滋賀の人間は龍といつもともにある。ただ、その鐘が、百足退治によって、龍王から俵藤太に贈られたものとは知らなかった。その晩鐘が、また湖の中の、めくらの龍に、自身の子の無事を告げる音色として響いていたことを知ると万感の思い。

そしてなんと。俵藤太こと藤原秀郷というのは、栃木の佐野に大変ゆかりのある人で、なんとなんと、わたしの親友は栃木の佐野の人間なのである。

18歳から早22年ほどもなんだか一緒につるんで、
まるで何かの露払いのような3/31のイベントを守山の図書館で一緒に行い、
滋賀と佐野の人間が、俵藤太ゆかりの「藤ヶ崎龍神」に揃って参拝するなんて!!!笑

親友は3/31にお客様からもらったバラを、わたしは3/31で配布したエッセイを、それぞれ奉納してみました。

美しい夕焼け。

まるで海のような湖岸で、おのおのの時間を過ごす。
いとこは少し怖いと言っていた。
妖精のような子だから、龍はすこし”気あたり”がするのだろう。

それでも彼女がいてくれなかったら、今日わたしたちはここにこれていない。年始に占い好きの「他力本願な、いとこ」として、ラララに登場させましたが、笑、この日彼女、おおいなるご神託。ありがとう。

近江には磐座や、巨石信仰が、ありのままの形でずっと根付いている。
つまり「信仰している」という感じじゃなくって「そこいらにあるもの」として。大きな岩たち。大きな石たち。あることが普通の存在。

けれどもこうやって歴史を学びながら紐解いていくと、
いかに人は「鳥居」を作り、印をつけずともそこに「在る」ものに印をつけ「ここに神あり!」と叫んできたのかがよくわかる。

もちろんこれには「火の鳥」にも描かれていた、仏教伝来によって、
「形なきもの」が仏像という形となって鎮座し、それによって森羅万象に宿っていた八百万の神たちの存在がかき消され、それがまた「天照大御神」を祀り国を一つにまとめる新たな神道として顕在化し、時の政の都合や民意によって仏と神を一緒にしたりわけたりなんかを繰り返して現在にいたるのだろう。

(少し桃色がかった龍王の宮。美し)

この日は4月3日。
3/31に図書館で露払い、その夜、長く眠っていた祖母の家(父方)で宴、
宴の最中に誕生日を迎え4/1となる。
4/1は「レイワ」が発表された午後、雨と晴れを繰り返しながら写真集の撮影をし、最後は雨晴溶け合って虹、そして夜はみんなで愉快な晩餐。
4/2はご来場くださったみなさまと、おめでとうメールをくれたみなさまへの返信、3/31から高熱が下がらない甥っ子を病院に連れて行くのに奔走する。4/3、ラ・コリーナからの「藤ヶ崎龍神」、親友を無事野洲駅に送り届けて解散後、いとこの運転で母方の祖母宅へ到着。到着後すぐに母から「熱が38度あって歩けない」と電話。叔母に送ってもらいトンボ帰りする。

ひとつの時代が終わり新しい時代が始まる時、
新たな時代を迎える陣痛の中で、日本はもんどりうって苦しみ潮目の中で、膿を出している。日本書紀も古事記も、どのような歴史書も、建国の瞬間や新たな時代の曙、黎明を高らかに記して物語を始めるが、
実は突端から始まる歴史などなく、その背後には何かしらの死、
大いなる屍が転がっている。俵藤太という誉れ高き名前の背後に、
巨大な大百足(おおむかで)の屍は横たわっている。

「生き死ぬるもの双方に光を与えよ」

リワ砂漠で降ってきたこの言葉の意味。
ラララ・ラム子のTOPに固定した記事にも記したこの言葉の意味。

生き死ぬるもの双方に光を与えるとは、一体どういうことか。
生き死ぬるの「死ぬる」とは厳密にはどういう状態か。
死にゆく、なのか、
これから死ぬものなのか、
生きながら死んでいるもののことか、
とうに死んでしまっているものたち、忘れられたものたちのことか。

まだわたしにもわからない。

けれど答えはいつも森羅万象の中に。


「生きる」ことをおそろかにしなければ、きっとまたその中に、何かを見つけることができるだろう。
おそらく次は三上山。取り掛かる霊山としては大きいが、
小学校の頃、初めての遠足で登った、懐かしい山である。

果たして山は「おかえり」と言ってくれるか。
藤ヶ崎龍神を後にして、夕日が沈む。
そろそろ三井の晩鐘が鳴る頃か。
龍の目玉が、比良山の奥へ落ちていく。


それではla la la ♪ la la la シュライン☆

嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ