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la la la 81. 「終わりは始まり」「終わりと始まり」(By も)

こんにちは。今日の投稿は、何かしらのコツの伝授と言うより ”感じてもらう” 内容になります。この写真は一見、このマガジンのアイコンになっている写真ととても似ていますが、実は少し違う写真です。
アイコンになっているのはポインセチアの鉢で、わたしの母が、わたしの手でこんなにスクスク育つなんて「よっぽど賢いポインセチア」やなと称賛したことから「賢いポイン」とわたしは名付けました。このポインセチアと引っ越しも一緒にしながら約1年半ほどかな? 一緒に暮らし、わたしにとって、初めて一緒に長く暮らした植物というのもあり「この子」と呼べるほど、どこか擬人化というか相棒のひとりのような感じで一緒にやってきました。

実はわたしはこの夏に8月に1週間ほどちょっとしたことで入院したのですが、その入院中もこの「賢いポイン」のことが気がかりで病院を日々抜け出し、その状態を確かめていました。酷暑の最中でしたが、やはり「賢いポイン」とても元気にしていました。けれどもわたしが退院してきたのと入れ替わりに、なぜか”突然”そのポインはほぼ一晩で萎れてしまい、数日の看病も虚しく、あっという間に葉が落ちて枯れ切って、しまったのです。

わたしはこのことをうまく受け止められずに「なぜ!?」という感じでいました。霊感的には「わたしのリニューアルと引き換えに世界ーーどちらかという取引先の、悪。わたしの最後の取引と言えるーーがこれを召すことで許してくれたのだろう(つまり本来はわたしの命を欲しかった)」と感じましたし、実際イスラエル師匠はじめ、周りにいるすべての霊能者がわたしにそう言いましたし「ありがとうと思ってさよならしなさい」と言われましたが心ではうまく消化できていませんでした。
(※えっと医学的にはわたしの症状は結果なんともなかったのです。重篤な病気も一切なく、それなのに不可解な症状が続き緊急入院となったその背景に理由があるとするならという仮定の取引の話)

ちょうどそんな時、近所に住む「緑の手」を持つ女性の彼氏さんが「うちで診てあげようか」と言ってくれました。「緑の手」とは特に知識や造詣があるわけじゃないのに、感性で植物が求めていることがわかる、を育てるのが上手な人のことです。わたしの母なんかもそう。けれどその方でもこのポインセチアはもうダメだということで、わたしは心に区切りをつけて、9月は実家で過ごしていました。

9月まるまる実家で過ごすことで、わたしの体内、魂、エーテルのメンテナンスはこれからの時代に合わせて完了しました。それはスピリチャル的に言うとアセンションが完了し、次元が上がったということになるのですが、
だからってわたしが特別な人間になったわけではなくって、iPhoneのOSを最新にアップデートしたような感じと言えるわけで、皆様も各々のOSを最新にアップデートすることは当然できますし、そういったことに繋がるための「東の魔女の暮らし」です。

ともあれわたしは9月末の、宇宙的にも意味のある陰陽統合の秋分の日あたりまでで、これまでの自分を大きく断捨離し、ほぼほぼ新しい生命体としてスタートするのだなあということを、ひと月かけて理解しました。
それは同時にこれまでの自分の終わり、これまでの自分の喪失でもあります。その幅が「ここ数年」とか「この1クール」とかでなく、漠然とですが「18歳くらいからこれまでの人生全部」みたいな具合だったので、
わたしも内心(結構長い重要な期間を断捨離するやん!)という感じはあったのですが、笑、必要なことだと理解して、それらすべてを受け入れることにしました。

「賢いポインセチア」を新たに再生させるプランは実は実家に帰る前から考えていました。実はポインが育ちすぎていた時に、初めての剪定をしたのですが、剪定慣れしていないわたしはそれも命の一部のように思ってしまってなかなか捨てられず、それら一部を、ガラスのコップのようなものに入れて生かしておきました。なので、もしかしたらそれを土に挿せば、また鉢が出来るのではないかと思っており、東京に戻ったらそれをするつもりでした。
けれど、ネットなので見ていると、あちこちのページに、茎から根が出る「発根」を待つように書いてあります。我が家のそれらはもう数か月前にコップに移しているにもかかわらず、一度も発根していません。
んーむ。
ガーデニングに詳しい人なら「そんなの大丈夫よー」って感じかもしれませんが、わたしは不安で(どうしたらいいのかな)と思っていました。

そしたら東京に戻った際に、ふと玄関において置いたガラスの金魚鉢のポインセチアを見ると、なんと!!ワオ!
発根しているじゃありませんか!!!笑
わたしの不在のひと月の間にポインが発根している!笑

実は方位除けもあって滋賀に帰る際に、友人の霊能者のスピリチャルMが、ちょっとした頼みごとを土地の精霊にしてくれました。ちょっと詳細は明かせないのですがわたしにはその発根が「諸々完了したよ☆」という、精霊からのサインのように感じたのです。晴れの日を待って、わたしはそれを鉢に植え替えました。終わりと始まり、終わりは始まり。
「どこか似ている、けれどもまるで違う」
新しい世界(日々であり時代)の始まりです。
これは少し深いところで行くと、わたしが滋賀でいろいろ調べて「シュメールの突先」にも書いたりしたような、わたしたちのルーツや、DNAや血の話にも繋がって行くなあと思いました。
つまりマグダラのマリアの話もしかり、です。つまり大元が消滅してしまっても、このようにどこかでお預かりしていた命の一部が(枝葉であったものたち)がそれらを消し去った人間の預かり知らぬところでまた新しく育ち、いずれ「幹」になる。そしてまた歴史の主役となり戻ってくる。こういった物語を、繰り返しながら世界はここに在るのではないかなと思いました。

ひとつの終わりと新たなる始まりをここに記します。

わたしの小説は、基本的には男性ウケがあまりしない。「で、何が言いたいの? それがわからない」と友人男性たちにも言われてしまう。
きっとそれには、一つの物語の終わりがあって、そこを結論とし、ピリオドを置くのではなく、また新たな何かが始まるところで物語が終わるようにしているからだと思います。終わりと始まりというより、終わりは始まりだということなのです。これはわたしが小説家としてもっとも大切にしている部分なので(By も)としました。
今日はもやんとした抽象的な回になりましたが、9月の満月のあたり[la la la 74] で書いた「あん」の話や、タロットの「世界」の話は、こういったことを伝えたいということでもあるのです。

ちょうど昨日は新月でした。
明けて本日、当たらな世界の始まりを記念して。

それではらるらるらん♪
ラララ世界で会いましょう☆ 


嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ