月モカ_171009_0048

la la la 99. 丁寧に生きてみよう! (By古の魔女の具体案)

こんにちは。昨日に引き続き「世界の反転にわたしたちはどう対応するのか」というお話。11月から「愛の時代」が始まったっていうけど、それってどういう時代よ、いったいどこいらを「愛」と呼ぶのよ、そもそも「愛」って何よ、っていうところから「愛」という言葉を使わずに今日は具体的なことを書いていきます「丁寧に生きてみよう!」

「愛の時代」に必要なことって一言で言ったらこれかなってわたしは考えています。「力の時代」は、多少の器用さ、もしくはとてつもない頑張り(ど根性的な)、多少のシビアさ、ドライさ、が生き抜くためには必要であったと。ところでみなさま「丁寧な人」って乱暴に分けると、器用だね、不器用だねって、どっちに括られることが多いと思いますか?
・・・それはやっぱり、不器用だねっていう括りですよね。笑。そうなのです、これからの時代は「不器用さん」の時代でもあるのです。

ここで大切なことは「丁寧であること」と「マメなこと」は違うということです。何が決定的に違うかというと「マメさ」というのはいつもある種のSpeedの上に乗っている、ということです。返信が早い、飲んだ次の日は必ずお礼メール送って来てくれる、人の誕生日覚えている、物を渡す時にも小さな手紙をつけてくれる......etc、いろんなマメさがあるけれど、人は忙しい人に対してほど「マメだね」と言います。暇を持て余している人が同じことをしても「マメだね」とはあまり言わないかもしれない。
だからやっぱり「マメさ」というのは、あんなに忙しいのに・・・というSpeedの中で生まれる感嘆の言葉でしょう。

でも、わたしが着目しているこれからの時代に必要な「丁寧さ」というのは、思い切って時間のSpeedを止められる勇気のことなのです。
「丁寧に生きる」実はこれが本当に愛に繋がっていきます。
つまり「Speedを止める」ということは、人間にとって平等であり限られた24時間の中で、本当に大切なものとそうではない物を仕分けする断捨離の作業でもあるからです。何も断捨離せず丁寧な対応をしようと努力すると「マメな人」になってしまうからです。でも「マメな人」になると”のりしろ” や”余白”の時間がなくなってしまいます。

つまり速さを倍にして2人の人にお手紙を書くのではなくて、逆にそれを5人から1人に絞って、4人分の時間をかけて書くようなこと。(これは極端なたとえですが)。時間をかけるということ、その丁寧さは、時間の分相手への慮りになって、結果それは愛情に繋がっていく。だって人は、ないがしろにされるより大切にされたい生き物だからです。

余裕というものがないところで人間が愛について考えると「足りていない」ことを考えます。求めることを考えます。


でも余裕があって満たされているところ、または傷ついていてもゆったりした時間の中で人間が愛について考えると「誰かに何かをしてあげる」ことや「癒し」について考えます。
ちょっとした恋人同士の諍いとか、友人同士の揉め事とかも、互いの余裕のないタイミングがカチあった時に起きることが多いですよね。



「実は最近あまり寝てなかったからその時ぼーっとしてて」
「その日わたしも結構ショックなことがあったから気持ちが不安定で」

そういったこと。
つまり「愛の時代」って、時間やエネルギーの薄利多売の終わりでもあるのかもしれません。


丁寧に生きてみる。これってけっこう”英断”が必要なので勇気が要ると思います。これまでのSpeed日本。朝が来て昼が来て夜が来てまた朝が来る、年明けました、もう年末!?  そういった中で成功してきた人はやっぱり器用にいろんなものをこなせるか、変なところでいちいち立ち止まってしまわない柔軟さがあったり、また寝る間を惜しんで努力したり、
見た目は余裕そうな、ポーカーフェイス型の人も実はシンクロのように水の下では懸命に足を動かしていて、とにかくいろんなことに時間を割いてフットワーク軽く動いて、誰かを動かすならば自分はその倍は働く、っていう、
それが日本の社会の仕組みだから、プレミアムフライデーなんて誰が作ったの、どうせ現場を知らない政治家が考えたことでしょ、帰れるわけないじゃん! って感じで、残業禁止とかやられても根幹から変わってないから、給料だけカットになって余計困るし! って感じですよね。

だから、この記事を読んで「本当に丁寧に生きてしまって大丈夫なのだろうか・・・」という不安があると思います。わたしは思想の強制はしたくないので不安に思うことを無理やりしましょう、とは言いません。なのでまずはささやかな丁寧さから始めてみましょう。

例えばなんですがわたしは飲食店で長くバイトをしているのですが、これまで当然Speedの中で指示や教育をしてきました。「トイレ汚れてる、綺麗にして」「なんでここ整理できてないの」やはり最前線にお客様がおられるので1呼吸置く時間がないのです。でも最近、気になったことを持ち帰って、
うちはグループlineがあるのですが、平日の、奴ら(Guys 笑)が仕事中でありながら暇をしてる時間に「そういえば**とか**になってるから気をつけて見るようにしてくれる?」などと連絡するように、
やり方を変えてみました。
そしてこれは一つの丁寧さであると考えました。

営業中に流れの中で言われる、怒られてしまうと、なんか「業務」という大きな放物線の中でまとめて、その日が終わると流れてしまうもの、疲れてる時に言われても「はーい、はいはい」という感じで残らないもの。それを、時間をあけてしかるべきタイミングで伝える丁寧さ。
この丁寧さは「今時の若いもんは」「わたしたちの時代は」「最近の子はほんとヌルいから仕事を見て盗まない」とか考えていると絶対「なんでわたしがそこまで歩み寄らないとあかんの」ってなってしまうこと。
でも角度と視点を変えてみる。

(まあ、その類の丁寧さなら、やってやれんことないわな)

そう思える人は、人間関係や24時間の断捨離のように勇気が要ることではなく、そんな日常の些細なディディールから始めてみましょう。

「丁寧に生きる」「丁寧さを考える」

これは関わる相手との時間や、それをないがしろにしないこと、接し方を考えることであってすなわち愛を考えることにもなります。忙しい中で持つ恋人や子供や家族や友人との時間を、どう見直していくのか。
仕事とプライベートをどう扱っていくのか。
ほんの少し丁寧になったことで誤解が解けたり、信頼が深まったり、絆が強まったり、する。すなわちこれは愛の議題。
愛の議題なんだけど「愛」って大変だし個体差あるから「丁寧さ」という角度から日々の暮らしを見つめ直していく。
これがわたしが思う、世界の反転に対する「愛の時代」への初期対応かなって、思います。

最後に大切なこと。これは「力の時代」に対する否定ではありません。言い方は悪いのですが独裁者改め、とにかくぐんぐん引っ張ってくれる指導者が必要な時もあるし、日本には無我夢中に一丸となる時代も必要でした。

今わたしたちが「愛の時代」に突入できた背景には、戦後、すべての私生活など投げ打って「日本の復興」のために人生を捧げた団塊の世代の人、
それを支えた家族の姿があります。その土台の上に今の日本があって、その人たちはそういう「ガムシャラ」な生き方だけを何十年もして今70代とかになられているわけなのですけど、その人たちがちょっと「古いな」「今時じゃない」ことをおっしゃっていても、できれば一瞬、この人たちのガムシャラのおかげで今があるということについても丁寧に考えてみてほしいです。

ジャーナリストの田原総一郎さんがある番組で「日本の豊かさゆえの課題」に対してこう言っておられました。

「僕たちは戦後、本当に毎日お腹が空いていて、僕たちが目指した日本というのは、毎日お腹いっぱいご飯が食べられる日本だった。僕たちはそれだけを考えて邁進し努力し、その夢を叶えお腹いっぱい食べらえる日本にした。だから僕らの時代が目指した目標と今の結果は、僕たちにとっては悔いも後悔もない、これこそが僕たちの求めた日本だった。だから今度”豊かな日本”が抱える新たな課題について”こうじゃない”と思う若者がいるのなら、それは僕たちじゃない、新しい世代の子たちの課題であり、その子たちがまた新しい理想に向かって日本を作っていけばいいと思う」

団塊の世代を生々しく生きた人の説得力のある言葉。

新しい時代の到来は、それまでの時代の打倒や否定ではなくって、
ただただ、培ってきた土台のアップデートなのだと思います。

そのアップデートのあり方を、一緒に考えてゆけたら。

WELCOME TO AI NO JIDAI ☆
愛とAIの時代の始まりです。

それは”ラララ世界”の本格的な幕開けでもあると、わたしは思っています。
(わたしが生み出すこの世界ーマガジンーじゃなくて、わたしが総称としてラララと名付けた概念の世界のこと)

それではらるらるらん♪
ラララ世界で会いましょう☆ 


嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ