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シュライン#16. 皇大神社【伊勢遺跡】by 2019年元旦

2019年が明けました。振り返ってみるとこの「la la la シュライン」がなかなか更新できぬまま本日を迎えていることに気づくのですが、この年始に立て続けに更新したく思う。時系列に沿って更新しようと思っていたのだが、元旦にどこを参拝したのかはとても重要な出来事であり、まずは伊勢遺跡と皇大神社のことを記すことにする。
わたしの実家の産土神は「勝部神社(旧物部神社)」で主祭神が「ニギハヤヒ」であることを突き止めたのも実は2018年秋、幼い頃から慣れ親しんだ神社なのにそれを知らなかった不思議などあるのだが、産土神は12/31にすでに禊で参ったのもあって、また改めて書くことにする。
また、今から記す伊勢遺跡は滋賀県守山市で昭和54年に発掘された遺跡のことである。

(⤴︎勝部神社)

この「la la la シュライン」を追って読んでくださっている方のために説明すると、このマガジンは前回、那智の滝で終わっているが、まず9月の末に、30年ぶりくらいに伊勢神宮を参拝した。
2015年から折に触れて「秘境」と言われる神社に参って、ちょっと不思議な体験などしてきたわたしなので【伊勢神宮】ともあらばとてつもない経験をする!?と思っていたのだが、正直言うと特別何か不思議な体験はなかった。特に重要な内宮で本当にあまり何も感じなかったのだが、実は外宮の「多賀の宮」では少し何かを感じた。それは「瀬織津姫」を彷彿させる何かだった。時代に抹消された神様、瀬織津姫。
そしてわたしは瀬織津姫を追いかけて、滋賀の大石の佐久奈度神社へ参り、犬上郡のお多賀さんに参り、調宮神社に参り、白髭神社に参り、いろんなことのルーツを掘り下げた結果、わたしは「伊勢遺跡」にたどり着いたのである。それは、邪馬台国が実は守山にあったのでは!? という仮説なのだが、それはそこから発展して、今わたしが考えていることは、ここが本当の「元伊勢」だったのではないか、ということなのである。つまり伊勢神宮ができる前に、日本で一番重要だった神宮はどこにあったのか、という問い。

(ちなみに友人で霊能者のスピリMが言うには伊勢神宮は”ペンタゴン”のようなところで機密に段階がある、行く人や状況によって解放される場所に変化があるから、また違う流れで行くと違う顔が見られるよとのこと)

伊勢遺跡は昭和54年に田んぼの下から発見されて、以来少しづつ発掘作業が続いたのだが、弥生時代後期の遺跡としては国内最大級で、計画的に配置され(それは完全に東西南北を把握し、向きが整っている)にもかかわらず、土器などの生活臭がするものが見つかっていないことから「祭祀」を行うところだったのではないかと言われている。

実はこの事実ーー伊勢遺跡なる重要な遺跡が実家から自転車で15分ほどのところにあることーーを知らなかったわたしが最後にこの事実にたどり着いた時、もう明日には東京に帰らねばならぬ日であった。
灯台もと暗しとはまさにこのこと!
それはわたしは次に実家に帰る時ーーそれはおそらく新年ーーには必ず伊勢遺跡を訪れようと心に決めていたのである。

(守山市では、この場所と邪馬台国をリンクさせて町おこしをしているので、卑弥呼の絵が描かれている、可愛い)

イメージ看板。思ったより狭いなあと思ったのだが、さら地になっているのはごく一部で、遺跡が出たのはもっと広範囲に及ぶみたいね。

そして隣に「皇大神社」があります。

webで調べると2013年までは確かに鳥居の左側の古木は「そびえて」いたのに、2019年元旦には切り株になっていた。何があったんだろう。
「皇大神社」をネットで引くと、福知山の元伊勢内宮として同じ名前の神社が出てくる。実はこの福知山の元伊勢は、わたしには縁(ゆかり)があって、ラララ世界にも度々登場するイスラエル師匠、にわたしが初めてお会いしたのが、アラビアから帰ってきた2015年4月なのだけども、いろいろなことが起こって人生が変わってしまったわたしに、彼女が突然「あなたはここに行かなくちゃいけない」と教えてくれた神社が、福知山の元伊勢にある「天岩戸神社」だったのだ。(まだシュラインにアーカイヴしてない)
そこに参ったひと月後あたりからわたしの人生は激変していく。

歴史を調べると、重要な節目となっている神社がだいたい「10代の崇神天皇崇神天皇」「11代垂仁天皇」そしてその娘の倭姫命(やまとひめのみこと)の時代に建設されている。
もともと日本の古神道(こしんとう)では、八百万(やおろず)の神と言って、人々は森羅万象に神を感じていたので、形はなかった。

それを思うと、森羅万象に宿る神々を「形」にするにあたって時の政治というものが影響を全く及ぼさなかったかというと多大に及ぼすわけであるけれど、ともあれそこに一つの法則を導き出すことができるとするなら、元伊勢の内宮に当たる神社に「皇大神社」という名前がつけられている、というそれである。

元伊勢とされている場所はちょこちょこあれど、福知山の元伊勢と、この守山の伊勢遺跡あたり、そしてこのあたり一体を伊勢町と呼び、伊勢町をググってみるとまあ綺麗な正方形で縁取られていることを思うと、おそらくここにそういう正方形のエリアがあってそれは何かしらのエリアであって、それはアマテラス的なものと祭祀的なものと関係があって「それら」があったところをのちに伊勢町と呼んだ、またはあった時に伊勢町と呼んだのではないかなあと考えられる。なのでそういう意味では「邪馬台国」というよりも元伊勢という意味合いの方が強いのかなと思う。

まあでも「何かしら」があったところにそれを祀る形で作られたのが神社だとすると、弥生時代にともかくこのあたりに祭祀が行われていたどでかいエリアがあって、それは邪馬台国なのか、はたまたもっと違う国なのかわからないけれど、そこに何かエネルギーがあったから、弥生時代にそこに何かしらを造ったのだとしたら、時は流れて、伊勢神宮なるものを造る際に、
「そういった由緒の場所がいいんじゃない」みたいになって、同じ場所に建設しても、まあおかしくないのだろうなあと思ってみたり、する。

どちらにしても、元伊勢というのは伊勢神宮があの場所に鎮座する前の話であって、それらは先ほど述べた10代天皇以降の話であるから、
それらもごっそり壬申の乱の前後の「古事記・日本書紀編纂」によって、
真実は闇、である。笑。

まあ、なので(ここには本当は何があったんだろうなあ)(きっと女王がいたんだろうなあ)(もしかして宇宙船の発着場だったりして)と、
決して解き明かせない「古(いにしえ)」に思いを馳せることに意味があるのである。

そんなわけで、何かをつかめたわけでも、何かをビビビと感じたわけでもなかったのであるが、パンフをゲットして、この遺跡が発見された年にわたしは隣町の勝部町で「おぎゃあ」と生まれたのね、とか、そこから39年わたしはこんな遺跡が生まれた町から出たことも知らなかったのね、とか、そういったことを考えていくと実に感慨深い2019元旦の、伊勢遺跡参拝でありました。笑。

帰りにはチャリで、そこから7ふんほどの祖母のお墓に参って、
その後西友で買い出しをし、
産土神の勝部神社に寄って帰宅する。
なかなか乙な元旦でありました。

la la la シュライン、ここからちょっと連続して更新して行こうと思います。

沈んでいく元旦の西日。
それではラララ、la la la シュライン☆


嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ