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VOL.16/胎動は己の子宮から。あまり広げず伝導(拡散)を期待しない。(Byラム子)

こんにちは。肺炎での入院生活が8日目となり、日々のルーティーンができてきました。毎日午後は音楽を聴きながらストレッチやトレーニング、体調はとても良いのですが一度真っ白になった肺を整えるのはまだ少しかかるとのこと。カリウムが足りないということなので野菜ジュースを積極的に摂っています。さて、働きにもいかず毎日自身の体と魂と対話する日々の中で、なんかいろんなことがよりはっきり、明確に冴えてきました、これは皆様に伝えなくては!笑 今、わたし”何かを”「降ろせて」る!笑
そんなわけでお伝えします、胎動は己の子宮から。
あまり広げず、伝導(拡散)を期待しない。

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(⤴︎NYタイムズスクエアにて。2016)

要はこれは「楽しんでやれる範疇」の話です。
”胎動は己の子宮から” というのは、わたしの中で"Something Happen, Change something”に次ぐ座右の銘みたいなもので、それを今日タイトルにつかったので、きっと今日はとても大切な回なのでしょう。

「子宮」という言葉を使っていますがこれは喩えなので、男性の場合は「本能」としましょうか「野生」としましょうか、まあそういった内なる沸点のことでございます。

3/31の「Gifted」でも伝えたのですが、なんだか今ってSNS社会、拡散社会で、なんでも「いいね!」が多い方がいい、何万回リツイートした方がいい、みたいな感じ、なってますよね。いいねやフォロワーを増やすためのコツとかそんなものも氾濫しているし「ちょっとYoutubeに」「ちょっとインスタに」載せてみただけなのに・・・みたいなシンデレラストーリーがあちこちで特集され皆が「明日はあなたがインフルエンサー」みたいなことになってしまっています。そこで。
なんだか知らない内に、出たくないマラソンに出て、42.195キロ走ることになってしまっているような不器用さん、いませんか?笑

それでなんかげっそりSNS疲れして、それで自分だけのための裏垢(裏アカウント)作ったり、してない?笑

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人は、食べていかなくてはならないので、働かなくてはならない。
働くという行為の中には多少、しんどいことも含まれます。
例えばわたしだったら名前を持って小説家という仕事をしているので、
やっぱり定期的にブログは更新しないといけないし、お金を出して読んでくれる読者や、足を運んでくれる観客がいるので、ちゃんと「ありがとう」とか投稿したい。だから自分の都合でSNSを作家の方は休んだりしません。

でも、仕事じゃないものって、人は生きていて選ぶことができるでしょう?
(もちろん”仕事そのもの”だって選ぶことができるのだ)
ちょうど「”しがらみ”のファイナルアンサー」天秤座満月が終わったところ。どうしてもやらなくてはいけないことというのを、ミニマムにミニマムにしていって、じぶんの子宮の中でうごめく何かしらの”胎動”だけにじぶんの焦点をあてて、ささやかに暮らしてみてはどうだろう。

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ささやかに暮らす、って、ちょっと地味に聞こえるかもしれないけど、全然地味じゃない。ささやかに暮らす、ってものすごいい「潔さ」が要る。
つまり「本当にわたしにかまってくれなくて大丈夫」っていう潔さ。
それは自身のことは自身で責任をとる、っていう覚悟やいい意味の諦念(ていねん)、線引きできるタフさが必要で、だからそれって、できたらとってもカッコイイこと。

ふと思ったんですよ。
いいね!がたくさんとか何リツイートあってすごい!とか言うけど、
それって誰かに「いいね!」してもらわないといけない。
リツイートしてもらわないといけない。それって実はとても大切なところを他者に「委ねないといけない」こと。それゆえ「リツイートが増えないかなあ」とか「いいね!してよ〜」とか、他力本願な歩み方になってしまう。

これは”時の逆算”の話と同じで、結果的に、そうなったらすごいことなんですよ。例えば初版500部でそうっと存在していた「おくりびと」という本が、いろんなことを経て映画化されその映画がオスカーを獲って、何十年も時が経ってからとてもたくさんの人に読まれるようになった。これってすごいことだし讃えるべきことだと思うのです。なのでわたしが言いたいのは、そもそも「おくりびと」という本が、始まりの、その胎動の状態で、いいねありきだったかどうか、ということなんです。

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このわたしの記事にいつも「スキ」をくれる人。誰か知ってる。
わたしは毎回、スキをくれる人のページを見に行って記事を読んでいます。
(数が多くないからね、丁寧にできて嬉しいの)
わたしに「スキ」を押してくれる人がどんなことを考えどんなことを綴っているのか、読ませてもらって、頷いています。「スキ」と押してもらったら嬉しいし、コメントくれたら感激します。

でもわたしは、入院していよいよ、このマガジンが海のものになろうと、山のものになろうと、このマガジンは「存在するだけで意味がある」と、
そう、強く強く確信するようになりました。

今わたしは他言できない一つの課題を抱えています。わたしの課題ではないけれどわたしの課題も同然です。それでふと知りたいと思いました。自分の先祖たちのこと。おばあちゃんやおじいちゃんに、かいつまんで聞いた物語だけでなく、たとえばどんな隠された物語があったりするのか。たとえば何か秘密を持っていたのか、何か課題や困難を抱えていたのか。普段の親戚の会話では明かされないこと、会話にものぼらないようなこと。
いや会話にのぼる程度のことでもいい。どんな兄弟や姉妹がいて、どんな関係だったのか。どんな家族で、どんな風に育てられたのか。

父方のおじいちゃんは3人兄弟の末っ子で兄は戦争に行っており、なので10代から薪を担いで長い距離を運んでいたと、それで背が伸びなかったとおばあちゃんから聞きました。橋を作る仕事をしていた。頭がものすごく切れる人だった。だからその息子の父はとても賢い。わたしは父以上に叡智の高い男の人を知らない。(そして自分は、あまり頭の切れる男の人は苦手です。ファザコンではないので笑。)
母方のおじいちゃんは俳句が好きなのに「我悲し」か「我嬉し」で始まる俳句しか書けなかった。笑。でも父方のおじいちゃんはまるで歌人かのような句を、いくつも遺している。その句も5年前、おばあちゃんが亡くなって初めて出てきた。それくらいしか、知らない。

思い出そうとすると、おばあちゃんの家で晩御飯を食べたあと、居間でうとうとしてる子供時代の景色に飛ぶ。おじいちゃんは阪神ファンで、テレビからは「かっとばせーナントカ!」という声援が聞こえてくる。
おばあちゃんがビールをついで、おじいちゃんはそれを飲んで、野球を、見ている。わたしは今この東京の病院にいながら、そのおじいちゃんに語りかける。「なんでもいいから、何か教えて」おじいちゃんのこと。

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今のわたしはそれが知りたい。なのに景色の中のわたしは遊び疲れて眠たくって、野球をBGMにまどろみの中へ深く深く入っていく。ちょっと待って。
わたしはわたしに語りかける。「なんでもいいから何か訊いてよ」
過去は未来を知らない。だから平気で未来のわたしをスルーする。
「今眠いから。明日また訊く」

それでわたしは思いました。このマガジンは存在さえしていればそれでいいのだと。いつか遠い未来に、また誰かが ”何かわたしのことを知る必要あって”  わたしを探し、このページに辿りつくでしょう。その時にこう言えれば言いのです「よく来たね、待っていたよ」

遠い未来から来たあなた、わたしはここにいます。

そして最低限、あなたがいつか来る時のために、これを綴っています。
綴っていきますこれからも。そしてここには「わたし」という時をともに生きた誰かがいて、袖すり合うも多生の縁で、会ったことはないけれど、
スキをくれたり、フォローしてくれたりしながら、わたしが生きた証をの証人となってくれていた。そう、これはそれだけのマガジン。
ささやかだけど全てが詰まった「パンドラの箱」

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広がることだけが全てじゃない。
胎動は己の子宮から。

誰にも知られなくとも、その子宮の綻びを覗けば、赤ちゃんが眠っている。
いつだって答えは、そこにあるから。

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わたしに辿り着いた、子孫のあなたも、また明日ね。
ラララ世界で会いましょう☆

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