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マラソン界の洗脳

1.マラソンで結果が出せないのは練習量が足りないから?

 中山竹通さん、瀬古利彦さん、宗さんご兄弟、有森裕子さん、高橋尚子さんら往年の名ランナー達の口から頻繁に「最近の選手は甘い」、「練習量が少ない」という意見が出ています。特に瀬古さんは有力選手が後半失速する度に頻繁にマスメディアに向かって「練習量が足りないから」とおっしゃるようになりました。中山さんが競技をやっていた環境と比べれば、確かに環境は良くなっていますし、練習量が少ないのも事実です。

日本のマラソン界を背負ってこられた大先輩方の貴重なご意見はとても参考になります。私自身高校、大学と往年の名選手ご自身が執筆された本から、瀬古さんの一つ下で同じ早稲田大学の競争部として箱根駅伝を走られた経済小説家の黒木亮さんの私小説『冬の喝采』までたくさんの本を貪るように読んだものです。

 しかしながら、あまりにも「マラソンで結果が出せないのは、精神的に甘くなったから」、「マラソンで結果が出せないのは練習が楽だから」という意見に傾き過ぎではないでしょうか。そういった意見にも一理あるかもしれません。しかし次のような例はどのようにお考えになるのでしょうか?1988年のびわ湖毎日マラソンに臨むにあたって瀬古さんは40㎞走を2時間3分台でやりながら、レースでは2時間12分かかりました。2時間6分台で走った藤田敦史さんは2005年の福岡国際マラソンに臨むにあたって練習で30㎞を1時間29分50秒でやりましたが、レースでは2時間09分48秒です。元ハーフマラソン日本記録保持者の高橋健一さんは2001年東京国際マラソンの一か月前に40㎞走を2時間04分13秒でやりながら、レースでは2時間10分51秒でしか走っていません。しかもそれが生涯ベストです。

原因と結果の関係性を見誤っていないか?

 先述した3つの例を挙げてもまだこのように言う人がいます。「それだけやってもレースでは結果が出せるとは限らない。マラソンは甘くない」と。しかし考えてみてください。寧ろ真実は練習でそれだけやったからレースでは結果が出せなかったのではないでしょうか。結果が出せたか出せなかったかという基準はあいまいですが、少なくとも練習に見合った結果ではないと言えるかと思います。トレーニングの目的は練習→休養→適応という過程を繰り返すことでレースのスタートラインに立った時、最大限の力を発揮できるようにすることです。しかし、上記の3つの例を見てください。練習で強くなったからレースで走れたというよりは、練習でそれだけ走れる時点で、レースで走れる力があるのです。その練習のお陰で強くなったのではなく、その練習をやろうがやるまいが、そもそももうレースで走れる状態になっていたわけです。瀬古さんの例に至っては、レースが練習より遅くなっています。

 これは2012年の東京マラソンの藤原新さんの例を見ても同じです。このレースに向けての準備で藤原さんは練習の段階で20㎞を59分ちょうど、25㎞を1時間14分10秒でされています。レースのタイムは2時間07分48秒でした。では、藤原さんが日本記録を更新するために必要な練習は25㎞を1㎞2分55秒ペースで走ることでしょうか?まったくもって馬鹿げた考えだと言わざるを得ません。

何故馬鹿げているかと言えば、非現実的であるだけでなく、リスクとリターンが全然合わないからです。

それに加えてもう一つの単純な疑問があります。それは「25㎞走を一キロ2分58秒ペースでやったから、マラソンを2時間7分で走れたのか、それとも、練習で25㎞走を一キロ2分58秒で出来る時点でマラソンを2時間7分台で走る力があるのではないか?」という単純な疑問です。個人的には後者の方が正しいような気がするのですが、皆さんはどう思いますか?

2.リスクとリターンの関係性

 ここで練習におけるリスクとリターンの説明をしましょう。先ず、練習におけるリターンですが、練習の負荷を横軸に練習から得られる利益を縦軸に取った場合、二つの変数の関係は経済学における収穫逓減(しゅうかくていげん)の法則と同じグラフになります。と、これだけで理解できる人はほとんどいないと思うので例を挙げて説明します。全く走っていない人が週に20㎞走るようになるとどんどん走れるようになるでしょう。しばらく慣れてくると週40㎞に増やすかもしれません。その時も明らかに走力が向上するでしょう。しかし0㎞から20㎞に増やしたときほどではありません。更に慣れてきて週40㎞から週60㎞に増やしたとします。この時も走力は向上するでしょうが、週20㎞から週40㎞に増やしたときほどの上昇ではありません。このあと週80㎞に増やせば更に走力は向上するでしょうが、40㎞から60㎞に増やしたときほどの上昇ではありません。すでに何年もトップで走っているマラソンランナーであれば週200㎞から220㎞に増やしてもほとんど練習効果が変わらないかもしれません。勿論実際には総走行距離はたった一つの要素でしかなく、他にも様々に要素があるので話はこう単純ではないのですが、基本原理はこのようになっています。

次に故障やオーバートレーニング、病気で競技力が低下するリスクと練習の負荷の関係ですが、これは収穫逓減のグラフを反転させたグラフになります。週20㎞から40㎞に増やしたときのリスクは、週40㎞から60㎞に増やすときのリスクより低く、週40㎞から週60㎞に増やすときのリスクは週60㎞から週80㎞に増やすときのリスクより低くなります。  

これが意味するところは練習の負荷が上がれば上がるほど練習の負荷を上げるときはより慎重にならねばならないということです。何故なら、予想される練習効果の増加はより少なく、リスクの増加はより多くなるからです。

さて、この原理を考慮すれば「マラソンで結果が出せないのは練習が足りないから」という意見で覆われている日本のマラソン界の危険性がわかっていただけるでしょう。まあ、それでも箱根駅伝で毎年多くの選手が好成績を残している日本では適者生存方式で、高負荷の練習の中で生き残った選手がマラソンで活躍するというやり方で良いのかもしれません。実際、私が何を言おうが過去の実績では太刀打ちできないのですから。

しかしここで少し違う観点から指摘しておきたいことがあります。実業団の選手、監督に決定的に欠けている視点が一つあります。それはリスクとリターンの関係性です。トレーニングを考える上で、常にリスクとリターンの関係性は頭に入れておくべきです。瀬古さんや中山さん、高橋さん、有森さんが精神的、肉体的にとびぬけた強さを持っていたことは明らかです。それで次の瀬古さん、中山さんが出てくるまであと何年待てば良いのでしょうか?過去30年で瀬古さん、中山さんに匹敵する選手が何人いたのでしょうか?これでは健全なチーム運営は出来ません。競技を続ける年数も問題です。瀬古さん、中山さんは長く安定した成績を残してこられました。それでも引退は32歳の時です。高橋尚子さんも同じ年齢です。これでは少し短いと言わざるを得ないでしょう。まあ当時は金銭的インセンティブが今ほどなかったので競技を続ける理由がなかったのかもしれませんが。それに加えて、それ以外の多くのトップランナー達は更に短命です。これも健全な選手育成とは言い難い面があるように思います。本人の意志で辞めたくて辞める分には仕方ないのですが、本人にはまだやる気があるのに一時的にしか結果を残せないのは問題です。一時的に上手くいった面だけに目を向けて成功の裏側にあるリスクに目を向けていないというのがよくあるパターンです。もう一つは「40㎞走を2時間4分台でやった」のような他人に誇れる部分だけに焦点を当ててしまい、トレーニング全体でコツコツ積み重ねてきたものを忘れてしまうのが、もう一つのパターンです。

3.特異性と一般性

 先ほどのリスクとリターンの関係性を説明するにあたっては総走行距離というたった一つの変数に絞って説明しましたが他にも、練習の質、組み合わせ、体幹補強などの補助トレーニング、日常生活におけるストレス、休養の質など様々な要素が組み合わさってリスクとリターンの関係性は決定されます。そのすべてをここで説明することはできませんが、特異性と一般性については説明したいと思います。

特異性というのはそれがどれだけ自分の専門種目に近いかということです。マラソン選手にとっては42,195㎞をレースペースで走るのが最も特異的なトレーニングです。逆に400m20本を速いペースで走る練習は負荷は高いですが、特異性は低く、一般性は高いです。特異性とは専門練習で一般性とは土台を作る練習と思っていただいて構いません。従って、順番としては常に一般的トレーニングからより特異的な練習へと移行していきます。どれだけ高いレベルで特異性を作れるかはどれだけ高いレベルで一般性を構築できるかにかかっています。マラソン選手でもトラックやロードレースに集中する時期があるのはそのためです。

マラソン選手はどこまで特異的な練習を取り入れるかということも重要なポイントになっています。何故なら、5000mのように一週間ごとに何本も走ることが出来ないからです。回復に時間がかかる上に長期間トップシェイプを維持することはできません。逆に言えば、川内優輝さんのように長期にわたって同じようなタイムを出せるのであれば、それは如何に他人から見て好タイムであったとしてもその人のトップシェイプではあり得ません。ここから導かれる結論は、練習で30㎞を1時間29分50秒や25㎞を1時間14分10秒で走っている選手は、狙ったレースで結果を残せなくなるリスクが高まっているということです。何故なら、その時点でトップシェイプに到達してしまっている可能性が高く、レースまでそれを維持しなければならないというのに加え、かなりの高負荷なので故障やオーバートレーニング、病気の罹患率が高まるという二重のリスクを負うことになっているからです。

それに加えて、30㎞1時間29分50秒や25㎞を1時間14分10秒というのはほとんどのレースで勝てるタイムです。レースを選べば、良いお金が稼げるでしょう。お金を稼ぐ機会損失にもつながっています。

4.終わりに

「この世界は結果がすべて」、「勝てば官軍」といわれるものですが、現場でやっている人間は結果だけ見ていてはいけないと思います。良い結果の裏側にも当然リスクはあったわけですし、上手くいかなかったケースにおいても当然得ようとしていたリターンがあって行動に移していたわけです。マラソントレーニングは結論としては『マラソントレーニングのアンチノミー』に書いたように1負荷と休養、2質と量、3一般性と特異性の3つの調和に収束していきます。これがアルファであり、オメガで他に何も考えるべきことはないのですが、この3つのアンチノミーに対する応答を考えることは実はこの宇宙全体を考えるに等しい作業だということは次回の記事でお話しします。

追伸

今回も私の記事を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。そんなあなたへの限定情報です。

今はインターネットを使ってなんでも情報が手に入る時代ですが、この時代においてもランニングに関する本質的な情報は手に入らないというのが真実だとあなたは思いませんか?これは単純な話で、実業団の監督さんや実業団の選手が理論立ててインターネット上に陸上競技に関する記事を書くでしょうか?優れた指導者や選手ほどわざわざインターネット上に本質の部分を書かないですよね?

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