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鎮綏椀傳奇(ちんそうわんでんき) 第7章 脱出

時代は唐の初め。
唐と突厥の勢力が拮抗する西域で、娘たちがいなくなる事件が起こっていた。同じ頃、取るに足らない古びた椀が、信じられない高額で取引されていた。そのことを訝しんだ義賊・女狐は手下の黒豹・雪豹の二人に命じてその謎を探らせる。
突厥に変わって草原の覇者になろうとする薛延陀。生贄を捧げ、教祖摩尼を蘇らせようとする明教の司祭。様々な思惑が交錯する中で、二人は生贄になろうとする娘たちを助け出し、明教の陰謀を防ぐべく動き出す。

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第7章 脱出

「やっと見つけた……」
 男はゆっくりと三人に近づいて来た。バガトゥールは反射的に前に出て二人をかばった。
 それを見て、男は嬉しそうに笑った。
 目をそらしたら負けだと思い、バガトゥールは必死に睨み付けた。心臓が口から飛びでそうだった。
 その時――
 ガンと音がして、男は前のめりに倒れた。
「悪い、遅くなった」
 黒豹は男を足で踏みつけると、申し訳なさそうに言った。
「黒豹! 遅いよ」
 バガトゥールは嬉しそうに言った。
「すまん。ちょっとな」
 彼はアイーシャを背負いながら申し訳なさそうに言った。
「ちょっと湿気っぽいけど、気にしないでくれ」
「何やったの?」
「別にいいだろ」
 黒豹はバガトゥールの頭を軽く小突くと、その手で姫の手を取った。
「とにかく行くぞ。これから騒がしくなる」
 姫はその手を、ギュッと握り返した。
「ねえ、この人、死んだ?」
 バガトゥールは倒れている男の様子をチラリと見て聞いた。黒豹に踏みつけられてもピクリともしない。
「さあな、急所は打ったが……いちいちトドメを刺す暇ねえよ。いいから早くここから出ろ」
 と、彼が言い終わるや否や、もの凄い爆音が続けざまに響いた。
 姫とバガトゥールが悲鳴を上げて外に出ると、教会の方からもくもくと煙が上がっているのが見えた。屋根の上では、雪豹と摩勒はこちらを見て嬉々として手を挙げ、合図をした。そしてさっと姿を消すと、再び爆音が立て続けに響き、それ以上の煙がこちらの方まで漂ってきた。
「アイツら……楽しんでるな」
 黒豹はため息交じりに言った。彼ら四人の横を、慌てふためいた兵士たちが教会の方に走っていった。
「あれ?」
 こちらに気づかないことに、バガトゥールはビックリした。
「いいんだよ。薛延陀兵あいつらは同時に二つのことに注意が回るほど器用じゃないんだよ」
 馬鹿にしたように黒豹が言っている間に、今度は違うところで弾ける音が響いた。兵士たちは一斉にそちらの方に駆けていった。
「これ、一体何なんだよ?」
 耳を塞ぎながら大声でバガトゥールは訊いた。
「何って、お前の先生が作ったヤツだよ」
 同じく大声で黒豹が答えた。
「あーっ! 解った!! 一つ目が毎晩作ってたのだ」
 下僕とは言え、昼夜を問わず扱き使われているのか……と黒豹は一つ目にちょっと同情した。
「お姫様たち、これ、音すごいけど安全なやつだよ!」
 バガトゥールは大声で二人に言うと、彼女たちも耳を塞ぎながら頷いた。
「いいか、この隙に他の四つの穹廬を回って十人を助け出す」
 また違うところで爆音が響いた。初手からド派手に仕掛けているらしい。
「行くぞ」
 黒豹は兵士の流れを見ながら、隣の穹廬へ走った。

 男――司祭は外の騒ぎで目を覚ました。
 暗い室内には、誰もいない。
(光明は……?)
 痛む頭を押さえながら、司祭は懐から水晶玉を取り出した。そして、遠ざかりつつもまだ近くにいる“光明”へ、呪術で作りだした網を放った。
 水晶玉には、縞瑪瑙オニキスのように黒く輝く網が姫とバガトゥール二人の元にまっすぐに向かっていくのが映っていた。あと少しで二人を捉える。その瞬間――
 サラサラと砂のように網が崩れていった。
「――?」
 バガトゥールも黒豹も、その時の異変に気づいた。
「やっぱり、呪術が来てるな」
「うん」
「お前、絶対彼女の手を離すなよ」
「おう!」
 バガトゥールはつないだ手を上に掲げて黒豹に見せた。
(連れ出せたのはやっと半分――先は長いな)
 黒豹はふっと息をついた。
 この騒ぎの中でお嬢さんたちを連れ出すのが思いのほか大変だった。
 近いところで起きる爆発におびえきった少女たちは、音がするたびに悲鳴を上げて歩みを止めた。主従関係はしっかりしていたので、姫の叱責が飛べばまた歩き出すが、音がすればまた同じ事の繰り返し。
 と、そこへ向こうから小麦色の髪をなびかせ、白馬に乗った男がこちらに向かってきた。
コロ!」
「兄さん! 手伝いに来ましたよ」
 胡仂は彼らの前に馬を止めると言った。
「あっちの娘さんたちは人数多かったけど無事ここを出ました。摩勒も合流しましたし、石亀の兄さんがこっちの方が大変だろうからと言ってくれまして」
「大丈夫か」
「こっちと違って爆音から遠いこともあって、娘さんたちもみんな落ち着いてます。唐軍が出てるからそちらに向かって逃げるようにと言ったら、どの穹廬にいたも素直に従ってくれました」
 それは胡仂こいつの顔のせいじゃないかと、黒豹は内心思った。
「唐軍は?」
「あの書状を渡したら、“蟻の巣”をつついたような騒ぎになってすぐに軍が動きました」
「“蜂の巣”な」
 黒豹の突っ込みに、胡?は少し照れたような笑みを浮かべた。
「とりあえず、動くかどうか半信半疑で少し様子を見ていたんですが、杞憂でした。動かなかったらその辺の将校を捕まえて、手練手管で言うこと聞かせようと思ったんですけど」
 白い歯を見せながら胡忇は言った。
「驪龍先生の言ったとおり、ここから五里ぐらいまでは軍は来そうか」
「ええ、おそらくは」
「それにしても、この爆音によく馬は平気でいるな」
「ああ、最初は驚きましたが、普段から言うこと聞くようによく仕付けてるんで、もう大丈夫です」
 胡仂の言葉を聞いて、少女たちが「私も仕付けられたい」と呟くのを黒豹は聞き逃さなかった。あいつは歩く媚薬だなと、彼は思った。
「悪いが、怪我人がいる。この子をその馬で先に連れて行ってくれないか」
「承知」
 黒豹は背負っていたアイーシャを、胡忇の馬に乗せた。
「それで、彼女を安全なとこまで連れて行ったら、すぐ戻ってこい」
「了解。兄さんのためなら何往復だってしますよ」
 そして胡仂は少女たちにも言った。
「お嬢さんがた、私もすぐ戻りますから、兄さんの言うことをちゃんと聞いてくださいね」
 少女たちはぽーっとした顔でその言葉に頷いた。それを見た黒豹はコホンと咳払いをして言った。
「ついでにもう一つ、あっちの二つの穹廬にいる連中にも、同じようなこと言ってもらってもいいか」
「承知」
 白い歯を輝かせて、胡仂は笑った。

 司祭は頭を振った。
 手を変え品を変え、あらゆる術を放っても、すべて手前で消えてしまう。
(私の力不足か……?)
 司祭は、教会で“あの”力を借りようと、穹廬を出た。
 出たところで爆音に右往左往している薛延陀兵を怒鳴りつけた。
「お前たち何している! 亀茲の姫が逃げたぞ。早く捕まえなさい」
 ほとんどの薛延陀兵がそこでようやく姫が再び逃げていたことに気づいた。
「ほかの娘はどうでもいい。亀茲の姫と一緒にいる少年を捕まえなさい。さあ、早く!!」
 兵士たちは、司祭が指さした方へ慌てて駆けていった。

「危ない!」
 バガトゥールの声に反応するように、黒豹は環首刀を振るった。
 先ほどから、兵士たちの流れが変わった。
 相変わらず爆竹に振り回される兵士とは別に、こちらに気づいて追ってくるのが明らかに増えた。
(相手もこの音に慣れてきたか。こいつら時間がかかりすぎなんだよ)
 何かというときゃあきゃあ言いながら足を止める少女たちにとにかく手を焼いていた。
 あと少しで宿衙から出られる。そうするとしばらく身を隠せるところがない。ここから先は一気に走るしかないんだが。
 黒豹は上衣を脱ぐと、バガトゥールに放り投げた。
「黒豹!?」
「そいつはお前の先生がくれたヤツだから返す。そいつがあれば斬られることはない。この連中を食い止めている間に走って逃げろ」
 バガトゥールはそれを聞いてすぐに姫に羽織らせた。
「急げ」
 少女たちを急かしている間に隙が生まれた。
(しまった)
 四方を兵士に囲まれ、黒豹は突破口を探した。探しているうちにどんどん人数が増えていく。
 その時、左側から血しぶきが上がり、兵士が大きな音を立てて倒れた。その倒れた兵士の影から、先ほど井戸に落とした胡服の男が現れた。胡服の男は返す刀で二人、三人と斬って捨てた。
「お前は……」
 胡服の男は黙って黒豹を見た。
「悪いが取り込み中なんだが」
 黒豹が言うと、男は答えの代わりにさらに二人を斬った。
 間合いを開ける薛延陀兵に剣先を向け、黒豹に背を向けたまま男は言った。
「――見てきました。だから」
 さらに三人、四人と男は斬り付けた。
「こうするのが、正解かと思い」
 黒豹はふん、と笑うと言った。
「じゃ、行くぞ。お前、名は?」
「――忘れました。名乗る名など」
「はん。俺も唐軍を抜けたときに捨てた、今は黒豹と名乗ってる。ほら」
 黒豹は革袋に入っていた丸い丹薬を兵士たちに投げつけた。パンと乾いた音を立ててそれは弾けた。
 その音で兵士たちが引いた隙に、彼らは一斉に走り出した。
「こっちはまだ使えそうだな」
 黒豹はバガトゥールを肩車すると、革袋を彼に渡した。
「まだいくつかある。アイツらが追いついたら、それ投げつけろ」
「解った!」
 そして姫の手をぐっと掴むと彼女に言った。
「山道に入るまで一気に走る。はぐれるなよ」
 姫は黒豹の手をしっかり握ると、強く頷いた。
「おい! “忘れん坊”、そっちの十人を頼んだぞ。山道まで走れ」
「はい!?」
 胡服の男は言われるがまま、少女たちの後に続いた。
 バガトゥールは“癇癪玉”を投げつけながら、黒豹に訊いた。
「ねえ、なんでこれ今まで使わなかったの?」
「――忘れてた」
「忘れん坊は黒豹じゃん」
 先ほどまで晴れていたのに、急に風向きが変わって黒い雲が空を覆い始めた。
(天気まで悪くなってきたか。まずいな)
 とにかく、進むしかないと黒豹は思った。

 薄暗い教会の中、天井に開いた排気口からうっすらと差し込む光に照らされた場所に、ぽつんと椅子が置いてあった。
(これが“光の場所ガーフ・ローシユン”か)
 光となった教祖を迎える場所。迎える椅子。
 北側に設けられた祭壇には、こびりついた血で鈍く光る鎮綏椀が備えられていた。
 明教は経典を読めない民のために、その教えを細密画で書き表していた。壁に飾られた精緻な宗教画と共に並ぶ鎮綏椀は、ひどく場違いに感じられた。
「光の場所で、光を求める闇か……」
 驪龍は独りごちた。
 鎮綏椀は、鈍い音を立てて震えていた。
 ずっと待っていた“光明”が、行ってしまうことを嘆いて。
(間違いなかったか)
 バガトゥールたちは、順調とは言いがたいが、何とかここから逃れようとしている。
「悪いな……あれはお前に渡すわけは行かない」
 鎮綏椀はさらに音を立てて嘆いた。
(二千年前の、“金山アルタイの魔女”のわざがまだ見えない)
 幾重にも隠された秘術。正確に受け継がれずどこかで誤った術……。
 驪龍は、鎮綏椀との“対話”を試み続けていると、扉が開いた。
「誰だ……?」
 入ってきた男は、驪龍に呼びかけた。
「明教東方教会の司祭アフターダーンマンベッド殿ですね。お会いしたいと思っておりました」
 驪龍は振り返って一礼をした。
「私は、道教上清派の道士。姓は李、号を驪龍と申します」
 驪龍は丁寧に挨拶した後、司祭を睨み付けた。
「縁あってこの度の愚行、お止めする」


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