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VOL.3/知覚の扉が清められたなら(By ウイリアムブレイク)

こんにちは。まずは率直にお詫び。
3月から新しい生活が始まりまして、そのルーティーンやサイクルがまだ安定せず、落ち着いてラララを書く時間を見つけられず、今日に至ります。
来週の半ばには整ってくると思います、楽しみに覗いてくださっているお方、今週あまり更新できていなくってごめんなさい。

さて。知覚の扉が清められたなら。
本当はこの言葉は続いていて、知覚の扉が清められたなら”物事はありのままに、無限に見える”となっています。ウイリアムブレイクという詩人の著書「天国と地獄の結婚」からの引用です。でもこの言葉難しいと思うので、わたしが今週強く感じたこととしてこれを伝えていきますね。

今週強く感じたこと。
今週というかここのところ強く感じていることはこうです。
世間や他者に求められていることと、じぶんがやりたいことが時に違うということが世の中には多々ある。例えば今週ユーミンのコンサートに行ってきたのですが(それはまた今度詳しく)、観客ってあたりまえに、誰もが知ってる往年の名曲たちを聴きたいと思っていきますよね。
でも、数多ある楽曲の中にはヒットはしなかったけれどじぶんはとても大切に思っている曲や、時の流れとともに、今はそういう気分ではなくなった過去の曲があったりなんかすると思うんです。つまり当然こっちはユーミンの気持ちとか考えずにただワクワクしてライヴ会場にいくのだけど、表現者本人にもきっと今回のように活動40周年の節目のライヴなんかは「表現したいこと」ってあるはずですよね。それがいい感じに噛み合っていたらいい。でも少しギャップがある時がある。

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これは別にミュージシャンじゃなくたって日々みなさんが社会とつながり職を得てお金を稼いでいれば直面する課題だと思うんですよね。
「この会社に入ったらこういう仕事ができると思っていた。でも実は真逆のアプローチしか存在しなかった」などなど。

わたしは最近すごく「求められている以外のことをするな」という強い圧を世の中に感じます。これはわたし自身に関して感じているのではなく世間に対して感じています。そしてわたしはそういった「歪んだ知覚の目」から皆を解き放ちたい!と強く思うんです。この話には続きがあって、
「求められている以外のことをするな」という強い圧がある世界なんだけど、そこに向かってさらっと勇気を発揮できるというか、そういう人間に人が勇気づけられているという矛盾も存在します。
例えば嵐のように現れ、そよ風のように業界から去った「ぼくりり(ぼくのりりっくのぼうよみ)とか。彼は引退直前「応援してきてくれたファンの方々に対して無責任とかそういうことを言われる可能性についてどう思いますか」と聞かれた時こう答えました。「すごく変な言い方だけども、今の時代、何か始めたことをやめたくても辞めれない人が多いと思っていて、だとしたら僕がこうやってここで何かをすべて捨て去るという行為で、そうしたい人たちの代わりにというか、そうすることで誰かを勇気づけることもできるかもしれない」

わたしは今日のこの課題は冷静に言うと「さじ加減」がすべてだよなって思っています。つまりTPOってあるし、クライアントの意向ってあるし、例えば応援してくれる人に対する思いやりみたいなもの。今日大きく広げたトピックをすごく小さく現すならば、ある人がくれたキーホルダーが実はあまり好みじゃないから身につけたくないのだけど、今日その人と会うからせめてそれをつけていこうか、みたいなこと。すべてをじぶんの思うようにしようと思ってもそれは無理な話だし、じぶんはこれが好きだけど、相手はじぶんのこれを求めていてそこには乖離があるという日々の中でどう生きるか。

わたしは「自己表現」を貫く隙間を常に見出すように生きて欲しいと思っています。もっと逆説的に考えてじぶんがしたいように、生きたいように生きるためにじゃあ、手前で何をしておく必要があるかとか、そういうこと。
(えっとここが難しいのですが”逆説的”と”逆算的”は全く意味が違います。
逆算は時間を帯のように扱ってしまうので、時間の隙間に落ちてしまいます。逆説的というのはコインの裏表のように、発想を転換する、あるいはある地点とある地点をひっくり返して考えてみるってことです。)

つまりじぶんが「やれること」や「強み」「やりたくはないが得意なこと」などは、誰かのニーズによって削り取られ磨耗するために発動するのではなくって「来るべきじぶんの瞬間」のために発動して欲しいということ。
そしてそれはなんども時間の秘密に関してお伝えしているように「これをやらせてもらえるならこれをやります」みたいな取引や、逆算から生まれるものではなくって、今この瞬間にやっているこれが、ダイレクトに「やりたいこと」に直結していくと信じていくという意味合いです。

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🌀  地獄とは地球上の偽善のことである。
✏️  ヴィジョンは視覚ではなく精神(スピリット)を必要とする
👀  生活の中の狂気、死の中の天才

ヴィジョン。人が目の前で目にしている、形になっている世界すべて、それが「知覚」によってかたどられているなら、その扉が汚れていたなら、ありのままに無限には見えない。「視覚ではなくスピリット」
たとえば誰かの手作りのお弁当を、清められた知覚で見つめるなら、
そのお弁当箱の色彩やレイアウト(視覚)をヴィジョン(投影)し、
「下手くそなお弁当」と捉えるのではなく、
いびつな形のノリとかで顔が描かれたおにぎりなどに、
「お母さんに愛されているね」と、
お弁当に託されたスピリット(精神)をそこに見ることができなければならない。スピリットこそ本質そのものです。
それが「ヴィジョンは視覚よりスピリットを要求する」という意味なのではないかなって思います。

これを逆説的に捉えるなら日々人間はその時のトレンドや時代や時流やいろんな事象によって、その知覚がくすんだり、汚れたりしていく可能性があって、例えばそれらの目によって「あなたは下手くそ弁当人間」と大多数の他者からレッテルを貼られているかもしれないけれど、その人たちが本当に正しく、あなたの本質的なスピリットに目線を、知覚を合わせられているかは謎であって、大多数他者の評価は時に幻影だと、わたしは言いたいのです。
けれどもそうは言っても「幻影」が大手を振って歩いている昨今、まわりが皆王様が裸なことに気づいていなければ、小さく「裸だ」とつぶやいても、その声は大衆の唸りの中でかき消されてしまうでしょう。
だからこそ、だからこそ、
じぶんの中のスピリットまでは失わないで欲しいのです。
じぶんだけはそのスピリットと感性を肯定し、じぶんのヴィジョンを信じ、
いつか「あれは裸だよ」と言うために生きていく。

やりたいことをやり抜くために、
今ここでこの瞬間何ができるか。
そういう時に搾るのが「智慧」であり、そこで生まれるものがアルス(芸術)です。あなたのアルスを見失わない。

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それでは、ラララ世界で会いましょう☆


嬉しいです ( ´ ▽ ` )ノ