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la la la 82. すべてはイニシアティヴの問題であって。(By Banksy[バンクシー]補足)

こんにちは。[la la la 80]でバンクシーのことを書いた時から、ゆくゆく補足をしないとなぁ、とは思っていて、昨日そうするはずだったのにポインセチア案件を優先してしまいましたが、先日の投稿のみだとわたし自身があの出来事を「完全にゲリラと思っているの?」 と思われるかなぁと思い、わたしが伝えたいのは「そこではなかったのだ」と言うことを書こうと思います。

このバンクシーの案件に関しては、先日「スッキリ!!」にバンクシーに直接会ったことがあるライターの鈴木沓子(とうこ)さんがゲストに出演し、MCの加藤さんや、コメンテイターのキャンベルさんなど芸術に造詣が深い面々が語り合うことで割と核心に迫る放送になったと思っているのですが、
そこでも話題になったのがサザビーズとバンクシーはグルではないのか
という話です。鈴木沓子さんは「一部の関係者は知っていたでしょうね」と言い、加藤さんは「商業主義に一石を投じるパフォーマンスで逆に絵の値段が上がったことはどうなの?」と論じ、キャンベルさんは「僕はこれは(彼の持つ二面性があるとして)悪い方のバンクシーだと思う」と言いました。

実際今日その話を親友ともしたのですが、彼女は、
「あまりにすべてが予定調和すぎて、なんか白けた。こういうことって本当のサプライズというかゲリラではできないんだろうね」というようなことを言っていて、そうかなるほど、バンクシーなのに、という意味じゃないけど、スマートにまとまって商業パフォーマンスみたいな、一つの芝居みたいになっているところへの「?」もあるよねえと思ったのですが、
わたしが今日補足記事を書いたのは、そういう"バンクシー”というArtに関して一定の理解があって、じぶんの確固たる見解を述べられる芸術好きさんに向かってではなく、よくはわからないけど先日のわたしの記事を読んで「へえ、そんなことになってるんだ」と思った方々に伝えたいことがあったからです。

つまりわたしが避けたいのは、意見がある人とおのおのの見解を話しあうことではなく、先日のわたしの投稿を読んで「へえ、権力やシステムに、知恵を絞ってこんな挑み方をしたんだぁ」と素直に感じてくれた人が、のちにいろんな情報を得て「でも、やらせだったんだね、ガッカリだ」となり、
「ラム子さんはあれを”ガチ”だと思ってあの記事を書いているのか...... 」
となって、不器用さんが「社会」というものに対していろいろ投げやりになったら嫌だなと思ったからなのです。

なので伝えておきたいのです。わたしが[la la la 80]で伝えたかったことは、その現象の詳細のディディールではなく「すべてはイニシアティヴの問題なのだ」ということだということ。

世界を単純に「白」と「黒」に分けてしまうことにわたしはあまり賛同しません。つまりは誰かの志高い事業も、多少は「黒い」ものたちに支えられて成り立っている、むしろそれ抜きには成り立たないという現実があるからです。(なぜなら世界は3次元から4次元へ移行の真っ最中、三次元は力とお金の世界、移行中の今、まだまだお金は”力の人たち”の元にあるし、世界もまだお金なくして成り立つところまで次元が上がっていないから)

例えば先日、記者クラブでZOZOの前澤さんが「月に行く」関連のインタビューの中で「ZOZOの名前を世界に広めるきっかけにもなる」と回答したことにトルコの記者が「ビジネス的な意図を感じて違和感だった、もっと崇高な目標のもと世界のために月へ行ってほしい」ようなコメントをしましたが、それは株主始め、その事業を支えているいろんな人間、いろんな側面のために「別に思っていなくても」言わなければならなかったはずの発言であって、その角度から考えたらトルコの記者だって「わかっているけど」そう指摘しなければならなかったのかもしれないし、
つまりはそういうことだと言いたいのです。

なんだ、バンクシーってそういうアナーキーなというか、ジプシー的な、誰にも管理されず何にも属さない、つむじ風のような人だと思っていたけど、結局オークション会社と組んでいたじゃん、と言って終わってしまったら、
わたしが伝えたかった「イニシアティヴの問題」ではない問題に帰結してしまう、ということが伝えたいのです。

確かにこれは、もしかしたら、よくできた大芝居かもしれない。
でもそこはわたしには(あくまで個人的な見解として)問題ではないということなんです。

まず、サザビーズがグルだとしたら、これはまずArt界における激震であるし(なので当然サザビーズは関与を否定しています)、
同時に、鈴木沓子さんがおっしゃっていたようにサザビーズがバンクシーという芸術家を解し ”裁断まで、または及び人々の反応までをartと捉えて”
この一連の出来事を「黙認」したとしたとしても、それ自体もまた革命的な事件と言えるわけです。
そして仮になんとなく「買っておいた方がいい」と1億5千万で落札した人がいたとしても、きっとこのパフォーマンス以後のこの作品は、よりもっとニッチなファンがそれ以上で買いたいとなると思っていて、
つまり当初投機目的で買った人より裁断後の絵を欲しがる人には「ほんとにこの絵が欲しい人」のパーセンテージが絶対増えると思うわけで、だとしたら投機目的の人はその人にまた売ってそれでさらに得するわけだし、
買った人は本当に欲しくて満足するわけだし、
もし仮に最初に落札した人が「サザビーズ」から極秘に裁断の計画を打ち明けられ、絶対もっと上がるからと言われて1億5千万で落札したかもしれなくても、ともかくどんなシチュエーションであっても、すべてのイニシアティヴがバンクシーにあること、これをわたしは讃えたかったのです。

イニシアティヴ。
社会は理不尽なものであり、本当のゲリラ裁断など許されないとして、
なのにそれをサザビーズに極秘でも許可させるバンクシーのイニシアティヴ。そして自分の預かりしらぬところで自分の作品が、投機目的の富裕層によって勝手な値段をつけて好き勝手されるであれば「じゃあその値付けを、こっちで操作させてもらうけど?」というイニシアティヴ。
彼は彼の芸術に関して、一切イニシアティヴを奪われることなく、このゲリラ裁断事件を通しても、もっとも彼らしいやり方で彼の「主義」を反映し、
さらにその名声を高めた。それが凄いなと思っているんです。
今後さらに彼の行動は世界の注目を集め、そんなタイミングでもし彼が「ゲルニカ」のような作品を発表したら、もしかしたらその時世界が一気に変わることもあるかもしれません。

わたしが思っていること。
権力に歯向かう反社会的な人が、ワイルドに反社会的だとアウトローでかっこいい、でも上手に社会の仕組みを使うと、
「結局そっち側なんかい、信じていたのに」となる。
それは違う、と思うのです。
そのやり方だと例えて悪いのですが「貴乃花」みたいになってしまう。
コントラストを際立たせたせいで、変えたい社会が、逆に変えづらくなってしまう。

だからわたしは「見え方」や「解釈」はどうとられてもいいと思うのです。
偽善者に見えてたって、生粋の悪党に見えてたって。
大事なのは「イニシアティヴ」です。この案件の「誰が」イニシアティヴを握っていたのかということ。
すべてはイニシアティヴの問題であって。と、わたしは考えているのです。

つまり今日の記事は「イニシアティヴ」に関する記事であるので、
バンクシーを知る人ーーたとえば親友が言うようにーー
「いろいろわかるんだけどなんか面白くないね」
みたいなことは共感できるしわかるのです。
もっとハチャメチャやってよ、バンクシーなら。そういう感じね。
枠にはまらないのがバンクシーなのに、めっちゃ枠に入ってたじゃん、
という感じ。

それはもう個人的な感想や見解の域であって、
清志郎は原発の歌や反戦の歌をたくさん残したけれど、わたしにとって清志郎はやっぱりそこじゃなくて、トランジスタラジオを聴きながら、一緒に暮らそうよBaby♪ とか陽気に歌ってて欲しいという願いとかと同じ話だと思うので、バンクシーを知っていてバンクシーを好きな人が彼に望むことを否定しているわけじゃないことを最後にお伝えしておきますね。

それではらるらるらん♪
ラララ世界で会いましょう☆ 


嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ