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鎮綏椀傳奇(ちんそうわんでんき) 

時代は唐の初め。
唐と突厥の勢力が拮抗する西域で、娘たちがいなくなる事件が起こっていた。同じ頃、取るに足らない古びた椀が、信じられない高額で取引されていた。そのことを訝しんだ義賊・女狐は手下の黒豹・雪豹の二人に命じてその謎を探らせる。
突厥に変わって草原の覇者になろうとする薛延陀。生贄を捧げ、教祖摩尼を蘇らせようとする明教の司祭。様々な思惑が交錯する中で、二人は生贄になろうとする娘たちを助け出し、明教の陰謀を防ぐべく動き出す。

第1章 謎

 今は乾ききり、礫砂の続く荒涼としたこの地も、唐の時代・貞観の治のこの頃は緑あふるる草原であった。奇岩の続くこの谷も木々に覆われ、水の流れもさやかに絶え間なく流れていた。 その流れをさかのぼるように、二人の男はひたすら馬を走らせていた。
「――腹減った」
 背の高い方の男が唐突に口を開いた。
「朝から休みなしだ。ちょっとここらで休まないか」
「何言ってるんだよ!」
 もう一人――小柄な方が、振り返らずに叫んだ。
「この先、もうすぐそこだぜ。ささっと行って、用をすまそうぜ」
「だったら、お前一人で行け。俺はここで何か喰って、休んでる」
 その言葉を聞くやいなや、小柄な男は振り向きざまにヒュッと匕首あいくちを彼に投げつけた。
が、彼は環首刀かんしゆとうを抜くと、何事もなかったかのように慣れた手つきで匕首を弾き返した。カンと音を立てて弾き返された匕首は、糸でくくりつけられているかのように、まっすぐに小柄な男の方に戻ってきた。
 小柄な男はチッと舌打ちをしながら、戻ってきた匕首を掴むと掌に収めた。
「バーカ、十年早えぜ」
 大柄な男がそう嘲り笑うと、小柄な男はもう一度舌打ちをした。
「雪、てめえがなんと言おうと俺はここで……」
 休むぞと言おうとしたとき、彼の動きがふっと止まった。
 ほんの一時、目を閉じてじっとしたと思うと、次の瞬間には辺りを見渡して方向を見定めた。と同時に、馬に鞭を当てて河上に飛び出していった。
「兄貴!?」
 小柄な男は慌ててその後を追った。

 それはかれこれ半月ほど前のことだった。
「さて、お前たちなら“これ”をいくらと値踏みする?」
 彼女はニヤリと笑うと、白い両掌で、水を掬うような、丸い形を作った。細く長い指先に付いた爪は丹念に磨かれ、南方由来の染料で綺麗に色づけられていた。
 そしてその声は、低く、氷のように透き通り、人の心に突き刺さるように響いた。
  漆黒の瞳と髪を持つこの女性は、この西域では知らないものはいない、名の通った盗賊団の親玉でもあった。
 本名は誰も知らない。
 ただ、その鮮やかな身のこなしから、“女狐”とだけ呼ばれていた。
 |白玉《はくぎよく)のように滑らかな肌と、すっとした目鼻立ちは、彼女が漢族の血ものであることを物語っていた。漢地との境である陽関と玉門関。その先に広がるこの西域では、珍しい顔立ちではあるが、見かけないわけではなかった。
 先頃、唐に征服された高昌(カラ・ホージャ)は、長いこと漢族のきく氏が支配していたし、この西域で唐と勢力を拮抗する突厥内部にも多くの漢人がいて、その居住区もあちらこちらにあった。ここ数年、漢地からの往来も増えており、主要な城市に行けばごく自然に漢語が耳に入ってきていた。
  彼女は、その言葉遣いや立ち居振る舞いから、内地から流れてきた者のように思えた。しかし、西域の事情に精通し、胡語をスラスラと話す様は、生粋の西域育ちであるようにも見えた。
 年の頃も、外見は多く見積もっても三十路は行かないように見えるが、彼女の名が西域に知れ渡った時期を考えると、見てくれとどうにも合わない。
 氷のようなその美貌のうちに、全てを包み隠した彼女は、荒くれ男を率い、盗賊団の頭として、もう長いこと、この西域に君臨していた。
 女狐の盗賊団は、ただの盗賊団ではなかった。
 彼女たちは、むやみやたらに旅人を襲うような、下衆(げす)ではない。
 民人を苦しめる支配者や暴利を貪る商人たち、それが、彼女の獲物だった。
 彼女とその一味は、黒風カラ・ブラン(砂嵐)のように襲いかかり、相手の“お宝”を容赦なく奪い去っていく。
 そして盗品の一部を己の取り分とし、残りは周辺の貧しい人々に分け与える。それが彼女たちのやり方であった。彼女とその一味の名は、主な活動場所であった西域の北道のみならず、南道諸国にも広く知れ渡っていた。

「その椀は、使い古され、なんの飾り気ももない。見たところ、ただの古びた金物かなものだという」
 彼女は言葉を続け、掌をひらひらと動かしながら、その形状を説明した。
 二人の男は息を潜めてその様子を見つめていた。
 一人は、やはり、漢人の容貌をしていたが、何故か髪は全て白かった。しかし、顔つきはとても幼く、一見すると、十七、八ではないかとさえ思われるような童顔だった。
 そしてその瞳は、絶えずとんでもないことを考えているかのように、いつもくるくると動き、同時に深い英知をたたえているかのような、深い光を放っていた。年齢の分からない容姿というところでは、女狐と同じであったと言える。
 もう一人は、背が高く、浅黒い肌をしており、年の頃は二十過ぎといったところか。混血がかなり進んでいて、どこの民であるのか、一見しただけでは皆目見当が付かなかった。彼が口を開けば、出る言葉は涼州訛りの漢語であったので、そこでようやく、彼が一応漢族に属する者であるということが解った。
 そして何より、彼の目を引くところは、その容貌にあった。
 彼は、左半分が潰れて大きな傷痕になっていた。
 それは、数年前、唐と遊牧騎馬国家・西突厥との激しい戦闘の中で失った部分であった。
 当時、突厥は西域と草原の覇者であったが、隋の攻撃を受けて東西に分裂し、東突厥は貞観四年(六三〇年)に唐に下っていた。
 一方で西突厥は西域諸国を支配し、東西交易路を手中に収めており、唐はその通商路を必要としていた。
 高昌カラ・ホージャを支配していた麹氏は、西突厥の可汗ハーンと姻戚関係にあった。突厥と深い繋がりがりがあり、また、西域通商路の要所でもあった高昌を、当然のごとく唐は攻めた。
 彼ら二人は、その時に従軍した元唐兵であった。
 高昌、そして阿耆尼アグニと、勇猛な突厥兵との凄惨な戦いが日夜繰り広げられた。
 彼ら二人がいた部隊も、また壮絶な戦闘に遭遇した。突厥軍は、虐殺に近い形で、彼なのいた部隊を壊滅状態に追い込んだ。
 狭い渓谷に追いつめられた彼の軍めがけて、突厥軍は大量の土砂と岩を投げ込んだ。一部隊を丸ごと生き埋めにしようとしたのだ。
 たまたまその現場に遭遇した女狐により、彼は、顔の左半分を失ったものの奇跡的に救出された。彼の他、数名が女狐に助けられたが、ほとんどの兵士が土砂の下敷きとなって命を落としていた。
 白髪の方は、生き埋めにはされなかった。
 名家の出だった彼は、十代で将校になりこの遠征に従軍した。今後の「箔付け」のために参加した彼は前線に出ることはなかったかわりに、敗走していたところを捕らえられ数々の拷問を受けた。その後、半死半生の状態で草原に打ち棄てられていたところを通りがかった女狐に拾われたのだ。
 筆舌に尽くしがたい、数々の残酷な仕打ちに、彼の髪は白く変色し、その時の痛手と施された治療の結果、彼の見た目は十代のままで止まっていた。

「先頃、とある胡人が、これを買った。さあ、いくらで買ったと思う?」
 その声色の中には、少し意地の悪い響きがあった。女性の掌に収まるほどの古ぼけた椀の価値が解るのか、目の前の二人を、女狐は試していた。     
「幾らも何も、そんなお古、値段なんて付くわけ無いのに何でわざわざ訊くんだよ?」
 色黒の言葉を聞いて、女狐はクスリと笑った。
「黒豹、私の問いに問いで返すとはいい度胸だな」
「お頭こそ、俺に頭を使わせてどうするんだよ」
 女狐はもう一人の方の顔を見た。
「雪豹、お前はどう考える?」
 二人の男は、それぞれ、黒豹、雪豹と呼ばれていた。兵士だった頃の名前は、女狐に拾われた時点で捨てた。
「普通に考えたら、どこにでもある、使い古しの椀なんで、金を出して買う奴はまずいない。何か、中に入っているなら別だけど……」
「残念だか、その椀には何も入っていない」
「じゃ、普通なら、二束三文どころか値段なんて付きやしない。だけど、お頭がわざわざ訊いてくるって事は、何かある。――じつはとんでもない高値が付いた、ということでしょう」
 雪豹の答えを聞いた途端、女狐は大声で、カラカラと笑い出した。
「雪、さすがだね。あんたはやっぱり出来が違う」
 彼女に褒められ、雪豹は瞳をくるくると動かした。それを見た黒豹は、顔を顰めながら雪豹の尻を蹴った。いつものことなので、雪豹は動じることなく、ほぼ同時に、彼の腹に肘鉄を一発見舞っていた。
 女狐にとっても、そんな光景はいつものことなので、気にせず話し続けた。
「その椀には、百びんの値が付いた」
「百緡!?」
 女狐の言葉に、二人は同時に大声を上げた。
「……って、いくらだ?」
 黒豹の気の抜けた呟きに、雪豹はあきれ顔で答えた。
「百緡は十万銭。そんな計算も出来ないのかよ」
 当時の、中心に穴の空いた貨幣は、千枚ごとにぜにさしで括られていた。緡が十本あれば、一万銭。百本あれば十万銭と言うことになる。
「額が大きすぎて、よく解らん。雪、俺たちは幾らあれば一年暮らせる?」
「一緡あれば、一年は楽に飲み放題だよ」
「……つうことは、百年飲み放題ってことか……ん?」
「有り得ねぇな、たがだか中古の銅椀にこの値段」
「そう、有り得ないのさ」
 得意そうな顔で女狐が言葉を続けた。
「だが、確かにこの値が付いた」
「信じられない。第一、そんな大金、どっからくるんだ……?」
「どこから来たのかねぇ」
 理解しがたい話に眉間に皺を寄せて呟く雪豹を面白そうに眺めながら、女狐は言った。しかし、次の瞬間、表情が変わった。恐ろしく冷たい、氷のような目つきで、彼女は言葉を続けた。
「今のお上の世になって唐の京師(みやこ)は平平穏穏。太平を謳う暢気なお大尽たちの間では、西域の娘を愛人にすることがこの所の流行りで、娘たちを高値で買いとっているらしい。そしてここ数ヶ月、主に南道で村の娘たちが一斉にいなくなる事件が続発している。最初は疏勒カシユガルで、続いて于闐クスタナ且末シヤルマダナでもあったそうだ。娘たちがいなくなる事件が始まったのと時を同じくして、銅椀が百緡で取り引きされた」
「つまり、娘たちを売った金で、銅椀を手に入れた、そう言うことか!?」
「そう考えるのは自然。だが、疑問は残る。椀は買われたが、娘がいなくなる事件は続いている。関係があるのか、無いのか、今のところは何とも言えない。
 だが、間違いなく椀の値と併せて、何かがある」 
「何かなきゃ、そんな値が付くわけはないな」
 普段、考えることは雪豹任せの黒豹ですら、“何か”おかしいと感じた。
「ああ、だからお前たち二人を呼んだのさ」
 女狐は二人の目を代わる代わる見つめた。その瞳が、きらりと光った。
「この件、お前たちに預ける」
 その言葉の意味が飲み込めず、二人は互いの顔を見合わせた。女狐はそれを見て寂しそうに笑った。
「私も年を取った。そろそろ、この稼業から足を洗おうと思っている」
「お頭!?」
「冗談だろ!?」
 黒豹と雪豹はほぼ同時に声を上げた。二人にとって、女狐は親以上の存在。この異郷の地で生きていく上で、無くてはならない拠り所だった。
「惜しまれるって言うのは良いものだ」
 女狐は静かに言った。
「だが、体がもう、言うことが聞かぬのだ。こんなんじゃ、恥ずかしくて女狐の名は名乗れない。今後はどこかの山奥で、ひっそりと暮らすつもりだよ」
 その言葉、二人には心当たりがあった。
 このところ、女狐は指示を出すだけで、自ら先頭に立つことはなかった。”女狐”という名の由来になった、軽やかな身のこなしを見なくなってどれくらい経つだろう。
「だが、そう簡単には、隠居はできない。この私に付いてきてくれている連中を、ほっぽり出すわけにはいかないからね。私は”息子たち”をいくつかに分け、独り立ちさせようと考えてるのさ。
 私は何人かの”お頭候補”を選んだ。お前たちはその頭数に入っている」
 その言葉に驚き、二人は顔を見合わせた。
「俺たちはまだ新参者だ」
「兄貴たちが許すわけがない」
「おや、珍しく肝っ玉の小さいことを言うねぇ。誰よりも肝が太いと思っていたが」
 女狐はふふふと笑った。
「お前たちは、誰よりも私の教えに忠実だと思っている。
 私らのは誉められたものじゃない。しかし、私は私のしていることを、天に向かって正々堂々と胸を張れる。やましいことなど何一つしていないからさ。
 私は、そんな自分の信条を、”息子たち”に伝えてきたつもりだ。だが、残念ながら全員に、全てを伝えられなかった。
 お前たちは、私の”息子”になって、確かに日は浅い。だが、誰よりも私の考えを理解し、実行してくれている」
 彼女の思わぬ誉め言葉に、二人とも痒いような、何というような、妙な気分になった。
「だからこそ、この難題をふっかけるのさ」
 女狐は両手を擦り合わせながら、真っ赤な唇を舐めた。
「”お頭候補”にはみんな、何かしらのおつとめを任せるが、これが一番難題だよ。何しろ、この私ですら、お宝の正体を掴みきれていないのだから」
 その言葉を聞いた黒豹は、思わず拳をぎゅっと握りしめた。
「お前たちのお題は、このお宝の正体が何であるのかを掴むこと。そして、それが天道に反することであったら、即、奪い取ること――これはいつものことだな。
 それから、拐かされた娘たちがいるかどうかも確かめてくれ」
「そして、助けられそうなら、娘も助け出す――これもいつものことだ」
「さすがだね、雪。解ってるじゃないか」
 女狐は満足そうに頷いた。
「でもお頭、ここから先が少し難しくないか?」
「どうしでだい?」
「お頭も解らないお宝の招待、一体どこで掴めばいいのさ」
「おやおや雪豹らしくないね。お前たちには良い伝手があるだろうに」
「伝手……?」
「はら、積石庵にいる驪龍りりゆう先生だよ」
「ああ……」
「断る!」
 黒豹はそれまで女狐と雪豹の会話を黙って聞いていた、”驪龍”という言葉を聞いた途端、血相を変えて怒鳴った。
「俺は金輪際、あのくそ道士とは関わり合いたくはない。俺はこの話を降りる」
 女狐の部屋から出て行こうとする黒豹を、雪豹は慌てて止めた。
「兄貴……話は終わっちゃいない。最後までいろよ」
「随分、嫌われたものだねぇ。あの方は命の恩人だというのに」
「恩人だろうが、何だろうが……とにかく、俺はあいつとは関わり合いたくはないんだ。いつもろくな目に遭わない」
「お前は恩義というものを知らぬのか?」
 暴れ出すのを防ぐために、雪豹に羽交い締め※にされた黒豹に向かって、女狐は尋ねた。
「まさか!?俺たちにとって、恩と義とは命より大切なものだって、お頭だっていつもそう言っていただろう? 俺だって解ってるし、お頭のためならいつでも死ねる」
「何故、私のために死ねる?」
 当たり前のことを聞かれて、黒豹は言葉に詰まった。
「それは……」
 眉間に皺を寄せ、少し考えてから、彼は言葉を続けた。
「俺たちは一度死んだも同じ人間だ。新しい命を与えてくれたお頭には、返しきれない恩がある」
「では、驪龍先生にも同じ事が言えるはずだ」
 女狐の言葉に、黒豹は顔を引きつらながら答えた。
「……俺は恩知らずでもないし、不義でもない。お頭の言いたいことは解っている。あの道士にも深い恩がある……だが、それはもう返した」
「私には返しきれない恩で、同じ事をした先生へは返せたのか? それは異な事」
「要するに、あの先生とはウマが合わないってことさ。顔どころか、名前も聞きたくないくらい、嫌いなんだよね」
 黒豹の後ろから雪豹が口を挟んだ。
「いい人なんだけどねぇ」
「雪! 余計な口挟むな~!」
 黒豹は雪豹の腹に肘鉄を見舞おうと上体を少し前に反らした。そこをすかさず、雪豹は彼の背中で前転する感じで、くるっと体を返し飛び上がった。そしてそのまま黒豹の前に立った。
「兄貴、こんな面白そうな話、降りるって手はないよな」
 雪豹の言葉を黒豹はフン、と鼻息で返した。
「やるのか、やらないのか?」
「やるよ!」
 自棄になって叫んだ黒豹を見て、女狐は声を出して笑った。
「黒、よく言った!」
 それから彼女は、人を呼んで何かを持ってこさせた。
 この辺では珍しい、漆に真珠貝で象眼を施した小箱を二人に見せた。
「事のついでだが、これを驪龍先生に持っていっておくれ。金品で動く人じゃないから、これを持っていって自分たちに便宜を図ってくれなんてことは出来ない。だが、庵を訪れる理由は出来るだろう?」
「ありがとう、お頭」
 雪豹は小箱を丁寧に受け取ると、女狐に礼を言った。
「今すぐ発っても良いのかな?」
「お前たちに問題がなければ、かまわないさ」
「じゃ、雪、さっさと行こうぜ」
 一分でも一秒でも短く、驪龍先生と関わり合いたくはない黒豹は雪豹を急かした。
「ちょっと待ってくれよ、ったく、せっかちなんだから」
 雪豹は黒豹を宥めると、さらに女狐に訊いた。
「この件で、俺たちが動かして言い人数は、何人? どこまで使って良いのか?」
「お好きなように」
 女狐は嬉しそうに答えた。
「お前たちが使いやすい連中を、使いやすい分だけ持っていけ。それが、この先お前たちの一味になるんだ。よくよく選ぶことだな」
 先程の”暖簾分け”の話は本気らしい。二人は事の重大さを改めて認識した。
 そしてまた、使う連中も、ほぼ頭の中で決まっていた。その面子は、二人の頭の中でほぼ一致もしていた。
「じゃ、お頭。今すぐに発ちます」
 雪豹の後ろで、黒豹が「さっきからそう言ってるだろうに!」と文句を呟いていた。
「焦るな、見送りぐらいさせておくれよ」
 そう言うと彼女は、金剛を呼んだ。
 侍従のような役割をしている金剛は、がっちりした体つきで、色の黒いインド系の人間だった。
 彼に支えられ、力なく立ち上がった女狐の姿を見て、二人はドキッとした。
 予想以上に、彼女の体は弱っていたのだ。
 彼女との、永遠の別れが近い事を予感させるほど、彼女は儚くなっていた。
「決めたこととはいえ、息子を独り立ちさせることは、不安なんだよ」
 そう言って女狐は二人の手を取った。
「何、お頭らしくないことを言ってるのさ」
 雪豹はその掌をぎゅっと握って言い返した。
「先生のいる山までは目と鼻の先。ささっと言って帰ってくる。面白い話を待っててくれよ」
「ああ、お頭。俺たちに任してくれ」
 二人はそう言って、女狐の部屋を出た。そして荷造りも早々に、その日のうちに出発した。

 女狐たちの隠れ家から天山山中にある積石庵までは、確かにそんなに距離はなかった。
 ただ、天山山脈の奥まったところ、岩がごつごつ続く荒れ地にある庵――それ故に積石庵と呼ばれる――まで辿り着くには容易なことではなかった。
 だが、身のこなしの軽い二人は、難路を分けなく進み、近道となる道なき道を巧みに馬を走らせていた。
 驪龍と顔を合わせたくない黒豹は、理由をつけては雪豹だけで行かせようとしていたが、彼よりも知恵の回る雪豹によって、ことごとくその目論見は阻まれていた。
 そんな時、彼の耳が、異音に気づいた。
 潰れた左半分の顔と引き替えに、彼の聴力は異常なまでに発達した。通常の人間には聞こえない音までも、彼の耳にははっきりと聞き取れることができる。
 犬並みの耳。
 雪豹は黒豹の聴力を、良くこのように揶揄していた。
 その彼の耳に聞こえてきた音――カラカラと石が跳ねる音。黒豹は、慌てて馬に鞭を振るった
「兄貴!?」
 敏捷性にかけては、黒豹と一二を争う雪豹であったが、不意をつかれたために出遅れた。その上、進む方向も判然としない。とにかく引き離されない、見失わないことを念頭に、雪豹は彼の後を追った。
 そのうち、嬌声が雪豹の耳にも微かに聞こえてきた。
「ありゃりゃ……」
 音の出先を見て、雪豹は黒豹があんなに急いだ訳が解った。
「なんてこった」
「静かにな。俺らに気付いてみろ――」
 小声で黒豹は言った。それを受け、雪豹も小声で答えた。
「嬉しくなって、その場でぴょんぴょん跳びはねるよな……あいつのことだから」
「まずいだろ?」
「だな」
 二人の視線の先には、ごつごつとした岩山に登る、子供の姿だった。
 冒険が楽しいのか、岩が少し崩れて下に落ちる度に大声を上げて喜んでいた。
「何でまた、あんなところにいるんだろうなぁ」
「知るかよ。あのくそ道士、ちゃんと子供の面倒見てろってんだ」
 吐き捨てるように黒豹は言った。
 岩山の上にいる、小さな男の子は、積石庵の道士、驪龍が手元に置いて育てている鉄勒(テュルク)族の子供だった。
 どうして、彼がこの子を育てているのか、そのことを知るものは誰もいない。驪龍自身だって、よく解っていないのかもしれない。
 不思議なえにしによって、この子は驪龍のもとにいる。それだけが事実だ。
「とにかく、あいつが落ちる前に助けるぞ」
 そう、黒豹が呟いた、その時――   
「黒豹! 雪豹!」
 上の方から叫び声がした。
(気付かれた!)
 二人は慌てて馬を飛び降りると、岩山へ向かって大きく飛び上がった。
「バガトゥール! そこでじっとしてろ!!」
 雪豹の叫びが届く前に、少年は嬉しそうに岩から飛び降りて、二人の方へ向かおうとした。
 そして、そのまま足を踏み外した。
「バカヤロ……!」
 黒豹は、少年が落ちる方向に向かって、大きく飛び上がった。
 がらがらと岩が崩れ落ちる中、黒豹は空中でしっかりと少年を抱き留めた。そしてそのまま一回転をして、着地を試みた。
 しかし、足元には、上手い具合に足をおけるような場所はなかった。
(――ッチ!)
 軽く舌打ちをしながら、黒豹はもう一回転して、何とか足場を捜そうとした。
「ほいよ!」
 掛け声と共に雪豹が横から飛び出してきた。
 そして、黒豹の襟首を捕まえると、そのまま岩肌に向かって飛んでいった。
「ぐっ……」
 襟首を掴まれたため、軽く首を絞められた感じになった黒豹は苦しそうに喉を鳴らした。
「お、兄貴エライ。堪えてるジャン」
 上手い具合に腰を落ち着ける場所に、黒豹を引き上げながら、雪豹は楽しそうに呟いた。
「てめぇ、俺を試してるのか、それとも、マジ、殺す気か?」
 咳き込みながら文句を言う黒豹に向かって、雪豹は血のように真っ赤で、蛇のように長い舌をぺろりと突き出した。
「さあねぇ」
 黒豹はペッとつばを吐き出すと、腕の中にいる少年の様子を確かめた。
 岩に頭をぶつけたため、意識はなくぐったりとしていた。
 体中に傷を負っていたが、中でも額の傷は酷く、ぱっくりと裂け、かなり出血もしていた。
 とにかく、傷の応急処置を――と考えたその時、岩山から奇妙な生き物がひょっこりと顔を出した。
「うわっ」
 その生き物を見て、二人は同時に声を上げた。
 それは、一つ目で、顎と首のない鬼神の一種だった。肩から肩の間が若干盛り上がり、その部分に目と口があり、鼻と耳はなかった。腕は異様に長く、白い毛で覆われていた。この鬼神は驪龍のところにいる者で、何回か見かけたことはあったが、何度見ても見慣れない異形の化け物だと二人は思っていた。
 異形は、手に膏薬の入った壺を抱えていた。そしてその象牙色の膏薬を、慌てたように少年の傷に塗りたくった。
「おい! この傷はそれぐらいで何とかなるものじゃないぞ」
 少年の、特に頭の傷は深すぎで、膏薬を塗っただけで何とかなるようなものではなかった。
「早くあの道士の許に連れていけ。このままじゃ、死ぬかもしれん」
 道士驪龍は、また神業に近い医術も心得ていた。普通なら命を落としていたであろう黒豹と雪豹を助けたのも、彼に他ならなかった。
 黒豹は、上半身は下着も着けず薄汚れた皮衣の上衣を纏っただけ、下半身も所々破けた粗末な袴褶(ズボン)を穿いていただけだったので、少年の服を脱がせてそれを裂くと、それで傷口を覆った。そして自分の胴衣を彼に着せると、しっかりと抱きかかえた。ぐったりとして力がなく、血の気もなかったが、肌の暖かさが感じられた。
「雪! 俺はこの山を越えてあのクソ道士のところへ行く。お前は馬を連れて、後から来てくれ」
「解った」
「おい、化け物、さっさと俺を案内しろ」
 黒豹の言葉に、異形は低い呻き声を上げて頷いた。異形は、物の怪なりの身のこなしで岩を越えてゆくと、黒豹が付いてこられるかどうか不安そうに後ろを振り向いた。
 黒豹は、口元ニヤリと笑みを浮かべると、ふわりと飛び上がった。そしてあっという間に異形の後ろに付いた。
 異形は安心したように走り出した。
 その後を一歩も遅れることなく、黒豹は付いていった。
 黒豹、雪豹の名の由来は、この軽く素早い身のこなしから来ていた。
 生死の境をさまよい、そこから生還したときに身についた力だった。驪龍の治療の、いわゆる副作用ではあったが、“盗賊”という稼業ではまたとない宝となった。
 程なくして、大きな岩をくりぬき、礫と草で覆われた住居のようなものが目に入ってきた。積石庵だ。
 もう、案内は必要ない。
 そう判断した黒豹は、大きく飛び上がると、鬼神の前に飛び出した。
 鬼神は、うう、と妙な声を上げて黒豹を止めようとした。しかし、黒豹は構うことなく一直線に走り去っていった。
 と、妙な音が聞こえた。
 まずい、と直観的に判断した彼は、少年をかばうように、その場に踞った。
 同時に、大きな爆発音がして、爆風が彼を襲った。

第2章 驪龍道士

  爆風と共に、何かが、肩や背中に打ち付けられるのを感じた。
 痛みと言うよりも、痺れを感じながら、彼は腕の中の少年の様子を確かめた。爆風による影響を受けていないことを見て、ホッと息を漏らした。
「急がば回れとは、よく言ったものだ」
 不意に、後ろから声がした。低く響くその声は、あまり聞きたくない声でもあった。
「”一つ目”と一緒に来れば、こんな目に遭わずに済んだものを」
 それは、青藍の道服を身に纏った長身の道士、驪龍の声だった。
「しかし、よく、爆発することが解ったな」
「前にもあっただろうに。俺がお前んとこにくる度に、こんな目に遭ってる気がするぜ」
「ああ、そうか」
 納得したように笑った。
「仙薬の調合は難しく、ちょっとした按配で破綻する。いつもお前が騒がしく来るから、その度に手元が狂うのだな」
「人の所為せいにするなよ!」
 文句を言う黒豹に構わずに、驪龍は彼の手から少年を抱え上げた。
 そして素早い手つきで止血の布を解くと、少年の傷の様子をつぶさに確かめ始めた。黒豹は、自身の傷の痛みに耐えながら、その様を凝視した。
(――!?)
 布が解かれていけばいくほど、黒豹は己の目を疑った。肌にこびりついた、赤黒い血痕こそ痛々しかったが、新たな出血はもうなく、それどころか傷痕さえ、ほとんど見あたらなかった。驪龍が清水で丁寧に少年の体を洗っていくと、血痕の下からはふっくらとした幼児の皮膚だけが現れた。
 致命傷とさえ思われた、あの額の大きな傷でさえ、跡形もなく消え失せていた。
 黒豹の脳裏に先程の象牙色の膏薬が蘇った。あの薬、これほどまでに効果があるものだったのか――
 体を拭かれている最中さなかに、少年は目を覚ましていたが、驪龍の作業が終わるまで、杏仁のような目をくるくるさせながらじっとしていた。
「さあ、これでいい」
 真新しい服を彼に着せながら、驪龍は言った。
「今回はまた派手にやったな……もう、あそこに行っては駄目だぞ」
「……先生、お腹空いた」
 懲りた様子なども微塵も見せずに、少年は呟いた。
「いつものところに、干し棗と甘露湯が用意してある。大怪我をした後だ、しっかり食べて養生しなさい」
「はーい」
 少年は嬉しそうに頷くと、その場を立ち去ろうとした。が、あることに気付き、高い声を上げた。
「先生! 黒豹と雪豹は!?」
 きょろきょろと見回すと、岩の影に寄りかかって痛みに耐えている黒豹の姿が目に入った。
「どうしたの!?黒豹!」
 駆け寄ろうとする少年を、黒豹は右手で制した。
「来なくて良い! てめえのキンキンする声を聞くと、余計に傷が痛む」
 叫んだらさらに痛みが増したらしい。黒豹の顔は苦痛に歪んだ。
 それを見た少年は、慌てて先生の姿を捜した。しかし、捜すまでもなく、驪龍は新鮮な清水を入れた桶や、治療に必要な薬、油紙、包帯などを携えて黒豹の後ろにかがみ込んだ。
「バガトゥール、向こうに行っていなさい。休まなくては駄目だ」
「先生……黒豹は大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
 驪龍は黒豹の背に刺さった岩の破片などを丁寧に取り除きながら答えた。
「多少、待たせたが問題ない」
「そうだよ」
 ふて腐れたように黒豹が呟いた。
「あいつが大丈夫なら、何で俺を後回しにする?」
「お前を先に診たら、怒るのはお前自身だろうに」
 確かにそうだ。図星を指された黒豹だが、それだけでは腹の虫が治まらなかった。
「その薬を塗れば、バー公みてぇにすぐ治るのかよ」
 少年の名、”バガトゥール”は鉄勒テュルクの言葉であったため、黒豹は少年のことをそう呼んでいた。そのことは、驪龍も承知していた。
「さあな」
 清水で傷口を洗浄しながら驪龍は呟いた。
「あの子は私と寝起きを共にしているからな。体の中が清浄なのだよ。だが、お前はどうだ? 清められていない分、時間がかかると思え」
 その言葉に、黒豹はフンと鼻で嘲笑った。
「心身共に清浄な盗賊が、どこにいる。それだったら、死ぬまで治らねぇな、この傷」
「大丈夫だよ」
 不意に、黒豹の目の前にバガトゥールが現れた。
「先生の薬は良く効くよ。すぐに治るよ」
 黒豹の、ぼさぼさの頭を撫でながら、まるで子供に言うようにバガトゥールは言った。それから、掌に握っていたものを彼に差し出した。
 それは、小さな、干した棗だった。
「食べなよ。元気が出るよ」
「いらねぇよ」
 どうにも照れくさくなって、黒豹は目を背けながら言った。
「酒があれば、それで良い」
「いけないんだ!」
 唇を尖らせてバガトゥールは叫んだ。
「酒なんて飲んだら、五臓六腑が腐っちゃうんだぞ」
「んなワケないだろ!!」
 呆れたように黒豹は返事をした。一体全体、驪龍は、どんなことをこの少年に吹き込んだのか。  
「だって先生が言ってたよ……えーと……」
「百害あって一利なし、だろ」
「うん、そうそう」
 驪龍の言葉に頷きながら、バガトゥールは言葉を続けた。
「その、百害って、どんなんだか知ってる?」
「知らん!」
「いっぱい、体に悪いって事だろ? つまりさ……」
 彼は少し声を低くし、顔を黒豹に近づけながら言った。
「色んなところが悪くなる。悪くなったら、そこが腐るんだよ。その辺に落ちてる屍肉みたいに。恐いだろ?」
「――それ、誰が教えた」
「教わったんじゃない。自分で考えたんだ、すごい?」
 得意そうに言う彼の顔を見て、黒豹は思わず溜め息を漏らした。
 人里離れ、こんな山奥に道士と化け物と籠もっているような生活だから、こんな素っ頓狂な考え方になるのか……黒豹は何でまたこの少年をこんな境遇においているのかと、いつも不思議に思っていた。
「俺はお前の何倍も生きてるが、そんな奴見たこともねぇぞ」
「えー?」
 少年のふくれっ面を見て、黒豹は思わず吹き出した。
「解ったよ、そんな奴を見たらお前に教えてやるよ」
「絶対だよ!」
 二人がどうでも良いような、たわいのない話をしている間に、背中の傷のほとんどは油紙で覆われ、その上に亜麻布が巻かれていた。
 口惜しいが、驪龍の鮮やかな腕前は認めざるを得ない。
「あらら、怪我した人間が違うんじゃねぇ?」
 ふいに背後から人を小馬鹿にしたような声が響いた。いつも聞いている、ちょっと高めの、癖のある声。
「なにヘマした……」
「っるせー!」 
 うつむいたまま、声のする方に向かって黒豹はひゅっと匕首を投げつけた。標的を見たわけでもないのに、匕首は的に向かって一直線に飛んでいった。
 対して「的」の方は、ふん、と鼻で笑いながらそれを難なくかわすと、くるっと反転して黒豹の背中に思いっきり蹴りを入れた。
 傷口を直撃された黒豹は、うぐっと声を上げて蹲った。
「――雪豹よ、相も変わらずの過激な愛情表現だな、」
 二人の遣り取りを端で見ていた驪龍は、呆れたように言った。
 驪龍の声を聞き、雪豹はあわてて彼の方を向き、両手を合わせて挨拶をした。
「先生、お久しぶりです」
 彼は黒豹と違って不作法ではない。表向き女狐の使いで来た以上は礼儀に則って挨拶をした。
「女狐のお頭からの使いでお邪魔しました」
 懐から例の小箱を取り出すと、それを恭しく驪龍に差し出した。
「これは……狐の珠ではないか!?」
 驪龍は箱を受け取るより早くに、その中身を言い当てた。そして長い指で丁寧に箱の中身を取り出した。
 滑らかに光り、手のひらにすっぽりと収まるその珠は、真珠でもない、ぎょくでもない、数々のお宝を見てきた黒豹・雪豹ですら初めて見る代物だった。七色に光る珠をたなごころに転がしながら、驪龍は言葉を続けた。
「これは珍宝中の珍宝。このようなものを私に託すとは……女狐は己の寿命がそう長くはないと悟っているようだな」
 黒豹と雪豹は嫌な予感を同時に抱いた。二人は顔を見合わせると無言で頷きあった。
「――先生、来た早々で悪いが、これでおいとまします」
「頼まれた品は、確かに渡した。怪我の治療の礼は、そのうちする」
 二人は交互にそう言い、軽く会釈をすると、雪豹が引いてきた馬に跨がってその場を去ろうとした。
「まあ待て」
 驪龍は腕を軽く上げると、二人を制した。
「せっかく来たのだ。焦ることはあるまい」
 驪龍は、丁寧に狐の珠をしまいながら言葉を続けた。
「女狐の寿命は今日明日に迫っているわけではない。まだ間に合う。そう慌てるな」
 その言葉に、二人の動きは止まった。それは言外に「まだ死に目には間に合う」ということであった。
 驪龍道士は、何でも見通す千里眼と、何でも聞こえる順風耳という二つの能力ちからを持っていた。彼の目と耳は、時には時空を超え、予言めいたことを告げることも少なくなかった。
 「知りたいことがあるのだろう? 訊かなくていいのか?」
 それは、例の銅椀のことを意味していた。
「それは……」
高昌カラ・ホージャにも通はいる。それに訊けばいいことさ」
 言葉に詰まった雪豹の代わりに、黒豹が答えた。
「嫌な気分になってまで、あんたに訊くことはない」
「ずいぶんな言われ様だな」
 彼の言葉に、困ったような声色で驪龍は返した。だが、表情は一切変わっていない。それが妙に荘厳で不気味ですらあった。まるで作り物のような、中性的で完璧なまでに整った顔立ちが、そう感じさせるのかもしれない。
「頼みたいことがあるのだ。もし、引き受けてくれたら、それなりの礼はする」
「タダじゃないってことか?」
「ああ」
 驪龍は静かに頷いた。この道士が頼み事をするなど、滅多にないことだ。
「兄貴、話を聞こうぜ」
 雪豹は黒豹の肩を叩きながら答えた。
「う……」
 困ったような、妙な顔立ちで黒豹は頷いた。損得勘定が頭の中を渦巻いていたのだ。「それなりの礼」とは、「それなり」ではなく「とてつもない」礼であることは間違いない。
 この道士のことを死ぬほど嫌ってはいるが、損得には聡い盗賊家業しょくぎょうがら、彼の話を受けるしかあるまい。
「ありがたいな」
 驪龍は言葉を続けた。
「今日は、天地を巡る気が、この地に一堂に集まる日なのだ。秘薬中の秘薬と言われるある仙薬を完成させることができる貴重な機会。この日を逃すと、あと九〇〇年は巡ってこない。私は数年前からここに籠もって、今日、この日のために準備をしてきた」
 驪龍は陽関を越えて以来、あちこちを転々として西域各処を彷徨していたのだが、積石庵をこしらえて以降は、ここに腰を落ち着けていた。
「だがな、仙薬を調ずるには、子供の気は邪魔なのだ。邪気となって、仙薬の効果を損じてしまう」
「それでバー公を追い出してたのか」
「追い出すとは、ひどい言い方だな」
 驪龍は黒豹に一瞥をくれると、一瞬悲しげな顔になった。
「ここから離れたところで、一つ目に面倒を見させていたのだが、子供というのは何をしでかすか予想しがたい。まさかあんな目に遭うとは」
「それで俺たちにバー公の面倒を見させようという魂胆か?」 
「まあ、そういうことだ。先程も、バガトゥールの怪我で私の気も散ってしまった結果があの爆発だ。もう、この後何度も機会がない。こちらも切羽詰まってるのだよ」
「まあいいさ」
 黒豹は両手を挙げた。
「だいたい、あんたがあんな子供を育てていること自体、間違ってるんだよ。ったく、可哀想に。今日ぐらいは、気持ちよく一日を過ごさせてやるさ」
 なんだかんだ言って子供好きな黒豹は、あっさりと引き受けてしまった。その様を見て、雪豹は思わず苦笑した。
 しかし、それが彼のいいところでもある。悔しいが、雪豹は黒豹のそう言うところが好きであった。

 ふうと、大きく息をつくと、雪豹はごろりと草むらの上に寝転がった。
 今、自分はこんなところで、こんな事をしていていいのだろうか?
 そんな焦燥感を、頭の中から追い出すように、意味もなく左右に頭を振ってみた。
(どっちがガキなんだか……)
 耳をつんざくような嬌声に呆れつつ、あの二人を横目で追った。
 すり切れた毛氈に乗って、なだらかな丘を滑り落ちていく黒豹とバガトゥール。勢いよく滑り降りたときはもちろん、大きく転んでもげらげらと大きな声で笑い転げていた。雪豹はふん、と鼻を鳴らすとごろりと寝返りを打った。
(二人ともあんな大ケガした後で、よくまあ、あそこまでバカやれるもんだ。傷口が痛んでも知らねぇぞ……)
 と、そこで雪豹はあることに気づいた。
 ガバッと勢いよく起きあがると、二人の方を見た。
 案の定、二人は驪龍からもらった薬を、擦り剥いたところに擦り込んでは丘に上がって滑り降りていた。
「おら! 勿体ないことするな!!」
 大声を上げると、雪豹は大きく飛び上がった。そしてひらりと二人の前に舞い降りると、その手から膏薬の入った壺を奪い取った。
「唾付けとけば治るような傷に、こういう薬を使うなよ。……ったくぅ。勿体ない」
「何、ケチ言うんだよ。ほれ見てみろ。ツルツルだぞ」
 そう言いながら、黒豹はさっき擦り剥いた腕を見せた。傷が瞬く間に治ったことを教えたいらしい。
 古傷の跡があちこちに残っていて、おまけに腕毛がモジャモジャ、この腕のどこがツルツルなんだと、雪豹は鼻に皺を寄せた。そして黒豹の腕に向かってペッと唾を吐いた。
「げっ! 汚ねぇな!! てめえ、何しやがるんだ!?」
「だから、唾付けときゃいいんだよ。ひでぇケガをしたとき、この薬が無くなったらどうすんだよ」
 悔しいが、雪豹の言うことはもっともだったので、とりあえず黒豹はその場を引いた。だが、腹の虫が治まらなかったので、彼が顔を背けたとたん、怒濤のごとく罵倒し始めた。
 背中でそれを感じ取った雪豹は、くるりと向きを変えると、側にあった、やや大きめの石を彼に向かって蹴り上げた。
 黒豹はバガトゥールを抱えてそれをひょいと避けると、大声で嘲り笑った。
「付き合ってらんねーよ」
 雪豹はそれを無視すると、壺をじっと見つめた。壺の中はほぼ空になっていたので、顔を上げて冷たい視線を黒豹に投げかけた。
(驪龍先生の作る普通の膏薬だってこの効力だもんな。千年だか、九〇〇年だかに一度しかできない仙薬……それは一体どういうものなんだろう?)
 わずかに残った膏薬を眺めながら、雪豹は考えた。
 仙界・人界あわせて、驪龍ほど仙薬造りに長けたものはいないという話も聞く。
 そんな彼が、必死になって――彼にしたらあれでも顔色を変えて――作ろうとする仙薬。あれさえあれば、女狐の病も癒えるのではないか?
 問題は、どうやってそれを手に入れるのか?
だいたい、こう考えた時点で、相手にこちらの考えていることなどすべて筒抜けな気がする。
 いやいや、今は仙薬造りで頭が一杯で気付くこともないかもしれない。彼の千里眼と順風耳は、全てを見通し、全てを聞き取る訳ではないはずだ。
 つまりはだ、相手が気付かない、ほんのわずかな隙があるかもしれない。
 それはいつだ?
「いや、やめておけ。ろくな結果にはならないぞ」
 不意に後ろから声を掛けられ、雪豹は全身総毛立った。人の気配には聡いはずなのに、知らぬ間に誰かに背後を取られたことに、一瞬命の危険すら感じた。
 しかし、その声色から主が誰だかすぐに解り、彼は匕首えものを懐から出さずにすんだ。
「なんのことです?」
 努めて平静に、眉一つ動かさないよう気をつけながら言葉を返した。
「やめておけってことさ」
「だから、なんのことです?」
「解ってるだろう? 企みなんぞ、通じる相手か?」
 雪豹はチッと舌打ちをした。
 この連中と来たら、お天道さまの下で物を見るように、腹の中の隅々まで覗き込みやがる――
師兄しけいー!」
 毬のように飛び跳ねながら、バガトゥールが雪豹の頭を飛び越え、後ろの男に飛びついた。 男は口元を綻ばせながら、ひょいと少年を抱え上げた。
「また少し大きくなったな」
 バガトゥールはうれしそうに男の頬に自分の頬をすり寄せた。
「師兄は大きくなった? 小さくなった?」
 突拍子もない問いに、思わず雪豹は吹き出した。
「さあ……どっちかな?」
(こいつらはどっちだって思いのままだろうに)
 雪豹は心の中で毒づきながら男の顔を見た。
「ご機嫌斜めなようだな、雪豹」
 青藍の道服をまとった長身の男は、パチンと指を鳴らした。同時に息をつけないくらいの大風が巻き起こった。目に砂が入り、雪豹は一瞬目をつむった。そして目を開いた次の瞬間、目の前の風景が変わっていた。
(ここはどこだ……)
足元は先ほどまで寝転がっていた草原ではなく、黒い羽毛に覆われ、温かく血が通う何かであった。風は相変わらず強く吹いていて、目を開けているのにも苦労した。
「“この子”はバガトゥールが慣れているので借りているんだが、扱いが良く解らなくてな」
そう言うと“地面”が大きく右に傾いた。雪豹はうわっと声を上げていると足元の羽毛を掴んで転げ落ちるのを防いだ。
「悪い悪い。なるべく水平にするように気を付けるが、しっかり掴まっていてくれるかな」
男は仁王立ちのままそう言った。いつの間にか彼らは、巨大な黒い怪鳥の上にいた。そして恐ろしい速さで空を飛んでいた。
 “慣れている”バガトゥールは、羽毛の中に体を埋めて四肢でしっかりと怪鳥の体を掴んでいた。
積石庵あのの周辺は今、仙界と人界の区別がなくなっているのでね、お前やこの子のような者は居てはならないのだよ」
「なるほど……」
雪豹は怪鳥の上にあぐらをかきながら呟いた。黒嵐に比べたら、こんな風などたいしたことはないと腹を決めた。
「ってことは、紫陽先生は驪龍先生あいつに俺ら込みで子守を頼まれてたって事かよ」
 忌々しげに雪豹は言った。
「上手い調子で兄貴を言いくるめて、あんたら何を企んでる」
「企んでいるわけではないさ。ただの巡り合わせ」
“紫陽先生”と呼ばれた男は、雪豹の不貞腐れる様を面白そうに見ていた。
「この日、この時に、たまたまお前たちが“鎮綏(ちんすい)椀”の件で来ただけ。私はその巡り合わせを上手くいくように物事を回すだけ」
「鎮綏椀!?」
 雪豹は紫陽先生の言った言葉を聞き逃さなかった。
「何だよ! その鎮綏椀って」
「まあ、落ち着け」
紫陽は立ち上がろうとした雪豹の肩を押さえてもう一度座らせた。
「残念ながらこれは仙界が関わるわけにはいかんので、私からはこれ以上は教えないよ。あとで“弟”に訊くがいい。あいつもそのつもりだ」
「じゃ、なんで“鎮綏椀”なんて名前を口に出すんだよ」
「知らないより、ある程度は知っていた方がいいだろう? “宥める”のに」
そう言うと紫陽は鳥の頭の方を指さした。巨鳥の嘴には黒豹が挟まっているのが見えた。
(あーあ、目が合っちまったよ)
こちらを向いて悪態をついている黒豹と目が合って、雪豹はため息をついた。今は地上からかなり離れた天空を飛んでいる。下手に動くよりは地上に降りるまではあそこに居てもらった方が良いだろうけれど、本人は今すぐ降ろせって絶対思っている。どう転んでも、下に降りたら機嫌を取るのが至難の業だ。
(だったら少しでも情報を引き出した方が得策)
にやりと笑って手を振ると、雪豹は紫陽先生のほうに顔を向きけた。何か大声で叫んでいるようだが、知ったこっちゃない。
「じゃあ、あの気難しい唐変木を納得させるだけの“何か”をもうちょっと教えてもらえないですかね」
「あいつの相手は大変なようだな」
「面倒くさいちゃ面倒くさいけど、兄貴といると面白いからな」
 照れくさそうに雪豹は言った。
「俺らの人生は、あの時に終わってる。今はただの“おまけ”。だから俺は好きなように生きる。義理も道義も知ったこっちゃねぇ」
 ただ……と 一呼吸置いてから雪豹は続けた。
「一つだけ、捨てられない義理がある」
「女狐のことか」
 紫陽の言葉に雪豹は苦笑いを浮かべた。
「"俺たち”は存在しているだけで天帝に疎まれているからな」
「女狐の寿命は今更どうこうできるものではない。だが、豊都ほうと(あの世)では必ず彼女を助けよう。それだけは約束する」
「ありがたいって言って良いのかね」
「私は普段は仙界に身を置き、人界とは関係ない立場だが、彼女は古い友人だからな」
「仙界の住人って割には、先生の姿よく見かける気がしますがね」
 紫陽の言葉を遮って、雪豹が茶々を入れた。
「驪龍がこっちにいるからな」
「仙界(あつち)は時がゆっくりだって聞くけど、大体何日置きにこっちに来てるんです?」
「何日か……この頻度だと、どちらかというと何刻か置きかな」
 それを聞いた雪豹は馬鹿にしたように舌を突き出した。血のように赤かった。
「それだけ時の流れが違うのだ。いちいち人界に起こったことなど、こちらではどうこうしようもない。そして驪龍もまた、何もかも見え何もかも聞こえるようで、見ること聞くことを選んでいる。自分の手に余ることはやらないし、予想外のことに戸惑うこともある。さっきのこの子のケガのようにな」
(ああ、あれで慌ててたんか、驪龍先生は……)
 黒豹がケガしたバガトゥールを担ぎ込んだ時の姿を思い出すと同時に、雪豹はちょっとほっとしていた。あのケガも込みで「解って」いたのならどうしようもない“人でなし”だ。あれでもまだ、少しは“人らしい”ところもあった訳だ。
「だが、女狐は違う」
 雪豹はあっと声を上げて紫陽の言葉を遮ろうとしたが、彼は気にせず続けた。
「彼女は、見ること聞くことが義に沿わぬ事、道に違う事であれば、何が何でも全て正そうとする。どんなに血と涙を流してもな。だが、彼女が私たちの何倍も天に則った行いをしても、生まれ持った宿命さだめで天に裁かれなくてはならない。皮肉な物だ」
「あーあ、言われちまった」
 頭をボリボリかきながら雪豹はぼやいた。
紫陽先生あんたにお頭のことを褒められると逆に穢されたような気分になる。勘弁してくれよ。俺たちは自分たちのことをよく解ってるのさ。どうあがいたって天帝に憎まれる存在には変わりないって」
「そうか」
 紫陽はぼやく雪豹の姿を静かに見た。
「そんなことより、さっきの何とか椀の話……!」
「刻が来たな」
 雪豹の言葉を無視して紫陽は言った。
「お前の目なら見えるだろう、あの仙気を」
 紫陽は遙か後方を指さした。 山間から五色の雲が棚引きうっすらとした光や天上へ向かって伸びていた。
「忌々しい景色だ」
 雪豹はそれを見て呟いた。
「私にも役目というものがあるのでね。行かねば」
 そう言うやいなや、紫陽は怪鳥の背からひらりと飛び降りた。
「え、ちょっ……待っ!」
 雪豹が叫ぶと、下の方から紫陽の声が聞こえた。
「大丈夫、こいつは頭が良いから、全てが終わった頃には積石庵まで連れて行ってくれる。それまでバガトゥールを頼んだぞ」
 声がした方を見ると、紫陽が五色の雲に乗って仙気が上る方へと向かっているところだった。そしてあっという間に見えなくなった。
「やっぱりあんなんでも仙人は仙人なわけだ」
 紫陽は、驪龍の兄弟子にあたり、上清派の本山・茅山でともに修行した仲であった。 共に教主に次ぐ立場である八大高弟に名を連ね、どちらかが次期教主になると、当時は誰もが思っていた。
 しかし、二人とも教主の座を望まず、紫陽は「白日昇天」を行って仙人となり、驪龍は陽関を出て西域を彷徨する流浪の道士となった。
「あの二人が同時に茅山を去ったのには理由わけがある。だが、それを誰も知らない」
 いつだったか、女狐は雪豹にそう言った。
「二人の実力は同等か、場合によっては驪龍先生が上。なのに何故、仙界に昇っていったのは紫陽先生だけなのか。この秘密なぞ、いつか解き明かしたいねぇ」
 女狐は少女のように、いたずらっぽく笑いながら言っていた様を思い出し、雪豹は切なくなった。
(そうだよ、お頭。それを知るまでもう少し……)
泣きそうになるのをぐっとこらえていると、視界の端にもの凄い形相の黒豹が目に入った。怪鳥の涎にまみれた上で強風にあおられ、かなり体温が下がってきたようだ。
「ああ、お前も可哀想に」
 雪豹は天を仰ぎながら大げさに言った。
「あんな不味いもんずっと咥えてるんじゃあ、腹壊すぜ。いくら仙人の命令っても、こりゃないぜ。鳥さんよぅ、お気の毒様だな」
 雪豹の言葉を聞いて、黒豹は真っ赤に怒って怒鳴り声を上げた。
 黒豹が罵詈雑言を上げる様を見て、雪豹はケラケラと笑った。
(あれだけ元気があれば、まだ大丈夫だな)
 静かだな、と思っていたらバガトゥールは羽毛に埋もれたまま熟睡をしていた。
「おいおい、落ちるなよ」
 もぞもぞと動く少年を抱きかかえると背中を軽く叩いた。気がつけば五色の雲も消え去り、いつもの蒼天が広がっていた。もうそろそろ戻れるようだ。
(あんまり時間をかけたくないが、さて、どうなることやら)
 こんなに早くお頭のところに帰りたいなんて事は、今まで無かったな。雪豹は、ふと思い立って馬に拍車をかけるように、鳥の胴を蹴ってみた。

第2章 驪龍道士

  爆風と共に、何かが、肩や背中に打ち付けられるのを感じた。
 痛みと言うよりも、痺れを感じながら、彼は腕の中の少年の様子を確かめた。爆風による影響を受けていないことを見て、ホッと息を漏らした。
「急がば回れとは、よく言ったものだ」
 不意に、後ろから声がした。低く響くその声は、あまり聞きたくない声でもあった。
「”一つ目”と一緒に来れば、こんな目に遭わずに済んだものを」
 それは、青藍の道服を身に纏った長身の道士、驪龍の声だった。
「しかし、よく、爆発することが解ったな」
「前にもあっただろうに。俺がお前んとこにくる度に、こんな目に遭ってる気がするぜ」
「ああ、そうか」
 納得したように笑った。
「仙薬の調合は難しく、ちょっとした按配で破綻する。いつもお前が騒がしく来るから、その度に手元が狂うのだな」
「人の所為せいにするなよ!」
 文句を言う黒豹に構わずに、驪龍は彼の手から少年を抱え上げた。
 そして素早い手つきで止血の布を解くと、少年の傷の様子をつぶさに確かめ始めた。黒豹は、自身の傷の痛みに耐えながら、その様を凝視した。
(――!?)
 布が解かれていけばいくほど、黒豹は己の目を疑った。肌にこびりついた、赤黒い血痕こそ痛々しかったが、新たな出血はもうなく、それどころか傷痕さえ、ほとんど見あたらなかった。驪龍が清水で丁寧に少年の体を洗っていくと、血痕の下からはふっくらとした幼児の皮膚だけが現れた。
 致命傷とさえ思われた、あの額の大きな傷でさえ、跡形もなく消え失せていた。
 黒豹の脳裏に先程の象牙色の膏薬が蘇った。あの薬、これほどまでに効果があるものだったのか――
 体を拭かれている最中さなかに、少年は目を覚ましていたが、驪龍の作業が終わるまで、杏仁のような目をくるくるさせながらじっとしていた。
「さあ、これでいい」
 真新しい服を彼に着せながら、驪龍は言った。
「今回はまた派手にやったな……もう、あそこに行っては駄目だぞ」
「……先生、お腹空いた」
 懲りた様子なども微塵も見せずに、少年は呟いた。
「いつものところに、干し棗と甘露湯が用意してある。大怪我をした後だ、しっかり食べて養生しなさい」
「はーい」
 少年は嬉しそうに頷くと、その場を立ち去ろうとした。が、あることに気付き、高い声を上げた。
「先生! 黒豹と雪豹は!?」
 きょろきょろと見回すと、岩の影に寄りかかって痛みに耐えている黒豹の姿が目に入った。
「どうしたの!?黒豹!」
 駆け寄ろうとする少年を、黒豹は右手で制した。
「来なくて良い! てめえのキンキンする声を聞くと、余計に傷が痛む」
 叫んだらさらに痛みが増したらしい。黒豹の顔は苦痛に歪んだ。
 それを見た少年は、慌てて先生の姿を捜した。しかし、捜すまでもなく、驪龍は新鮮な清水を入れた桶や、治療に必要な薬、油紙、包帯などを携えて黒豹の後ろにかがみ込んだ。
「バガトゥール、向こうに行っていなさい。休まなくては駄目だ」
「先生……黒豹は大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ」
 驪龍は黒豹の背に刺さった岩の破片などを丁寧に取り除きながら答えた。
「多少、待たせたが問題ない」
「そうだよ」
 ふて腐れたように黒豹が呟いた。
「あいつが大丈夫なら、何で俺を後回しにする?」
「お前を先に診たら、怒るのはお前自身だろうに」
 確かにそうだ。図星を指された黒豹だが、それだけでは腹の虫が治まらなかった。
「その薬を塗れば、バー公みてぇにすぐ治るのかよ」
 少年の名、”バガトゥール”は鉄勒テュルクの言葉であったため、黒豹は少年のことをそう呼んでいた。そのことは、驪龍も承知していた。
「さあな」
 清水で傷口を洗浄しながら驪龍は呟いた。
「あの子は私と寝起きを共にしているからな。体の中が清浄なのだよ。だが、お前はどうだ? 清められていない分、時間がかかると思え」
 その言葉に、黒豹はフンと鼻で嘲笑った。
「心身共に清浄な盗賊が、どこにいる。それだったら、死ぬまで治らねぇな、この傷」
「大丈夫だよ」
 不意に、黒豹の目の前にバガトゥールが現れた。
「先生の薬は良く効くよ。すぐに治るよ」
 黒豹の、ぼさぼさの頭を撫でながら、まるで子供に言うようにバガトゥールは言った。それから、掌に握っていたものを彼に差し出した。
 それは、小さな、干した棗だった。
「食べなよ。元気が出るよ」
「いらねぇよ」
 どうにも照れくさくなって、黒豹は目を背けながら言った。
「酒があれば、それで良い」
「いけないんだ!」
 唇を尖らせてバガトゥールは叫んだ。
「酒なんて飲んだら、五臓六腑が腐っちゃうんだぞ」
「んなワケないだろ!!」
 呆れたように黒豹は返事をした。一体全体、驪龍は、どんなことをこの少年に吹き込んだのか。  
「だって先生が言ってたよ……えーと……」
「百害あって一利なし、だろ」
「うん、そうそう」
 驪龍の言葉に頷きながら、バガトゥールは言葉を続けた。
「その、百害って、どんなんだか知ってる?」
「知らん!」
「いっぱい、体に悪いって事だろ? つまりさ……」
 彼は少し声を低くし、顔を黒豹に近づけながら言った。
「色んなところが悪くなる。悪くなったら、そこが腐るんだよ。その辺に落ちてる屍肉みたいに。恐いだろ?」
「――それ、誰が教えた」
「教わったんじゃない。自分で考えたんだ、すごい?」
 得意そうに言う彼の顔を見て、黒豹は思わず溜め息を漏らした。
 人里離れ、こんな山奥に道士と化け物と籠もっているような生活だから、こんな素っ頓狂な考え方になるのか……黒豹は何でまたこの少年をこんな境遇においているのかと、いつも不思議に思っていた。
「俺はお前の何倍も生きてるが、そんな奴見たこともねぇぞ」
「えー?」
 少年のふくれっ面を見て、黒豹は思わず吹き出した。
「解ったよ、そんな奴を見たらお前に教えてやるよ」
「絶対だよ!」
 二人がどうでも良いような、たわいのない話をしている間に、背中の傷のほとんどは油紙で覆われ、その上に亜麻布が巻かれていた。
 口惜しいが、驪龍の鮮やかな腕前は認めざるを得ない。
「あらら、怪我した人間が違うんじゃねぇ?」
 ふいに背後から人を小馬鹿にしたような声が響いた。いつも聞いている、ちょっと高めの、癖のある声。
「なにヘマした……」
「っるせー!」 
 うつむいたまま、声のする方に向かって黒豹はひゅっと匕首を投げつけた。標的を見たわけでもないのに、匕首は的に向かって一直線に飛んでいった。
 対して「的」の方は、ふん、と鼻で笑いながらそれを難なくかわすと、くるっと反転して黒豹の背中に思いっきり蹴りを入れた。
 傷口を直撃された黒豹は、うぐっと声を上げて蹲った。
「――雪豹よ、相も変わらずの過激な愛情表現だな、」
 二人の遣り取りを端で見ていた驪龍は、呆れたように言った。
 驪龍の声を聞き、雪豹はあわてて彼の方を向き、両手を合わせて挨拶をした。
「先生、お久しぶりです」
 彼は黒豹と違って不作法ではない。表向き女狐の使いで来た以上は礼儀に則って挨拶をした。
「女狐のお頭からの使いでお邪魔しました」
 懐から例の小箱を取り出すと、それを恭しく驪龍に差し出した。
「これは……狐の珠ではないか!?」
 驪龍は箱を受け取るより早くに、その中身を言い当てた。そして長い指で丁寧に箱の中身を取り出した。
 滑らかに光り、手のひらにすっぽりと収まるその珠は、真珠でもない、ぎょくでもない、数々のお宝を見てきた黒豹・雪豹ですら初めて見る代物だった。七色に光る珠をたなごころに転がしながら、驪龍は言葉を続けた。
「これは珍宝中の珍宝。このようなものを私に託すとは……女狐は己の寿命がそう長くはないと悟っているようだな」
 黒豹と雪豹は嫌な予感を同時に抱いた。二人は顔を見合わせると無言で頷きあった。
「――先生、来た早々で悪いが、これでおいとまします」
「頼まれた品は、確かに渡した。怪我の治療の礼は、そのうちする」
 二人は交互にそう言い、軽く会釈をすると、雪豹が引いてきた馬に跨がってその場を去ろうとした。
「まあ待て」
 驪龍は腕を軽く上げると、二人を制した。
「せっかく来たのだ。焦ることはあるまい」
 驪龍は、丁寧に狐の珠をしまいながら言葉を続けた。
「女狐の寿命は今日明日に迫っているわけではない。まだ間に合う。そう慌てるな」
 その言葉に、二人の動きは止まった。それは言外に「まだ死に目には間に合う」ということであった。
 驪龍道士は、何でも見通す千里眼と、何でも聞こえる順風耳という二つの能力ちからを持っていた。彼の目と耳は、時には時空を超え、予言めいたことを告げることも少なくなかった。
 「知りたいことがあるのだろう? 訊かなくていいのか?」
 それは、例の銅椀のことを意味していた。
「それは……」
高昌カラ・ホージャにも通はいる。それに訊けばいいことさ」
 言葉に詰まった雪豹の代わりに、黒豹が答えた。
「嫌な気分になってまで、あんたに訊くことはない」
「ずいぶんな言われ様だな」
 彼の言葉に、困ったような声色で驪龍は返した。だが、表情は一切変わっていない。それが妙に荘厳で不気味ですらあった。まるで作り物のような、中性的で完璧なまでに整った顔立ちが、そう感じさせるのかもしれない。
「頼みたいことがあるのだ。もし、引き受けてくれたら、それなりの礼はする」
「タダじゃないってことか?」
「ああ」
 驪龍は静かに頷いた。この道士が頼み事をするなど、滅多にないことだ。
「兄貴、話を聞こうぜ」
 雪豹は黒豹の肩を叩きながら答えた。
「う……」
 困ったような、妙な顔立ちで黒豹は頷いた。損得勘定が頭の中を渦巻いていたのだ。「それなりの礼」とは、「それなり」ではなく「とてつもない」礼であることは間違いない。
 この道士のことを死ぬほど嫌ってはいるが、損得には聡い盗賊家業しょくぎょうがら、彼の話を受けるしかあるまい。
「ありがたいな」
 驪龍は言葉を続けた。
「今日は、天地を巡る気が、この地に一堂に集まる日なのだ。秘薬中の秘薬と言われるある仙薬を完成させることができる貴重な機会。この日を逃すと、あと九〇〇年は巡ってこない。私は数年前からここに籠もって、今日、この日のために準備をしてきた」
 驪龍は陽関を越えて以来、あちこちを転々として西域各処を彷徨していたのだが、積石庵をこしらえて以降は、ここに腰を落ち着けていた。
「だがな、仙薬を調ずるには、子供の気は邪魔なのだ。邪気となって、仙薬の効果を損じてしまう」
「それでバー公を追い出してたのか」
「追い出すとは、ひどい言い方だな」
 驪龍は黒豹に一瞥をくれると、一瞬悲しげな顔になった。
「ここから離れたところで、一つ目に面倒を見させていたのだが、子供というのは何をしでかすか予想しがたい。まさかあんな目に遭うとは」
「それで俺たちにバー公の面倒を見させようという魂胆か?」 
「まあ、そういうことだ。先程も、バガトゥールの怪我で私の気も散ってしまった結果があの爆発だ。もう、この後何度も機会がない。こちらも切羽詰まってるのだよ」
「まあいいさ」
 黒豹は両手を挙げた。
「だいたい、あんたがあんな子供を育てていること自体、間違ってるんだよ。ったく、可哀想に。今日ぐらいは、気持ちよく一日を過ごさせてやるさ」
 なんだかんだ言って子供好きな黒豹は、あっさりと引き受けてしまった。その様を見て、雪豹は思わず苦笑した。
 しかし、それが彼のいいところでもある。悔しいが、雪豹は黒豹のそう言うところが好きであった。

 ふうと、大きく息をつくと、雪豹はごろりと草むらの上に寝転がった。
 今、自分はこんなところで、こんな事をしていていいのだろうか?
 そんな焦燥感を、頭の中から追い出すように、意味もなく左右に頭を振ってみた。
(どっちがガキなんだか……)
 耳をつんざくような嬌声に呆れつつ、あの二人を横目で追った。
 すり切れた毛氈に乗って、なだらかな丘を滑り落ちていく黒豹とバガトゥール。勢いよく滑り降りたときはもちろん、大きく転んでもげらげらと大きな声で笑い転げていた。雪豹はふん、と鼻を鳴らすとごろりと寝返りを打った。
(二人ともあんな大ケガした後で、よくまあ、あそこまでバカやれるもんだ。傷口が痛んでも知らねぇぞ……)
 と、そこで雪豹はあることに気づいた。
 ガバッと勢いよく起きあがると、二人の方を見た。
 案の定、二人は驪龍からもらった薬を、擦り剥いたところに擦り込んでは丘に上がって滑り降りていた。
「おら! 勿体ないことするな!!」
 大声を上げると、雪豹は大きく飛び上がった。そしてひらりと二人の前に舞い降りると、その手から膏薬の入った壺を奪い取った。
「唾付けとけば治るような傷に、こういう薬を使うなよ。……ったくぅ。勿体ない」
「何、ケチ言うんだよ。ほれ見てみろ。ツルツルだぞ」
 そう言いながら、黒豹はさっき擦り剥いた腕を見せた。傷が瞬く間に治ったことを教えたいらしい。
 古傷の跡があちこちに残っていて、おまけに腕毛がモジャモジャ、この腕のどこがツルツルなんだと、雪豹は鼻に皺を寄せた。そして黒豹の腕に向かってペッと唾を吐いた。
「げっ! 汚ねぇな!! てめえ、何しやがるんだ!?」
「だから、唾付けときゃいいんだよ。ひでぇケガをしたとき、この薬が無くなったらどうすんだよ」
 悔しいが、雪豹の言うことはもっともだったので、とりあえず黒豹はその場を引いた。だが、腹の虫が治まらなかったので、彼が顔を背けたとたん、怒濤のごとく罵倒し始めた。
 背中でそれを感じ取った雪豹は、くるりと向きを変えると、側にあった、やや大きめの石を彼に向かって蹴り上げた。
 黒豹はバガトゥールを抱えてそれをひょいと避けると、大声で嘲り笑った。
「付き合ってらんねーよ」
 雪豹はそれを無視すると、壺をじっと見つめた。壺の中はほぼ空になっていたので、顔を上げて冷たい視線を黒豹に投げかけた。
(驪龍先生の作る普通の膏薬だってこの効力だもんな。千年だか、九〇〇年だかに一度しかできない仙薬……それは一体どういうものなんだろう?)
 わずかに残った膏薬を眺めながら、雪豹は考えた。
 仙界・人界あわせて、驪龍ほど仙薬造りに長けたものはいないという話も聞く。
 そんな彼が、必死になって――彼にしたらあれでも顔色を変えて――作ろうとする仙薬。あれさえあれば、女狐の病も癒えるのではないか?
 問題は、どうやってそれを手に入れるのか?
だいたい、こう考えた時点で、相手にこちらの考えていることなどすべて筒抜けな気がする。
 いやいや、今は仙薬造りで頭が一杯で気付くこともないかもしれない。彼の千里眼と順風耳は、全てを見通し、全てを聞き取る訳ではないはずだ。
 つまりはだ、相手が気付かない、ほんのわずかな隙があるかもしれない。
 それはいつだ?
「いや、やめておけ。ろくな結果にはならないぞ」
 不意に後ろから声を掛けられ、雪豹は全身総毛立った。人の気配には聡いはずなのに、知らぬ間に誰かに背後を取られたことに、一瞬命の危険すら感じた。
 しかし、その声色から主が誰だかすぐに解り、彼は匕首えものを懐から出さずにすんだ。
「なんのことです?」
 努めて平静に、眉一つ動かさないよう気をつけながら言葉を返した。
「やめておけってことさ」
「だから、なんのことです?」
「解ってるだろう? 企みなんぞ、通じる相手か?」
 雪豹はチッと舌打ちをした。
 この連中と来たら、お天道さまの下で物を見るように、腹の中の隅々まで覗き込みやがる――
師兄しけいー!」
 毬のように飛び跳ねながら、バガトゥールが雪豹の頭を飛び越え、後ろの男に飛びついた。 男は口元を綻ばせながら、ひょいと少年を抱え上げた。
「また少し大きくなったな」
 バガトゥールはうれしそうに男の頬に自分の頬をすり寄せた。
「師兄は大きくなった? 小さくなった?」
 突拍子もない問いに、思わず雪豹は吹き出した。
「さあ……どっちかな?」
(こいつらはどっちだって思いのままだろうに)
 雪豹は心の中で毒づきながら男の顔を見た。
「ご機嫌斜めなようだな、雪豹」
 青藍の道服をまとった長身の男は、パチンと指を鳴らした。同時に息をつけないくらいの大風が巻き起こった。目に砂が入り、雪豹は一瞬目をつむった。そして目を開いた次の瞬間、目の前の風景が変わっていた。
(ここはどこだ……)
足元は先ほどまで寝転がっていた草原ではなく、黒い羽毛に覆われ、温かく血が通う何かであった。風は相変わらず強く吹いていて、目を開けているのにも苦労した。
「“この子”はバガトゥールが慣れているので借りているんだが、扱いが良く解らなくてな」
そう言うと“地面”が大きく右に傾いた。雪豹はうわっと声を上げていると足元の羽毛を掴んで転げ落ちるのを防いだ。
「悪い悪い。なるべく水平にするように気を付けるが、しっかり掴まっていてくれるかな」
男は仁王立ちのままそう言った。いつの間にか彼らは、巨大な黒い怪鳥の上にいた。そして恐ろしい速さで空を飛んでいた。
 “慣れている”バガトゥールは、羽毛の中に体を埋めて四肢でしっかりと怪鳥の体を掴んでいた。
積石庵あのの周辺は今、仙界と人界の区別がなくなっているのでね、お前やこの子のような者は居てはならないのだよ」
「なるほど……」
雪豹は怪鳥の上にあぐらをかきながら呟いた。黒嵐に比べたら、こんな風などたいしたことはないと腹を決めた。
「ってことは、紫陽先生は驪龍先生あいつに俺ら込みで子守を頼まれてたって事かよ」
 忌々しげに雪豹は言った。
「上手い調子で兄貴を言いくるめて、あんたら何を企んでる」
「企んでいるわけではないさ。ただの巡り合わせ」
“紫陽先生”と呼ばれた男は、雪豹の不貞腐れる様を面白そうに見ていた。
「この日、この時に、たまたまお前たちが“鎮綏(ちんすい)椀”の件で来ただけ。私はその巡り合わせを上手くいくように物事を回すだけ」
「鎮綏椀!?」
 雪豹は紫陽先生の言った言葉を聞き逃さなかった。
「何だよ! その鎮綏椀って」
「まあ、落ち着け」
紫陽は立ち上がろうとした雪豹の肩を押さえてもう一度座らせた。
「残念ながらこれは仙界が関わるわけにはいかんので、私からはこれ以上は教えないよ。あとで“弟”に訊くがいい。あいつもそのつもりだ」
「じゃ、なんで“鎮綏椀”なんて名前を口に出すんだよ」
「知らないより、ある程度は知っていた方がいいだろう? “宥める”のに」
そう言うと紫陽は鳥の頭の方を指さした。巨鳥の嘴には黒豹が挟まっているのが見えた。
(あーあ、目が合っちまったよ)
こちらを向いて悪態をついている黒豹と目が合って、雪豹はため息をついた。今は地上からかなり離れた天空を飛んでいる。下手に動くよりは地上に降りるまではあそこに居てもらった方が良いだろうけれど、本人は今すぐ降ろせって絶対思っている。どう転んでも、下に降りたら機嫌を取るのが至難の業だ。
(だったら少しでも情報を引き出した方が得策)
にやりと笑って手を振ると、雪豹は紫陽先生のほうに顔を向きけた。何か大声で叫んでいるようだが、知ったこっちゃない。
「じゃあ、あの気難しい唐変木を納得させるだけの“何か”をもうちょっと教えてもらえないですかね」
「あいつの相手は大変なようだな」
「面倒くさいちゃ面倒くさいけど、兄貴といると面白いからな」
 照れくさそうに雪豹は言った。
「俺らの人生は、あの時に終わってる。今はただの“おまけ”。だから俺は好きなように生きる。義理も道義も知ったこっちゃねぇ」
 ただ……と 一呼吸置いてから雪豹は続けた。
「一つだけ、捨てられない義理がある」
「女狐のことか」
 紫陽の言葉に雪豹は苦笑いを浮かべた。
「"俺たち”は存在しているだけで天帝に疎まれているからな」
「女狐の寿命は今更どうこうできるものではない。だが、豊都ほうと(あの世)では必ず彼女を助けよう。それだけは約束する」
「ありがたいって言って良いのかね」
「私は普段は仙界に身を置き、人界とは関係ない立場だが、彼女は古い友人だからな」
「仙界の住人って割には、先生の姿よく見かける気がしますがね」
 紫陽の言葉を遮って、雪豹が茶々を入れた。
「驪龍がこっちにいるからな」
「仙界(あつち)は時がゆっくりだって聞くけど、大体何日置きにこっちに来てるんです?」
「何日か……この頻度だと、どちらかというと何刻か置きかな」
 それを聞いた雪豹は馬鹿にしたように舌を突き出した。血のように赤かった。
「それだけ時の流れが違うのだ。いちいち人界に起こったことなど、こちらではどうこうしようもない。そして驪龍もまた、何もかも見え何もかも聞こえるようで、見ること聞くことを選んでいる。自分の手に余ることはやらないし、予想外のことに戸惑うこともある。さっきのこの子のケガのようにな」
(ああ、あれで慌ててたんか、驪龍先生は……)
 黒豹がケガしたバガトゥールを担ぎ込んだ時の姿を思い出すと同時に、雪豹はちょっとほっとしていた。あのケガも込みで「解って」いたのならどうしようもない“人でなし”だ。あれでもまだ、少しは“人らしい”ところもあった訳だ。
「だが、女狐は違う」
 雪豹はあっと声を上げて紫陽の言葉を遮ろうとしたが、彼は気にせず続けた。
「彼女は、見ること聞くことが義に沿わぬ事、道に違う事であれば、何が何でも全て正そうとする。どんなに血と涙を流してもな。だが、彼女が私たちの何倍も天に則った行いをしても、生まれ持った宿命さだめで天に裁かれなくてはならない。皮肉な物だ」
「あーあ、言われちまった」
 頭をボリボリかきながら雪豹はぼやいた。
紫陽先生あんたにお頭のことを褒められると逆に穢されたような気分になる。勘弁してくれよ。俺たちは自分たちのことをよく解ってるのさ。どうあがいたって天帝に憎まれる存在には変わりないって」
「そうか」
 紫陽はぼやく雪豹の姿を静かに見た。
「そんなことより、さっきの何とか椀の話……!」
「刻が来たな」
 雪豹の言葉を無視して紫陽は言った。
「お前の目なら見えるだろう、あの仙気を」
 紫陽は遙か後方を指さした。 山間から五色の雲が棚引きうっすらとした光や天上へ向かって伸びていた。
「忌々しい景色だ」
 雪豹はそれを見て呟いた。
「私にも役目というものがあるのでね。行かねば」
 そう言うやいなや、紫陽は怪鳥の背からひらりと飛び降りた。
「え、ちょっ……待っ!」
 雪豹が叫ぶと、下の方から紫陽の声が聞こえた。
「大丈夫、こいつは頭が良いから、全てが終わった頃には積石庵まで連れて行ってくれる。それまでバガトゥールを頼んだぞ」
 声がした方を見ると、紫陽が五色の雲に乗って仙気が上る方へと向かっているところだった。そしてあっという間に見えなくなった。
「やっぱりあんなんでも仙人は仙人なわけだ」
 紫陽は、驪龍の兄弟子にあたり、上清派の本山・茅山でともに修行した仲であった。 共に教主に次ぐ立場である八大高弟に名を連ね、どちらかが次期教主になると、当時は誰もが思っていた。
 しかし、二人とも教主の座を望まず、紫陽は「白日昇天」を行って仙人となり、驪龍は陽関を出て西域を彷徨する流浪の道士となった。
「あの二人が同時に茅山を去ったのには理由わけがある。だが、それを誰も知らない」
 いつだったか、女狐は雪豹にそう言った。
「二人の実力は同等か、場合によっては驪龍先生が上。なのに何故、仙界に昇っていったのは紫陽先生だけなのか。この秘密なぞ、いつか解き明かしたいねぇ」
 女狐は少女のように、いたずらっぽく笑いながら言っていた様を思い出し、雪豹は切なくなった。
(そうだよ、お頭。それを知るまでもう少し……)
泣きそうになるのをぐっとこらえていると、視界の端にもの凄い形相の黒豹が目に入った。怪鳥の涎にまみれた上で強風にあおられ、かなり体温が下がってきたようだ。
「ああ、お前も可哀想に」
 雪豹は天を仰ぎながら大げさに言った。
「あんな不味いもんずっと咥えてるんじゃあ、腹壊すぜ。いくら仙人の命令っても、こりゃないぜ。鳥さんよぅ、お気の毒様だな」
 雪豹の言葉を聞いて、黒豹は真っ赤に怒って怒鳴り声を上げた。
 黒豹が罵詈雑言を上げる様を見て、雪豹はケラケラと笑った。
(あれだけ元気があれば、まだ大丈夫だな)
 静かだな、と思っていたらバガトゥールは羽毛に埋もれたまま熟睡をしていた。
「おいおい、落ちるなよ」
 もぞもぞと動く少年を抱きかかえると背中を軽く叩いた。気がつけば五色の雲も消え去り、いつもの蒼天が広がっていた。もうそろそろ戻れるようだ。
(あんまり時間をかけたくないが、さて、どうなることやら)
 こんなに早くお頭のところに帰りたいなんて事は、今まで無かったな。雪豹は、ふと思い立って馬に拍車をかけるように、鳥の胴を蹴ってみた。

第4章 亀茲の姫

「こんな時間でも結構人の出入りがあるなぁ」
 少し離れた丘に立ち、灯りがともる穹廬きゅうろの群れをながめながら黒豹は言った。日が暮れてからかなり経つのに、それぞれの穹廬を出入りする人が耐えなかった。
「給仕かなんかだろうな……なんでも明教の連中は祭りが始まるまで、日が出ている間は飲み食いできないってさ。だから一日分を今食べてるみたいだよ」
「ふうん」
 黒豹はあきれたように呟いた。
「なんちゃって食うや食わずか。何の意味があるんかね」
「知らん」
 明教の大祭――ガーフ大祭は、ササン朝ペルシアの皇帝の不興を買い、投獄ののち殉教した教祖摩尼マーニー・ハイイェーを偲ぶ祭である。伝えるところに依ると、教祖摩尼は獄中にいた二十六日間、断食をして過ごしていたという。信徒たちも同じ二十六日間断食をすることによって、教祖の苦難を追体験しているのである。
「食い物があって食わないなんて、飢え死にしそうな連中からしたら贅沢だとは思うけどさ」
「贅沢知ってる"良家いいとこのボンボン"が言うな」
 黒豹が雪豹の頭を小突くと、反射的に雪豹も黒豹の鳩尾に一発喰らわせた。
「でも、大分羽振りがいいようだな。去年もっとやってやりゃ良かったな」
 宿衙は予想以上に大きく、数多くの穹廬が並んでいた。
「今の司祭がこっちに来たのが半年ぐらい前らしいよ。おそらくはそれからだ」
雪豹は灯りの灯る穹廬の数を数えた。一番大きくて人の出入りが多いのが教会なのだろうか。守備する兵士は、遠目からだとよく見えない。
薛延陀兵あいつらは結構やっかいだからな。そいつらがどれくらい詰めているかだな……」
「あん時も結構何とかなったから大丈夫じゃねえか」
 黒豹の言葉を聞いて、雪豹の口元に笑みが浮かんだ。
 あの時、薛延陀と唐の通婚を妨害するため、女狐たちは徹底的に仕掛けた。
 唐への献上品となる馬や羊を運ぶ牧民たちや、部民から徴収した金子を運ぶ商胡たちを毎日のように襲った。
 牧民たちは馬羊のほとんどが後から戻ってくることを知ると、涙を流して喜びながら進んで馬羊を差し出すようになった。
 一方の商胡たちは、屈強な薛延陀兵が守りを固めていた上、狡猾な商胡たちが上手く金子を隠すので、場数を踏んだ女狐も手を焼くほどだった。
 一味のほとんどが牧民たちに標的を絞る中、ひたすら商胡たちを襲っていたのが黒豹と彼を慕う連中だった。
今回これも面白くなるぜ」
「そうだな、兄貴。バカ騒ぎしようぜ」
 これから合流する連中は、その時も一緒だった。危険を危険と思わない“紙一重”の奴らだ。
 企てが上手くいくかどうかは、雪豹じぶん次第。何とかなるんじゃなく、何とかするんだよな。
 雪豹は懐から巾を取り出すと、するりと顔と頭に巻いた、
「明日は大祭とやらの前になるから、各地に散っていた商胡たちも戻ってくるはず。動くなら早いほうがいい。とりあえず、下見に行こうぜ」
「ああ、アイツらは夜明け前には来るだろうから、それまでに動き決めよう」
 黒豹もそう言うと、黒い巾で顔を隠した。二人は互いに目で合図をすると、軽やかにそして音もなく丘を駆け下りていった。

「こりゃ……ひでぇ」
 宿衙に侵入する前、ちょうど真南に当たるあたり、山肌近くで異変を感じた雪豹は、黒豹を呼び止めてそこへ向かった。
 そこは窪地になっていて、死体が山積みになっていた。暗くて正確な数は解らなかったが、相当数あるようだった。
「全部……若い娘だな」
 無造作にうち捨てられている死体が全て若い娘のものだと知ると、二人の背筋に冷たいものが走った。例の、生贄なのだろう。
「こんなゴミみたいに打ち捨てられるなんて、親も浮かばれないな……」
 月明かりを頼りに窪地の中を確かめている雪豹が呟いた。
 明教は、血肉は悪魔からできており、光である魂を閉じ込めている牢獄だと考えている。それ故、他の宗教と違い亡骸を弔う習慣はない。
「新しい血の臭いはしないから、確かに“潔斎”の間はやっていないようだな。それだけは救いか……」
 亀茲の十二人の他、まだどれくらい乙女たちが囚われているのか……。
(これが解らないと、動きが決まらねぇな)
「おい、雪」
 今度は、黒豹の耳が何かを捉えたようだった。

「姫様、とにかく、逃げて……」
 血の気の失せた顔で少女は言った。口の中には血の味がいっぱいに広がって、気持ち悪かった。追っ手が迫る音が聞こえてくるのに、足はもつれて、もう一歩も動けない。
「私が、彼らの気を逸らしますから、早く外へ」
「ダメ!」
 もう一人の少女がギュッと手を握って励ました。
「私ひとりじゃ何もできない。アイーシャお願い、頑張って」
 その時、薛延陀兵の声がした。見つかったのだ。少女たちはお互いの手を強く握って目をつぶった。
 近づく足音に身を固くしていると、次の瞬間、大きな音がした。
 二人は目を開けると、すぐ側に薛延陀兵が転がっていて驚いた。見上げると覆面をした二人の男が月を背に立っていた。
「おっさん、こんないたいけなお嬢さんたちをいじめるなんて、悪い奴だぞ」
 そう言うと、背が高い方の男は薛延陀兵を軽々と持ち上げ、側にあった荷車へと放り投げた。 訛りが強いが、間違いなく漢語だ。少女たちは彼らが胡人でも薛延陀でもないことに少しほっとした。
 それから男たちは、二人をさっと抱え上げると大きく飛び上がった。そして近くにあった胡楊の木の上へと一気に駆け上がった。
「シッ」
 男は少女に静かにするように指示した。
 下から、少女たちを探す薛延陀兵の声がした。追っ手が次々に通り過ぎていった。
 どれくらい時間が経ったろうか。男の息づかいと心臓の鼓動の音に、不思議な安心感を覚え始めたとき、ふわりと体が浮く感覚を覚えた。と、次の瞬間には地面に降りていた。
「もう大丈夫。追っ手は今見当違いのとこ行ってるから安心しな」
 少女はもう一人の少女――アイーシャの方に駆け寄ると、不思議そうな顔をして彼を見た。
「あー、俺たち怪しいけど怪しいものじゃ……って、雪、俺たちの言葉通じてるかな」
 少女二人がぽかんとこちらを見ているのに困って、黒豹は雪豹に助けを求めた。
 当時の西域諸国では自国の言葉以外にもいろいろな言語が飛び交っていた。交易に関してはソグド語が主流。政治的には唐の勢力が強くなっては来ていたが、まだまだ西突厥の支配も強く、漢語も通じたり通じなかったりするのが実情だった。
「この服装は間違いなく亀茲のお嬢さんだと思うけど、俺も吐火羅トカラ語はわかんないよ」
 大月氏の末裔である亀茲や阿耆尼は、周辺とは少し違った吐火羅語という言葉を使っていた。
「でも亀茲はこの間までは唐寄りだったから、多分、キレイな漢語なら解るんじゃね?」
 訛りが強くて悪かったなと、黒豹は雪豹に悪態をついた。
「古都洛陽の“お貴族様”に戻って話してみらぁ」
 そう言って雪豹は黒豹に目配せすると、二人の少女の近くに寄った。
「お嬢さんたち、もしかして阿耆尼に行く途中で攫われた亀茲のお姫様たちですか?」
 ゆっくり丁寧に話す雪豹の言葉に、二人はゆっくりと頷いた。
「そう、良かった。私たちは“女狐”の一党なんだが、ご存知で?」
「あっ」と小さく声を上げると、少女たちはほっとした表情を浮かべた。去年の騒ぎは亀茲へもしっかりと伝わっていたらしい。
「知っているなら話は早い。私たちはこの薛延陀とそこそこの因縁がある。そして女狐の親分から、あなた方お嬢さんたちを助けるように命を受けている。だから安心して大丈夫ですよ」
 二人の少女はもう一度頷いた。
「じゃあ、教えてください。他の十人はどこへ?」
 今度は二人とも首を横に振った。
「解りません」
 アイーシャが口を開いた。
「私は、この姫様の侍女で、幼き頃より身の回りのお世話をしています。だからでしょうか、私たち二人だけは別の穹廬に連れて行かれました。先ほど夕餉の給仕が出入りする隙をついて抜け出てきましたので、他の者がどこにいるかまでは……」
 薛延陀兵の隙を突くとは、勇気あるお嬢さんたちだと黒豹は感心した。
「雪、これじゃ下見どころじゃないな。追っ手がこっちに気づく前に、いったん高昌へ戻ろう」
「ああ、でもこっちのお嬢さんは無理、連れてけない」
 そう言って雪豹はアイーシャの手を取って脈を診た。弱々しい脈が触れた。
(やっぱり……)
「こっちのお嬢さん、かなりのケガをしてる。おまけにそこから邪気も入ったらしく熱もある」
 アイーシャはゆっくりと頷いた。それを見て亀茲の姫は悲鳴を上げた。
「アイーシャ、あの時なの? 私が下手に抵抗したから……」
 姫はこの宿衙に入る前にも一度逃亡を企てていた。その時振るわれた鞭から姫を守ったのがアイーシャだった。
「大丈夫、大丈夫です」
 姫君を宥めるようにアイーシャは微笑んだ。
「姫様を守るのが、私の役目です」
「でも……」
 黒豹は手を伸ばして、それでも何か言おうとする姫君の口を手で塞いだ
「気持ちは分かる。でも静かにしてくれ。連中に気づかれる」
 姫は涙を流しながらも、黒豹の言うことに従った。
「こっちのお嬢さんは全然大丈夫じゃないよ。傷口が開いてかなり出血してる。下手に動くと命の保証できない」
 よく見ると、右肩のあたりにうっすらと血がにじんでいた。
「手当は?」
 黒豹の問いかけに雪豹は首を振った。
「油断した。今回は辟兵布を着てるから、そういうもん全部高昌に置いてきちまった。今あるのは古傷が疼いたときに使う散薬ぐらい。まあ、古傷に効くもんは新しい傷だって変わらないだろう。とりあえず、この散薬と応急処置で一晩頑張ってもらうしかない」
 アイーシャは雪豹の目を見て頷いた。
「イヤよ!」
 姫の方は大きく首を振った。
「アイーシャと一緒じゃなきゃ……私。だったら私も一緒に戻る」
「ダメだ」
 雪豹は姫を制止した。
「儀式には十二人必要だから、お嬢さんたちは攫われた。逆を返せば十二人揃わなきゃ儀式は行われない。亀茲のお嬢さんが一人欠けることで、もう一人も守られるんだ」
「どういうこと?」
「とりあえず、薛延陀兵はああだが、明教の信徒は“闇落ち”しなきゃ善良だ。悪くは扱われないはずだ。だから今は信じて高昌へ行ってくれ。明日、夜が明けたら必ず全員助け出すから」
「絶対……?」
「ああ、天地神明に誓って」
 大げさな身振りで言う雪豹を見て、姫は泣くのを止めて笑った。
「お嬢様、私は、大丈夫ですから」
 アイーシャはもう一度力強く言った。それを見て、姫は納得するしかなかった。
「兄貴、俺はこのお嬢さんを送ってくる。ついでに中を見てから戻るから、亀茲のお姫様は頼む」
「ああ、解った。いつものところで待っている」
 雪豹に目配せしながら、黒豹は姫を抱え上げた。
「お嬢さん、悪いが馬は丘の上の方にいるんでね。このまま駆け上がるよ。しっかり掴まってくれ」
 そう言うや否や、黒豹はさっと丘を駆け上がって行った。
「じゃあ、お嬢さん」
 一方の雪豹は、気丈に意識を保っているアイーシャを穹廬へ運びながら言った。
「一晩、頑張ってくれよ。明日絶対迎えに来るから」

高昌城市の外れ、往来の多い街道沿いにこぢんまりとした飯屋があった。
「お嬢さん、もう着くよ」
 黒豹の腕の中でウトウトしていた亀茲の姫は、その言葉にハッと目を覚ました。黒豹は何も気にしない感じで、馬の足を進めていた。
「あの、これ……何の香……ですか?」
 不思議と落ち着くのは、この服からふんわり香る不思議な香りのせいかもしれないと思って聞いてみた。
「香? 何じゃそりゃ」
「この服から……」
 彼女が何を聞きたいのか解った黒豹は笑いながら言った。
「これは知り合いの道士からの借り物だから、いっつも作っている薬の臭いが染みたんじゃねえかな。ヤバイ薬じゃないとはは思うが」
 笑い声にビックリして、彼女は黒豹の顔を見上げた。両目以外を布で覆っているので、どんな表情か読めない……。
(一体どんな顔しているのかしら)
 そう思うと同時に、姫は不思議に胸の隅っこがきゅっとなる感覚を覚えた。
 飯屋に着くと、黒豹は慣れた感じで裏庭に馬を止め、周りに誰もいないことを確かめてから裏口から中に入った。
 薄暗い厨房の隅に、燭台の灯りを頼りに、少し恰幅のいい女性が縫い物をしていた。
「三姐さん」
 黒豹が声をかけると、女性は嬉しそうに立ち上がった。
「休んでていいのに、起きてたのか」
「当たり前。久しぶりに会うかわいい弟の帰りを待たないなんてできないよ」
 彼女は背伸びして手を伸ばすと、嬉しそうに黒豹の頬をぱしぱしと叩いた。そして黒豹の後ろに、年の頃十五ぐらいの少女がいるのを見て、「あら、まあ」と驚きの声を上げた。
「この子は?」
「亀茲のお嬢さん。薛延陀から逃げていたところを助けた」
 彼女はまた「あら、まあ」と声を上げた。
 その様子をキョトンと見ていた亀茲の姫に、黒豹は照れくさそうに彼女を紹介した。
「これは俺の三番目の姉さん」
「この子は私の三十番目の弟」
 壮年の女性は笑いながら言った。姉弟と言ってもあまりにも似ていないので、姫は二人を見比べた。背が高く色黒で筋肉質の黒豹に対して、彼女は中背で恰幅が浴く色白で、典型的な漢人の顔立ちをしていた。
「こんな可愛いお嬢さんが来ると解ってるなら、水菓の一つでも用意しておけば良かったわ」
 三娘はそう言ながら厨房を出て、客席のホコリを払うと姫に座るように促した。別の席では三人の男が座って黒豹を待っていた。
「なんだ、三兄弟も雁首揃えて」
 三人は三娘の息子たちで、長男と次男はそれぞれ家を出ていたが黒豹が来ると言うことで集まってきたのだ。
「おう、叔父貴。こっちこっち」
 長男の手招きに応じるように、黒豹は顔に巻いていた布をほどき席に着いた。
 無造作に巻いていた布の下から現れた、左半分が無残にも潰れ、大きな傷痕に覆われたその顔を見て、姫は思わず悲鳴を上げた。どんな顔かといろいろ想像していたが、これは予想外だった。
「ああ、悪い。“初心者”には刺激が強かった」
 黒豹は側にあった皿で、すっと左半分を隠した。
「何やってんの、いい男が台無しだよ」
 三娘は彼の手から皿を奪うと、彼の前に肉が盛られた皿と杯を置いた。
「二郎が持ってきた上等な肉だよ。たんとお上がりよ」
「おかげで明日売るものがなくなっちまったけどな」
 同じ城市で肉屋をしていた次男は、笑いながらそう言った。
 普通に“団欒”をしている彼らを見て、姫はどうしようもない罪悪感に囚われ、真っ青な顔で震えていた。
 助けてもらった恩と、道中与えてくれた安心感。酷く醜い傷痕を見て、強い嫌悪感を抱いた自分。
 どうしよう、どうしたらいい……。
「お嬢さんはこれを召し上がれ」
 必死に涙をこらえている彼女の前に、三娘は薬草茶(ハーブティー)を差し出した。
「よく生き残ったと思うぐらい、酷い傷痕だろう? でも、これを一杯飲んでる間に、見慣れるから、安心なさい」
 そう言って笑いながら、三娘は彼女の前に座った。
 香りの良い薬草に、三娘は貴重な糖蜜を奮発した甘く温かい飲み物。一口飲んだら確かに気持ちが落ち着いてきた。
「姉弟、なんですか?」
「そうよ。腹違い種違いのね」
 三娘はケラケラ笑った。
「私らは涼州の遊郭の生まれ。遊女の子供さ。遊郭の主人は生まれた子供をひとまとめにして育てるから、姉弟になるの。それで育ったら女は遊女、男は適当に外へ出す。私は不器量だから客を取ることより下働き中心でね、その働きぶりを見初められて、涼州からこの高昌くんだりまで来て、今は飯屋の女将。あの子はあの子で家を出て唐の軍隊に入ったら、死にかけてあの顔さ」
 三娘はもう一杯お茶を注いだ。
「唐軍が攻め込んできたときは主人も死んで、もうどうなるかと思ったけどね。何とかこうやって生き延びて、孫にも恵まれた。もう会えないと思っていた弟にも不思議な縁でまた会えた。大変なことがあったって、命あればいいこともあるのよね」
 よっこらしょと声をかけて、三娘は立ち上がった。
「今日は怖いことがいっぱいあったことでしょうけど、この先いいこともありますよ。もう夜も更けたし、ゆっくりおやすみなさい。今、休むところを支度してくるから、ゆっくりそれを飲んで待ってなさい」
 三娘は姫のショールをきれいに畳んで手渡した。そしてパタパタと足音を立てて奥へ歩いて行った。

「じゃあ、叔父貴、まずは一献」
 太郎が差し出した盃を、黒豹は断った。
「雪が来るまで待ってるよ」
「叔父貴が酒を断るって……何か厄介なことでもあるんかい」
「まあな……」
 他愛もない世間話をしていると、ガタンと音がして裏口から雪豹が入ってきた。
「早かったな」
 そう言って黒豹は酒の入った盃を雪豹に渡した。雪豹は黙ってそれを飲み干すとガタンと椅子に座った。
「隙だらけだったから、楽勝」
 そう言うと、肉の塊にかぶりついた。
「亀茲のお姫さんは?」
「三姐と奥で休んでいる」
 黒豹は空になった雪豹の盃に酒を注ぐと、残りを自分の盃に注ぐとそれを二人で飲み干した。
 さらに肉を頬張り、それを酒で飲み下すと、雪豹は大きなため息をついて言った。
「なあ、三兄弟。唐軍に伝手なんてないよなぁ」
「まあ、飯食いに来る客の中にはそれなりに唐兵はいるけど……」
「むしろ、軍にいた叔父貴たちの方が伝手はあるんじゃない」
「俺たちがいた軍は全滅してるんだ。知ってる将校は全部草葉の陰」
 二郎と三郎に酒を注ぎながら、黒豹は言った。三兄弟のうち太郎だけは黙々と手酌で酒を飲み、肴をつまんでいた。容姿は三人とも母親によく似ていたが、婿に行った先で日がな一日田畑を耕している太郎が一番たくましい体つきをしていた。末っ子で店を手伝っている三郎は細くてひょろっとしているのと対照的だった。
 雪豹が前歯でギッと肉を引きちぎり、口に酒を含んだ。
「いや、悪い。聞かなかったことにしてくれ。カタギのあんたらを巻き込むわけにはいかないし」
「何、兄貴、水くさいことを」
「その通りだよ。これ以上は三姐に迷惑かけられねえ」
 黒豹は二郎の盃に酌をすると、笑ってその肩を叩いた。
「軍の師団ぐらい動かせりゃ楽なんだけどなぁ」
 ため息交じりに雪豹は言った。
「雪、弱音か、珍しいな」
 詳しい話を黒豹にしようとして、雪豹は目配せした。
「ああ、俺たち宵の口から飲んでるんだ。明日の朝には飲み過ぎて記憶がなくなるよ」
 彼の様子に気づいた二郎は言った。太郎と三郎も笑って盃を掲げた。
「悪いな」
 雪豹はそう言って黒豹に顔を近づけた。
「やっぱり真ん中の一番大きいのが教会でさ」
 雪豹は箸の先に酒をつけて、卓の上に丸を書いた。
「亀茲のお嬢さんたちはこの教会の周りに配置された、五つの穹廬に二、三人ずつ分けて囚われてる。その周りに、商胡たちが寝泊まりする穹廬。そして一番外側に、生贄になるであろう娘たちがいる穹廬がやっぱり五つ。配置は、多分、明教の教えとやらに従っているんだろうが隙だらけ。南側を背にする形になっていて、そこが思いっきり死角だ」
 ちょんちょんと配置を示しながら、雪豹は続けた。
「問題は、この娘さんたち。さっと中を見ただけだから正確な人数は解らないが、一つの穹廬に十人前後。結構な数だ」
「何?」
「俺の見立てでは全部で六十人。明教は、どうやら特定の数にこだわりがあるようだ。亀茲のお嬢さんたちが十二人。この十二と五に意味があるようだし、ここしばらく生贄の儀式を行っていないようだから、おそらく最大数いる」
「ぞっとするなぁ」
「ぞっとするぜ。石亀たち四人が来て、こっちは六人。亀茲のお嬢さんたちだけなら俺たちだけで何とか連れて行ける。だけとあと六十人。俺たち一人当たり十人だぜ。手に負えると思うか?」
 無理無理と黒豹は首を振った。遊郭育ちの彼は、子供の頃の経験から年頃の娘たちの集団が苦手なのだ。
「一気に運ぶなら馬車だけど、亀茲のお嬢さんを合わせて七十人以上も運ぶ分だけ調達する時間がない。明日からの大祭に備えて宿衙は賑やかになるだろうから、動くなら人が少ない早いほうがいい。夜中まで飲み食いしているようだから、連中の動きが鈍くなる朝一で動くのが一番なんだけど……」
 亀茲のお嬢さんたちだけなら、問題なく助け出せる。だが、これは下策。女狐だったら、市居の貧しい娘たちを助け出せなくては意味がないと怒るだろう。それに、質より量で大祭中一気に六十人やられたら、どうなるか……。あの無造作に捨てられた骸から感じた狂気は忘れられない。
「だから師団か」
「軍隊ぶっつけたら、楽なんだよ、マジで。いや、俺だって“親戚筋”当たればどっかのつながりで何とかなると思うけど、そんな時間が合ったら別の手を仕込む。一ヶ月……いや半月あれば俺たち六人だけでも余裕で七十二人連れてける準備はできる。問題は、仕込みする時間がないってこと」
 もう夜明けまでもう時間がない。
「今、手詰まりなんだよ。どう出るか……」
「口の雪豹おまえと顔の胡忇あいつで女七十人、何とかなりそうだけどな」
「兄貴、それ本気で言ってる?」
 頭をかきむしりながら、イラッとした口調で雪豹は言った。

 その頃、飯屋の外で不穏な動きをする者がいた。
「ここで間違いないか」
「ああ、間違いない。この中にいる」
 男たちは、手に持った怪しげな枯れ草に火を点けると、扉を押し破りそれを店内に投げ込んだ。

第5章 追手

店内はあっという間に煙に包まれた。
 外で様子を窺っていた男たちは、煙が収まるのを見て一斉に中に押し入った。
「いたか?」
 店の中には誰もいない。  
「いたぞ!」
 誰かが叫んだ。
 見ると、ショールを被った人影が、暗闇の中、街道を北へ向かって必死に走っているのが見えた。
 男たちは慌てて馬に飛び乗ると、その影を追った。
 徒歩と馬では速さが違う。あっという間に近づくと、先頭の男がショールに手をかけた。
 ショールを取ると、銀色に輝く髪が月明かりに浮かんだ。くるりと振り向いた顔に浮かぶ、血のように真っ赤な口がニヤリと笑った。
「ば、化け物!?」
 男の叫び声に、後ろにいた二人の男もひるんだ。
「誰が……化け物なんだよっ!」
 ぴょんと跳ね上がると、雪豹は一回転して延髄に一発蹴りと喰らわせた。男は白目をむいて馬から落ちた。
 と、同時に街路樹の上から黒豹が飛び降りて、後続の二人を次々になぎ倒した。
「これでも、洛陽にいた頃は紅顔の美少年で通ってたんだぜ」
 彼らが持っていた縄を奪い取ると、それで三人を縛り上げながら雪豹はぼやいた。
「コーガン……」
「兄貴、同音異義語は禁止な」
「なんだよ、同音なんとかって……」
 黒豹は三人の姿や持ち物を確かめた。皮衣に辮髪の姿。施された文身は薛延陀のもの。
「雪豹、お前付けられたか?」
「いや……そんなはずはないんだが」
 追っ手の気配はなかったはずだと、雪豹はいぶかしんだ。
 外にいる連中の話し声に気づいた黒豹のおかげで難を逃れたが、あと少し遅かったら大麻の煙で燻されて体がおかしくなっていたところだった。
「しかし、お嬢さん今日は受難だな」
 木の上に身を隠させていた姫を降ろすと、服のホコリを軽く払ってやった。三娘の服を借りて休んでいたので、体に合わずちょっとぶかぶかしていた。
 その間、姫はじっと黒豹の顔を見つめていた。それに気づくと、黒豹は慌てて顔の左部分を手で隠した。
「違う、違うんです」
 彼女は彼の手を掴んで言った。
「三娘さんは言いました。お茶一杯飲んでいる間に慣れるって……私、二杯も飲んだんです。だから、慣れました」
「あ? ああ、そうか。そりゃ良かった」
 姫はさらに力強く手を握った。
「あの……さっきはごめんなさい。悲鳴なんて上げて」
 それを聞いて黒豹は大声で笑った。
「何言ってんだ。あれが当たり前の反応だよ。この顔を初めて見て平気でいる女は、ケツの毛一本まで毟り取ろうとする商売女ぐらいだよ。気にすんな」
 明るく笑う黒豹の言葉を聞いて、姫は何故かもっと心が苦しくなった。
「兄貴、ちょっとこっち来てくれ」
 雪豹に呼ばれ、黒豹は姫の手を振りほどいた。
「これ、何だと思う?」
 薛延陀兵の懐に、水晶玉のようなものがあったのだ。それの中心にキラキラと光る点があった。
「何だ、これは……」
 暗闇に怪しく光るそれを見て、黒豹も首をかしげた。
「術をかけられていたんだよ」
 後ろから不意に聞き覚えのある声がした。声の主は落ちていたショールを拾うと、縁に縫い込まれていた骨片を取り出した。
 そして何やら口訣を唱えると、骨片は粉々に砕け、風に散っていった。
 同時に、雪豹の手の中にあった光は消えていった。

「驪龍先生……」
「なんだ、半日ぶりだな」
「相変わらず黒豹はつれないな。渡し忘れた物があってね」
 そう言うと驪龍は懐から一通の書状を取り出すと、呆然としている雪豹に手渡した。
「夜が明けたら、都護府にこれを持って行くといい。昔の誼みで多少の兵馬を動かしてくれるはずだ」
「ああ……」
 一番の伝手はこの道士だったことに雪豹は気づいた。彼は出家前、かつての秦王の麾下で名を馳せた優秀な武将だったと聞く。質素な単衣に適当にまとめたボサボサ頭をした今の姿からは想像もできないが。
「時間も場所も考えると、おそらく宿衙から四、五里の場所までなら兵馬を出せそうだ。何とかなるか」
「五里か……助けるのに半時、逃げるに半時で一時いっとき(二時間)あればやれそうだな。よし、何とかなる」
 次の手が見えて雪豹はほくそ笑んだ。
「ところで、お前たちに頼みがある」
 驪龍の頼み事なんて、珍しいこともあるもんだと二人は思った。
「お前たちも、女狐の命によって動いているとは思うが、こちらにも浅からぬ縁があってね。司祭の術に関してはこちらに任せてはくれまいか」
「ああいいよ」
 雪豹はあっさりと答えた。
「こっちの“仕事”にいろいろ突っ込んでくるなんて、滅多にないことだから。そんなことだろうと思っていた」
 それを考えて、娘たちの救出中心に計画を立てていたと、雪豹はあっさり白状した。
 黒豹は内心面白くはなかったが、計画は雪豹に一任している以上、反対するすべはなかった。
「そうか、じゃあ、これは昼間渡しそびれた子守の礼だよ」
 そう言うと、驪龍は雪豹に油紙で包んだものを渡した。中味を耳打ちすると、雪豹はにやりと笑った。

 三娘の店に戻ると、出遅れた二人の薛延陀兵が三兄弟に熨されていたところだった。
「叔父貴、お帰り」
 満面の笑みで三郎が言った。
「店の中がぐちゃぐちゃになっちまったよ」
「そいつらに後始末させればいいだろ」
 黒豹の言葉に、三郎は嬉しそうに頷いた。
「叔父貴の許可もらった」
 そう言うと、破顔一笑しながら、思いっきり薛延陀兵を蹴り上げた。
 黒豹は三郎の兄二人のところに寄って訊いた。
「あいつ、怒ってる?」
「かなりね。一番怒らせちゃ行けない奴を怒らせた」
 二郎も呆れたように言った。
「南無」
 太郎は一言そう言うと、夜明けから始まる農作業のために帰って行った。
 太郎は請われて郊外の荘園へ婿に行ったが、彼が来て以降、荘園を荒らす泥棒は影を潜めた。二郎は二郎で市場の顔役であり、揉め事があればまず彼の元に話が行く。そんな二人が一目置くのが三郎。末っ子ならではの気の強さで、二人にからは狂犬とまで呼ばれていた。
「やり過ぎないように見てろよ」
「解ってますよ……。まあ、お袋が出てくれば大丈夫かと」
「あの人こそ怒らせたら一番ヤバいだろうに……」
 コソコソ話す二人の後ろには、そのヤバいと言われた三兄弟の母親、三娘が立っていた。

 夜明け前には黒豹の仲間たちが続々と集まってきた。
 一番手は胡忇。波斯人など西方民族の色々な血が混じった彼は、小麦色の巻き毛に青い瞳をしていた。彫りの深い整った顔立ちをしており、よく黒豹からは「顔だけはいい」としょっちゅうからかわれていたが、馬の扱いにも長けており、馬を走らせたら女狐の一味の中でも一二を争う腕前を持っていた。
 雪豹は胡忇に書状を渡すと、夜が明けたら都護府に持って行くように告げた。すると胡忇はそのまま休むことなく都護府に向かった。
 その後は石亀と蜉蝣かげろう。二人ともかつて黒豹と同じ軍におり、ギリギリのところで彼に命を助けられた過去を持つ。長い付き合いの二人だ。
 最後に来たのは摩勒まろく天竺ティンドゥの出でとにかく身軽。いつも目をクルクルさせ、どこかに面白いことはないかと、落ち着きなく探していた。雪豹と馬が合い、斥候を任されることが多かった。
「で、結局徹夜かよ」
 胡忇が行った後、他の三人が来るまで軽く仮眠を取っていた雪豹は、起き抜けに店の掃除を手伝っている二郎に言った。
「朝飯買いに来る客に迷惑かけられねぇって」
 なんだかんだと三娘を手伝っている黒豹を指さしながら二郎は答えた。
 もっと気の毒なのは薛延陀兵だ。にこやかに笑いながら細かい指示を出す三娘に休む暇なく動かされ続けていた。それに仕込みをしている三郎が追い打ちをかけて指示を出す。
(有無を言わせない笑顔ってあるんだな……)
 その様子をみて、雪豹はぞっとした。
 とりあえず三人と卓を囲むと、雪豹は黒豹を呼んだ。
「兄貴、店の手伝いで疲れ切って動けないなんて、情けないこと言うなよな」
 慌てて席に着いた黒豹に雪豹は言った。
「何だよ。昨日、紫陽先生に導引をやってもらったせいか、あと一晩徹夜で店に出てても問題ないぐらいだ」
 悪びれない彼に、雪豹は冷ややかな視線を投げかけた。
「じゃあ、もう日が昇る。段取りを話すから夜明けと同時にここを出よう」
「私も行きます」
 雪豹の話を遮るように、亀茲の姫が言った。髪と服を整え、いつでも出られるように身支度を済ませていた。
「はぁ……!?」
 雪豹は呆れて彼女を見た。彼女は黒豹の方に詰め寄って一気にまくし立てた。
「アイーシャの手当をしなければ。彼女は私を待っているの。それに、私じゃないと他の侍女たちも言うことを聞きません。だから行くのです」
「お、おう……」
 気圧された黒豹は気の抜けた返事をした。
「兄貴……これじゃ助けた意味がないだろ」
 雪豹は呆れた様に言った。
「連れてってあげてよだって」
 雪豹と黒豹の間に、バガトゥールがひょっこり顔を出した。二人は思わず声を上げて驚いた。
「バガトゥール!? なんでまた」
「先生と来た」
「は、早起きだな」
「うん、早起きした」
 二人がする質問に、嬉しそうに少年は答えた。
「姫君は、司祭の術から完全には抜けていない。戻ろうが戻らまいが、何らかの妖術が姫君に飛んでくるぞ」
 入り口には、いつの間にか驪龍が立っていた。
「ここにいたら、またこの店に迷惑がかかるってことか」
 雪豹は頭を抱えた。
「で、なんでまたバガトゥールまで……」
「この子は、特異な体質を持っていてね。あらゆる方術や呪術をはねつけることができる。まあ、本人とその周り、極限られた範囲だけだけではあるが」
「こいつを盾にしろってことか」
「私の方術だけでは、防ぎ切れないかもしれない。それだけ相手は強い」
 はあ……と、雪豹は大きなため息をついた。
「こいつやお嬢さんたちに刃が来たらどうすんだよ」
「黒豹」
 ふいに姫が口を挟んだ。
「黒豹が守ってくれる。そうよね?」
「お、おう」
 黒豹は気圧されながら頷いた。
「あーっ! 解ったよ!!」
 頭をかきむしりながら雪豹は言った。そして少し考えてから三娘に訊いた。
「三娘さん、そこの薛延陀兵借りていっていい?」
「あら、まだ片付けが終わっていないのよ?」
 にっこり笑いながら三娘は言った。ちょっと怖かった。
「あ、三人だけ……あとの二人は残すから……」
「あら、たったの二人? 少ないわね。まあ、いいわ」
 さっきから目は少しも笑っていない。三娘の笑顔はこんなに怖い物だと、雪豹は肝を冷やしながら思った。
「とりあえず……」
 気を取り直して雪豹は言った。
「動きながら指示を出す。行くぞ」
 出ようとしたところで、入り口に立っていた驪龍はが消えていることに気づいた。
「先生は?」
「けがしている人がいるから、治療しに先に行ってるって」
 雪豹の問いにバガトゥールは答えた。
 それから、姫の方を向くと言った。
「大丈夫だよ」
 それは姫には聞き慣れた吐火羅の言葉だった。

第6章 宿衙

高昌城市から草原への窓口である輪台へ向かう街道を彼らは行った。街道は高昌を出てから数里は荒涼とした大地を進み、その後は山に沿った曲がりくねった道となった。黒豹たちは朝焼けの中、その道をひたすら馬で駆け上がった。

 雪豹は次のような指示を皆に出した。
 石亀と蜉蝣は薛延陀兵に混じって中に侵入。まずは使った馬を厩舎に戻す振りをして宿衙内の馬を逃がす。
次は摩勒。
「これこれ」
 雪豹は黒く丸い粒を出すと、山肌に向かって投げつけた。それはパーンと乾いた音をして弾けた。
「面白いだろーっ」
 ケラケラ雪豹は笑った。
「最初は穹廬に火を付けてやろうかと思ってたんだけど、これもらったからガンガン使おうぜ」
 目をキラキラさせながら、雪豹は摩勒に包みを渡した。
「これは火を付けると弾けるヤツ。これを穹廬に仕掛けてくれや。火は俺が付ける」
 包みには仕掛ける場所が簡単な見取り図とともに書いてあった。
 これは黒色火薬を使った爆竹のような物。先ほど投げたのは癇癪玉。火薬が広まるのは宋代に入ってからだが、火薬の材料はもともと仙丹を作る材料と同じであり、仙丹をつくる道士たちの間では知られた処方であった。
 それから各々に“癇癪玉”を渡した。
「何かあったらこれを投げつけてくれ。派手な音が鳴るから、目くらましにはなるだろうよ」
 さらに雪豹は手はずを説明した。
「摩勒が仕掛けたヤツは順番に鳴らす。爆音と煙が出るから、驚いた馬は逃げるだろうし、兵士たちも慌て統率が取れなくなるはずだ。石亀と蜉蝣、摩勒の三人はその騒ぎに紛れて六十人の娘たちを連れ出し、高昌方面へ南下しろ。途中で胡忇と合流できるはずだ。俺と兄貴は奥まで入って、亀茲のお嬢さんたちを助け出す」
「雪の兄貴」
 摩勒が口を開いた。
「今回お宝は?」
「今回はとにかく娘さんたちを逃がして唐軍に渡すことを優先してくれ」
 ただし、といいながら雪豹は笑った。
「懐に入るぐらいなら、土産にしてもいいぜ」
「唐軍は俺たちを捕まえないか?」
 心配そうに石亀が訊いた。一応、彼らはお尋ね者の身ではある。
「今回に限っては、心配いらねぇ。そんなことしたら、京師みやこから討伐軍が出て、都護の首が飛ぶぐらい功力ある“紹介状”もらったからな」 噂が本当ならば、驪龍は出家しなければ、今頃は皇帝の側近中の側近だったはずの人だったらしい。そして何より驪龍は人を売ったりするような下衆でもない。
「とりあえず、いつもながらの多勢に無勢。一気にやらなきゃ命はねえぞ。一気にカタを付ける」

 黒豹と雪豹は他の連中と別れると、バガトゥールを連れて宿衙の裏の方に回っていった。
 少し狭い道を抜けて少し行くと、広い草地に抜ける。そこに宿衙がある。簡単な柵で囲われ、遊牧民伝統の住居である白く丸い穹廬が点々と配置されていた。
「おい……」
 点在する穹廬を線で結ぶと、幾何学模様が浮かび上がることに、黒豹は気づいた。
「兄貴も気づいたか」
 おそらく、これは何か宗教的な配置なのだろう。
「実際の攻守を考えてないから、死角も多い。特に南側がおかしいと思わないか?」
「そうだな」
 暗黒の王は南にいるという伝説が明教にはあった。執拗なまでに南を“霊的”に守護する作りが異様に見えた。そして南方への障壁が、逆に南からの侵入をたやすくさせていた。
 出入り口もそうだ。わざわざ道を曲げて、西から入るようになっている。その曲がった道を“薛延陀兵”に連れられて行く姫君が見えた。
「薛延陀兵あいつら、結構素直に言うこと聞いてくれたよな」
「そりゃ、三娘さんにこき使われるよりは、こっちを選ぶぜ」
「そうか? 最後まで頑張りゃ、絶品の飯にありつけるのに……」
「三娘さんは高昌城市最強の三兄弟を産み育てた最恐の母ちゃんだぞ。体が倍ぐらい大きい薛延陀兵が涙目でこき使われるなんて……見てて面白かった」 
 雪豹は思い出し笑いをしながらバガトゥールを呼んだ。
「そろそろ下へ行くぞ」
 それを聞いたバガトゥールは、黒豹の背にぴょんと飛び乗った。黒豹も慣れた感じで丘を駆け下りた。

 宿衙内に入ると、三人は障壁の陰に隠れた。
「じゃあ、バガトゥール。こっからは一人で行け。お姫様がいるのは、あの中心にある大きな丸い建物の真北にある。反対側だからここからは見えない。もし、誰かに見つかって何か言われたら鉄勒語でこう言え“お祈りするところはどこ? ”って」
 バガトゥールはこくりと頷いた。
「じゃあ、後で会おうぜ」
 黒豹が言うと、バガトゥールはおうと拳を挙げた。そしてパタパタと駆け出した。
 しばらく様子を見ていると、早速歩いている薛延陀兵に呼び止められていた。兵士はバガトゥールの目線までかがむと、にこやかに行く方向を指さしていた。バガトゥールもニコニコしながら手を振って指さした方に走っていった。
「――あいつが鉄勒族で助かった」
雪豹はほっとため息をついた。
 ここは部族関係なく“明教徒”の教区を管理している。このところ明教に改宗する遊牧民も増えているらしい。ほとんどは今日の午後以降から明日朝に集まるらしいが、早めに来た信徒の子だと、薛延陀兵も勘違いしてくれたようだ。
「じゃあ、これを仕掛けてから行きますか」
 雪豹は爆竹の束を黒豹に渡した。
「兄貴はお嬢さんたちがいる五つの穹廬に仕掛けてくれ。南側の障壁に掛けるだけでいいよ。おれは教会周辺を念入りに仕掛けるから」
「おい、雪……」
 すごくイヤそうに黒豹は言った。
「本当に俺一人で十二人のお嬢さんたちを連れて行くのか」
「何だよ、お姫様もいるじゃん。手伝ってくれるって言ってたじゃん」
「だからだよ、今朝のアレ見たか? 昨日と打って変わったあの気の強さ。アイツらは手のひら返しという必殺技で気分をコロコロ変えるから苦手なんだよ」
「出た、女嫌い。の割には女遊びは好きだよね」
 雪豹はまた手が出ると思って身構えていたが、意外にも何もされなかった。その代わり黒豹は苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。
「ああ、悪かったよ。兄貴が巨乳好きなのはみんなに黙ってる」
 今度はバシンと顔に掌底を喰らったので、雪豹は肘鉄で静かにお返しをした。
(知ってるよ)
 古傷が疼く夜は、誰かに側にいて欲しいときがあるんだよな。でも雪豹は今更改めて言うつもりはなかった。
「お姫様を守るって約束した以上はやるしかないだろ?」
「――解ったよ。で、お前はあれか」
「そう、女狐の親分に言われたことやらないとね」
 雪豹はにやりと笑った。

カーンと乾いた音が青空に響いた。
 黒豹は環首刀を構えながら、“意外“なことに当惑していた。
 亀茲の姫がいるはずの穹廬を守っていたのは、胡服を着てはいたが紛れもない漢人だった。しかもかなりの手練れ。長くしなやかな腕から繰り出される剣は正確に急所を突いてきた。
 黒豹は一手一手を正確に躱しながらも、こちらからは打つ手を出せずにいた。
(こいつ――)
 彼の手にある剣には見覚えがあった。これは……
(あらら……)
 雪豹は黒豹と胡服の漢人のやり取りを穹廬きゅうろの上から呆れた様に見ていた。他の見張りはほぼ一発で片付けたというのに。
(何夢中になってるんだか……しかもどんどん穹廬から離れていくぞ)
 見るところ、あの男はちゃんと剣術を学んだ者らしい。しかもかなり高い技術を持っている。
(あいつ、結構いい腕をしているな。だけど、内功なかのちからを鍛えちゃいないから底が浅い。今は互角でも、兄貴に勝つことは無理)
 黒豹も雪豹も、驪龍が施した治療の副作用で功力は常人の修行百年分は軽くある。辟兵布を来ていなくても最初から勝負はついているはず。
(なのに。兄貴の野郎、遊んやがる)
 楽しそうに相手の技を受けている黒豹にイラッと来た雪豹はヒュッと穹廬から飛び降りると、勢いで二人の首を両肘に抱え込みそのまま古井戸に投げ込んだ。
 ボチャンと大きな水音が響いた。

「ありゃ?」
 思ったより古井戸の水量が多かった。
「――雪!!」
 同時にびしょ濡れの黒豹が古井戸から飛び出してきた。
「てめえ、殺す気か!?」
「イヤ、悪い。昨日見たときより水量が増えてるとは思わなかった」
 雪豹は視線を合わさずに謝った。
(ケガしない程度の浅い水だと思ったんだが、一晩で増えたか。水脈が変わってるのか……?)
「お前、それが謝るっていう態度か?」
「まあまあ、時間がないってのに遊んでる方も悪いんだって」
 そう言いながら雪豹は古井戸をのぞき込んだ。中では首まで水に浸かった胡服の男が、呆然と上を見つめていた。
「あんた、いい腕してるね。俺は無学だからどこの流派だか知らないけど、以前同じ太刀筋は見たことある。陝西の出かい?」
「いや……私は蘇州の出だ」
 食いついてきたと雪豹はにやりと笑った。
「へぇ……じゃあ、あんたは同門と同じように武者修行したくて、府兵じゃなく志願して唐軍に入ったんだ」
「……え」
「その剣、唐軍の支給品だろ。わざわざ盗んで使うほどいいできじゃないしな。大方、師匠の反対を押して、修行中の身で従軍したはいいものの、途中でついて行けずに落伍したわけだ。師匠の手前、帰るに帰れず、死ぬに死ねずっていう感じだね」
 男は黙って下を向いた。図星のようだ。
 と、黒豹が井戸に飛び込み、男の襟の部分をひっつかむと上へ放り投げた。
「兄貴ぃ」
 もっといびってやろうと思ったのにと、雪豹はむくれた。
「雪、遊んでる時間はねぇって言っていたのはてめえだろ!?」
 そして立ち上がろうとする男に向かって怒鳴った。
「お前も、その身の上に同情するところは無くはないが、手を貸しちゃ行けない連中に手を貸したのは許せねぇ」
「え……?」
「理由が知りたかったら、ここを出て南に一里ほどいった山側にある窪地を見てみろ。この連中がどんな非道なことをしてるか解るから」
「あの娘たちは昇天の儀で天国に行くと聞いていたが……。死体があるのか?」
「あれが天国に行った姿だと思うんだったらもう一度来い。改めて勝負付けてやる」
 黒豹はそう言い残すと穹廬の方に走って行った。雪豹もその後に続いた。男は濡れた体を拭きもせず、二人が見えなくなるまでその姿を見ていた。

 奇蹟――?
 司祭アフターダーンマンベッドは教会の中で祈りを捧げていた。明教の聖職者は一日に七度祈りを捧げる。それはその日の二回目の祈りを捧げていた時であった。
 鎮綏椀が大きく呻った。
 かすかに震えながら、低く長く音を響かせた。
 同時に司祭は、光明が近づいてくるのを感じた。
 その時、亀茲の姫が無事戻ったという知らせを受けた。
「祈りの最中です。下がりなさい」
 報告に来た者を下がらせると、司祭はさらに深く祈りを捧げた。それに応じるかのように音はさらに大きくなった。光明ももっともっと強く感じられた。
「これは……」
 探していたものが、すぐ側にあるしるし。
 祈りが終わると、司祭は徐に立ち上がった。

「アイーシャ!」
 亀茲の姫は天幕に入ると開口一番、侍女の名前を叫んだ。
「姫様?」
 その声に、胡床ベッドに横たわっていたアイーシャは反射的に飛び起きた。
「ダーメ! 寝ててください」
 バガトゥールは胡床をぽんぽんと叩いて横たわるように促した。
「あなたの方が先に来てたのね……よく入ってこれたわね」
「うん、見張りの人が黒豹と一緒にあっちに行っちゃったから、簡単に入れたよ」
 その言葉に、姫はクスッと笑った。黒豹はいつ来てくれるのだろう?
「アイーシャ、ケガの具合は?」
「それが……」
 アイーシャは、バガトゥールの様子をチラリと見ながら少し起き上がった。
「朝日が昇るか昇らないかの頃、青い服を着た不思議な方が音もなく現れると、この肩の傷を治してくださいました。まだ、少し痛みますが、もう大丈夫です」
「それ、先生だよ」
 嬉しそうにバガトゥールは言った。
「朝方……?」
 朝日が昇る前と言えば、高昌でこの子とその道士会っていた頃だ。一瞬で二十里も移動するなんてこと、どう考えてもできるはずなんてない。
「飛廉だよ。飛廉はね、あっという間に遠くへ連れて行ってくれるんだ」「飛廉?」
「先生の鳥。黒くて可愛いんだよ」
「……?」
 黒豹雪豹の尋常ならぬ動きといい、一瞬にして十数里の距離を移動する道士といい、漢人とはどのような人種なのか。天可汗が統べる彼の地は、人ならぬ人は住まう地か?
 姫は大きくため息をついた。伯父上はそれに楯突こうとしているわけか……。
「姫様」
 アイーシャは彼女の頬に手を伸ばした。
「顔色がお悪いですよ」
「大丈夫」
 姫はアイーシャの手を握って微笑んだ。
「そう、姫様はいつもそうやってお笑いなさいな。その方がずっとよろしゅうございます」
 姫は微笑みを続けながらアイーシャの話を聞いた。
「あなた様は幼い頃から男のようでしたから、アイーシャはいろいろと心配をしておりました。お輿入れが決まって、やっとホッとできると思ったらこんなことになってしまって……。でも、無事、阿耆尼に参りましょうね」
 目に涙を浮かべながら、姫は頷いた。
「大丈夫」
 バガトゥールが吐火羅語で呟くと、にっこりと笑った。
「あなた、吐火羅わたしたちの言葉が分かるの?」
「ちょっとだけ。ちっちゃい頃、覚えた。もうあんまり覚えていないけど、この言葉好き」
 ニコニコしている彼を見て、姫も同じように「大丈夫」と言った。
 道士と共にいる鉄勒の子。亀茲との縁もあるらしいし、不思議なことだと彼女は思った。
「黒豹、遅いなぁ」
 退屈そうに彼は言った。
「そうね……遅いわね」
 その時、穹廬の入り口が開き、黒い人影がそこに立っていた。
 骨に皮が付いたような細い体に黒いローブをまとい、ギラギラとした大きな目をしていた。
「そうだ……これが探していた光明……」
 男は細く長い指が付いた手を伸ばしながら三人の方に一歩踏み出した。

第7章 脱出

「やっと見つけた……」
 男はゆっくりと三人に近づいて来た。バガトゥールは反射的に前に出て二人をかばった。
 それを見て、男は嬉しそうに笑った。
 目をそらしたら負けだと思い、バガトゥールは必死に睨み付けた。心臓が口から飛びでそうだった。
 その時――
 ガンと音がして、男は前のめりに倒れた。
「悪い、遅くなった」
 黒豹は男を足で踏みつけると、申し訳なさそうに言った。
「黒豹! 遅いよ」
 バガトゥールは嬉しそうに言った。
「すまん。ちょっとな」
 彼はアイーシャを背負いながら申し訳なさそうに言った。
「ちょっと湿気っぽいけど、気にしないでくれ」
「何やったの?」
「別にいいだろ」
 黒豹はバガトゥールの頭を軽く小突くと、その手で姫の手を取った。
「とにかく行くぞ。これから騒がしくなる」
 姫はその手を、ギュッと握り返した。
「ねえ、この人、死んだ?」
 バガトゥールは倒れている男の様子をチラリと見て聞いた。黒豹に踏みつけられてもピクリともしない。
「さあな、急所は打ったが……いちいちトドメを刺す暇ねえよ。いいから早くここから出ろ」
 と、彼が言い終わるや否や、もの凄い爆音が続けざまに響いた。
 姫とバガトゥールが悲鳴を上げて外に出ると、教会の方からもくもくと煙が上がっているのが見えた。屋根の上では、雪豹と摩勒はこちらを見て嬉々として手を挙げ、合図をした。そしてさっと姿を消すと、再び爆音が立て続けに響き、それ以上の煙がこちらの方まで漂ってきた。
「アイツら……楽しんでるな」
 黒豹はため息交じりに言った。彼ら四人の横を、慌てふためいた兵士たちが教会の方に走っていった。
「あれ?」
 こちらに気づかないことに、バガトゥールはビックリした。
「いいんだよ。薛延陀兵あいつらは同時に二つのことに注意が回るほど器用じゃないんだよ」
 馬鹿にしたように黒豹が言っている間に、今度は違うところで弾ける音が響いた。兵士たちは一斉にそちらの方に駆けていった。
「これ、一体何なんだよ?」
 耳を塞ぎながら大声でバガトゥールは訊いた。
「何って、お前の先生が作ったヤツだよ」
 同じく大声で黒豹が答えた。
「あーっ! 解った!! 一つ目が毎晩作ってたのだ」
 下僕とは言え、昼夜を問わず扱き使われているのか……と黒豹は一つ目にちょっと同情した。
「お姫様たち、これ、音すごいけど安全なやつだよ!」
 バガトゥールは大声で二人に言うと、彼女たちも耳を塞ぎながら頷いた。
「いいか、この隙に他の四つの穹廬を回って十人を助け出す」
 また違うところで爆音が響いた。初手からド派手に仕掛けているらしい。
「行くぞ」
 黒豹は兵士の流れを見ながら、隣の穹廬へ走った。

 男――司祭は外の騒ぎで目を覚ました。
 暗い室内には、誰もいない。
(光明は……?)
 痛む頭を押さえながら、司祭は懐から水晶玉を取り出した。そして、遠ざかりつつもまだ近くにいる“光明”へ、呪術で作りだした網を放った。
 水晶玉には、縞瑪瑙オニキスのように黒く輝く網が姫とバガトゥール二人の元にまっすぐに向かっていくのが映っていた。あと少しで二人を捉える。その瞬間――
 サラサラと砂のように網が崩れていった。
「――?」
 バガトゥールも黒豹も、その時の異変に気づいた。
「やっぱり、呪術が来てるな」
「うん」
「お前、絶対彼女の手を離すなよ」
「おう!」
 バガトゥールはつないだ手を上に掲げて黒豹に見せた。
(連れ出せたのはやっと半分――先は長いな)
 黒豹はふっと息をついた。
 この騒ぎの中でお嬢さんたちを連れ出すのが思いのほか大変だった。
 近いところで起きる爆発におびえきった少女たちは、音がするたびに悲鳴を上げて歩みを止めた。主従関係はしっかりしていたので、姫の叱責が飛べばまた歩き出すが、音がすればまた同じ事の繰り返し。
 と、そこへ向こうから小麦色の髪をなびかせ、白馬に乗った男がこちらに向かってきた。
コロ!」
「兄さん! 手伝いに来ましたよ」
 胡仂は彼らの前に馬を止めると言った。
「あっちの娘さんたちは人数多かったけど無事ここを出ました。摩勒も合流しましたし、石亀の兄さんがこっちの方が大変だろうからと言ってくれまして」
「大丈夫か」
「こっちと違って爆音から遠いこともあって、娘さんたちもみんな落ち着いてます。唐軍が出てるからそちらに向かって逃げるようにと言ったら、どの穹廬にいたも素直に従ってくれました」
 それは胡仂こいつの顔のせいじゃないかと、黒豹は内心思った。
「唐軍は?」
「あの書状を渡したら、“蟻の巣”をつついたような騒ぎになってすぐに軍が動きました」
「“蜂の巣”な」
 黒豹の突っ込みに、胡?は少し照れたような笑みを浮かべた。
「とりあえず、動くかどうか半信半疑で少し様子を見ていたんですが、杞憂でした。動かなかったらその辺の将校を捕まえて、手練手管で言うこと聞かせようと思ったんですけど」
 白い歯を見せながら胡忇は言った。
「驪龍先生の言ったとおり、ここから五里ぐらいまでは軍は来そうか」
「ええ、おそらくは」
「それにしても、この爆音によく馬は平気でいるな」
「ああ、最初は驚きましたが、普段から言うこと聞くようによく仕付けてるんで、もう大丈夫です」
 胡仂の言葉を聞いて、少女たちが「私も仕付けられたい」と呟くのを黒豹は聞き逃さなかった。あいつは歩く媚薬だなと、彼は思った。
「悪いが、怪我人がいる。この子をその馬で先に連れて行ってくれないか」
「承知」
 黒豹は背負っていたアイーシャを、胡忇の馬に乗せた。
「それで、彼女を安全なとこまで連れて行ったら、すぐ戻ってこい」
「了解。兄さんのためなら何往復だってしますよ」
 そして胡仂は少女たちにも言った。
「お嬢さんがた、私もすぐ戻りますから、兄さんの言うことをちゃんと聞いてくださいね」
 少女たちはぽーっとした顔でその言葉に頷いた。それを見た黒豹はコホンと咳払いをして言った。
「ついでにもう一つ、あっちの二つの穹廬にいる連中にも、同じようなこと言ってもらってもいいか」
「承知」
 白い歯を輝かせて、胡仂は笑った。

 司祭は頭を振った。
 手を変え品を変え、あらゆる術を放っても、すべて手前で消えてしまう。
(私の力不足か……?)
 司祭は、教会で“あの”力を借りようと、穹廬を出た。
 出たところで爆音に右往左往している薛延陀兵を怒鳴りつけた。
「お前たち何している! 亀茲の姫が逃げたぞ。早く捕まえなさい」
 ほとんどの薛延陀兵がそこでようやく姫が再び逃げていたことに気づいた。
「ほかの娘はどうでもいい。亀茲の姫と一緒にいる少年を捕まえなさい。さあ、早く!!」
 兵士たちは、司祭が指さした方へ慌てて駆けていった。

「危ない!」
 バガトゥールの声に反応するように、黒豹は環首刀を振るった。
 先ほどから、兵士たちの流れが変わった。
 相変わらず爆竹に振り回される兵士とは別に、こちらに気づいて追ってくるのが明らかに増えた。
(相手もこの音に慣れてきたか。こいつら時間がかかりすぎなんだよ)
 何かというときゃあきゃあ言いながら足を止める少女たちにとにかく手を焼いていた。
 あと少しで宿衙から出られる。そうするとしばらく身を隠せるところがない。ここから先は一気に走るしかないんだが。
 黒豹は上衣を脱ぐと、バガトゥールに放り投げた。
「黒豹!?」
「そいつはお前の先生がくれたヤツだから返す。そいつがあれば斬られることはない。この連中を食い止めている間に走って逃げろ」
 バガトゥールはそれを聞いてすぐに姫に羽織らせた。
「急げ」
 少女たちを急かしている間に隙が生まれた。
(しまった)
 四方を兵士に囲まれ、黒豹は突破口を探した。探しているうちにどんどん人数が増えていく。
 その時、左側から血しぶきが上がり、兵士が大きな音を立てて倒れた。その倒れた兵士の影から、先ほど井戸に落とした胡服の男が現れた。胡服の男は返す刀で二人、三人と斬って捨てた。
「お前は……」
 胡服の男は黙って黒豹を見た。
「悪いが取り込み中なんだが」
 黒豹が言うと、男は答えの代わりにさらに二人を斬った。
 間合いを開ける薛延陀兵に剣先を向け、黒豹に背を向けたまま男は言った。
「――見てきました。だから」
 さらに三人、四人と男は斬り付けた。
「こうするのが、正解かと思い」
 黒豹はふん、と笑うと言った。
「じゃ、行くぞ。お前、名は?」
「――忘れました。名乗る名など」
「はん。俺も唐軍を抜けたときに捨てた、今は黒豹と名乗ってる。ほら」
 黒豹は革袋に入っていた丸い丹薬を兵士たちに投げつけた。パンと乾いた音を立ててそれは弾けた。
 その音で兵士たちが引いた隙に、彼らは一斉に走り出した。
「こっちはまだ使えそうだな」
 黒豹はバガトゥールを肩車すると、革袋を彼に渡した。
「まだいくつかある。アイツらが追いついたら、それ投げつけろ」
「解った!」
 そして姫の手をぐっと掴むと彼女に言った。
「山道に入るまで一気に走る。はぐれるなよ」
 姫は黒豹の手をしっかり握ると、強く頷いた。
「おい! “忘れん坊”、そっちの十人を頼んだぞ。山道まで走れ」
「はい!?」
 胡服の男は言われるがまま、少女たちの後に続いた。
 バガトゥールは“癇癪玉”を投げつけながら、黒豹に訊いた。
「ねえ、なんでこれ今まで使わなかったの?」
「――忘れてた」
「忘れん坊は黒豹じゃん」
 先ほどまで晴れていたのに、急に風向きが変わって黒い雲が空を覆い始めた。
(天気まで悪くなってきたか。まずいな)
 とにかく、進むしかないと黒豹は思った。

 薄暗い教会の中、天井に開いた排気口からうっすらと差し込む光に照らされた場所に、ぽつんと椅子が置いてあった。
(これが“光の場所ガーフ・ローシユン”か)
 光となった教祖を迎える場所。迎える椅子。
 北側に設けられた祭壇には、こびりついた血で鈍く光る鎮綏椀が備えられていた。
 明教は経典を読めない民のために、その教えを細密画で書き表していた。壁に飾られた精緻な宗教画と共に並ぶ鎮綏椀は、ひどく場違いに感じられた。
「光の場所で、光を求める闇か……」
 驪龍は独りごちた。
 鎮綏椀は、鈍い音を立てて震えていた。
 ずっと待っていた“光明”が、行ってしまうことを嘆いて。
(間違いなかったか)
 バガトゥールたちは、順調とは言いがたいが、何とかここから逃れようとしている。
「悪いな……あれはお前に渡すわけは行かない」
 鎮綏椀はさらに音を立てて嘆いた。
(二千年前の、“金山アルタイの魔女”のわざがまだ見えない)
 幾重にも隠された秘術。正確に受け継がれずどこかで誤った術……。
 驪龍は、鎮綏椀との“対話”を試み続けていると、扉が開いた。
「誰だ……?」
 入ってきた男は、驪龍に呼びかけた。
「明教東方教会の司祭アフターダーンマンベッド殿ですね。お会いしたいと思っておりました」
 驪龍は振り返って一礼をした。
「私は、道教上清派の道士。姓は李、号を驪龍と申します」
 驪龍は丁寧に挨拶した後、司祭を睨み付けた。
「縁あってこの度の愚行、お止めする」

第8章 光

「愚行……だと?」
 司祭は驪龍に問うた。驪龍は静かに答えた。
「あなたたち明教の僧侶には守るべき五戒がある。
第一戒曰く真実レシユティアーク。あなたたちは嘘をついてはならない。
第二戒は非暴力プルザミア。天地にあるもの全てを殺しても壊してもならない。
第三戒は不淫デーンチレーフト。あなたたちは貞操を守らなければならない。
第四戒は不飲酒不食肉クーチズパルティアー。体を清潔に保つため汚れたものを飲食してはならない。
第五戒は清貧ディシユターチユ。あなたたちは何も所有せずいかなる利益を受けてはならない」
 異教徒の口からスラスラと五戒が出てくることに司祭は驚いた。驪龍は言葉を続けた。「司祭よ。あなたはこの“鎮綏椀”を手に入れるため、多くの犠牲を払いましたね。鎮綏椀の力を蘇らすために、教徒やシャドを騙して生贄の娘たちを手に入れ、殺した。第一戒と第二戒、第五戒を破っている」
「だから、何だというのだ」
「中でも第二戒。あなたたちにとって、この世界は闇の牢獄。この闇から抜け出し光の王国へ行くためには、決して破ってはいけない戒め。破ったら内なる光は損なわれ、闇の世界をさまようことになる」
「そんなこと、百も承知だ!!」
 司祭は怒鳴り声を上げた。
「異教徒のお前が、我が教えを知ったように語るな。
 ああそうだ。私は侵してはならない戒律を破った。だが、それも承知の上。この世界が我が師摩尼マール・マーニーの教えで、光に満ちるなら、我が身は喜んで永遠とわの闇に落ちよう」
「そうか……」
 驪龍はすっと一歩前に出た。
「では、上清派の道士らしく話を進めよう」
 驪龍は訴状を手に取ると、声を張り上げた。
「明教の司祭マンベッド。汝、古来の禁呪を蘇らせ天地を擾乱し、罪なき乙女の命奪うことその数三百五十。玉皇上帝ぎょっこうじょうていの命より、その罪、裁かせてもらう」
「面白い、受けて立とう」
 司祭は眼光をギラつかせながらそれに応じた。

 驪龍は呪符を取り出すと、口訣を唱えた。それは鬼神となって司祭の方へ襲いかかった。
「思い通りになるかな」
 司祭は水晶玉を手にとり、祈りを捧げた、すると強いつむじ風が吹き上がり、鬼神を吹き飛ばした。つむじ風は鬼神を排気口まで運ぶと、一気に外まで吹き飛ばした。
 驪龍は慌てた様子もなく、同じように呪符を取りだし鬼神を召喚した。
 それは同じように、司祭が巻き起こした風によって飛んでいった。
 さらに二度、三度と同じように鬼神を召喚しては、飛ばされるということを驪龍は繰り返した。
「口では偉そうなことを言って、その程度か」
 司祭は驪龍が繰り出す技がたいしたことないと嘲笑った。
 しかし驪龍は動じることなく、今度は黄色い呪符を取り出した。
「五星」
 その名を唱えると、呪符は体格の良い武将の姿となった。しかし、それはただ驪龍を風から守るように立っているだけだった。
 その様子を見て、さらに司祭は嘲笑った。
「仰々しく使い魔を出したと思ったらただの風よけか? なら、もっと風を強くしてやろう!」
 司祭が水晶玉を掲げると、風はより一層強く巻き上がった。
 強い旋風に耐えながらなおも驪龍は呪符を取り出した。
「そんな紙、何の意味がある」
 同じ事を繰り返す彼の姿に、司祭は侮蔑を込めて叫んだ。しかし驪龍は構わず命じた。
「伽羅童子、翠羽童子、行け」
 鬼神は小さな童子の姿となり、剣を手に司祭の元に飛んでいった。
「馬鹿にしているの?」
 今度は炎の渦を水晶から出すと、二体の童子を燃やしにかかった。
「もっと手応えのある者かと思ったが、他愛のない道士だ」
 司祭はカラカラと笑った。
「そう思うのは勝手だが」
 驪龍は袂から払子を出すと、それで炎をなぎ払った。
「私が何の手を打っているのか、解ってから言うがいい」
 炎が消えた後には、何事もなかったかのように二体の童子が剣を構えて司祭を狙っていた。
 どちらも大きさは一尺ほど。伽羅童子は黒く、翠羽童子は緑の肌をしていた。
 二体の童子が宙を舞い、その剣を司祭に振るおうとしたその時――
 背後から別の刃が司祭の胸を貫いた。
「まだるっこしいんだよ」
 司祭の影から雪豹の声がした。
「こんな奴、生かしておいて何の意味があるんだよ。てめえのことしか考えない、最低のヤツだろ」
 雪豹は柳葉刀を引き抜くと、そこから血飛沫が上がった。
「先生も何、手間取ってるだ、あんたらしくもない」
「いや、雪豹。お前こそ珍しく短絡だぞ」
 驪龍がそう言うか言わないかのうち、地面が大きな音を立てて揺れた。鎮綏椀がその弾みに祭壇から転げ落ち、まるで意思があるかのように、倒れている司祭の元へ転がっていった。そして血だまりにはまると、喜んでいるかのように大きく打ち震えた。
「その司祭が、長き修行で育んだ“光”があったから、鎮綏椀を押さえこんでこれたというのに。歯止めが利かなくなった今、“溢れる”ぞ」
「何?」
 辺りが急に暗くなり、生臭い風が吹いた。
「長く祀られたものは、やがてそれ自体が意志を持つ。それが精と呼ばれるものだ。鎮綏椀の精の元は、長きにわたり捧げられた生贄。その魄(たましい)が血と共に鎮綏椀に溜まり、邪悪な塊となった」
 雪豹は血だまりに蠢く何かを見た。かろうじて人型を保つか保たないかのそれ。頭とおぼしきものはいくつある? 腕は? 足は? それが融合と離散を繰り返しながら、ムクムクと膨れ上がっていった。
「マジかよ……」
 あまりのおぞましさに、雪豹は柳葉刀を手に後ずさりした。数歩下がったところでハッと気づくと、目の前に驪龍がいた。
 驪龍は一枚の呪符を取り出すと、雪豹の額に貼り付けた。
「五雷法」
 その言葉を聞いた途端、雪豹は自分の体が自分のものでなくなった。
 彼は、三本の尾を持つ白い狐に姿を変えていた。

「兄さん!」
 山道にさしかったところで、向こうから白馬に乗った胡忇が駆けてくるのが見えた。
胡忇コロ、戻りが早いな」
 彼の姿を見て、嬉しそうに黒豹は言った。
「あのお嬢さんは石亀の兄さんに頼んできました。ちょうど唐軍の斥候も来たところで、いい案配で娘さんたちを引き渡せそうです」
「そうか、良かった」
「こっち側からは味方しか来ませんよ。敵が来るとしたらあっちだ」
 胡忇は黒豹たちが来た方を指さした。馬も彼らの元に戻ったらしく、十数騎がこちらに向かってきていた。
「胡忇、お前は本当にいいところで来てくれたな」
「兄さんにそう言ってもらえると照れますね」
 胡忇は少しはにかんだように言った。
「胡忇、頼みがある。この先、道が一番細くなっているところがあるな」
「ええ、荷馬車もすれ違えないほどの」
「そこから先は、お前だけでこのお嬢さんたちを連れて行ってくれ。俺はこの“忘れん坊”とあの追っ手を防ぐ」
「へ?」
 胡服の男と胡忇は驚いて奇妙な声を上げた。
 特に胡忇は見慣れない胡服の男をいぶかしんで睨み付けた。
「当たり前だろ。胡忇は顔はいいが腕は今ひとつ。逆に“忘れん坊”、お前は腕はいい。お前がやらなきゃ剣の持ち腐れだぞ」
「は、はい。そうですね」
 勢いに押されるように胡服の男は頷いた。
「胡忇、行ったり来たりで悪いが頼んだ」
「私が兄さんの頼みを断るわけないでしょ」
 胡忇はやれやれといった感じで答えた。
「何往復だってしますよ、あなたのためなら」
「ありがとよ」
 それから黒豹は亀茲の姫の方に言った。
「お嬢さん、ここから半時ほど頑張って歩いてくれ。走る必要はない。追っ手は俺たちが防ぐから、大丈夫。安心しろ」
 姫はその言葉を聞くと、黙って頷いた。そして羽織っていた辟兵布を脱ぐと、背伸びして彼に着せた。
 筋肉質のたくましい体には、たくさんの傷痕があった。背中の傷はまだ癒えていないというのに、この人は……
 姫は顔を上げて、黒豹の顔をのぞき込んだ。
「大丈夫、先に行っています」
 そう言うと、胡忇と共に先に進んでいった。
 黒豹と胡服の男は、道の細くなっているところまで来ると、後ろを振り返った。薛延陀兵はもう目と鼻の先まで迫っていた。
「じゃあ、一暴れしようぜ、“忘れん坊”」
 黒豹は環首刀を構えて言った。
「ここで半時ほどこらえれば、お嬢さんたちは唐軍のところまで辿り着く。たいした時間じゃない」
「は、はい!」
 胡服の男は、掌の汗を拭った。落ち着かないと、剣も上手く握れない。
「行くぜ、血の紅い雨、降らせてやろうぜ」
 黒豹はにやりと笑った。

(何やったんだ!?)
 雪豹は口をパクパクさせた。思うように声が出ない。
「すまない。ちょっと“人手不足”でね。手伝ってくれ」
(はあ? だからって俺をこんな姿に――!?)
 声なき声で罵倒する雪豹に驪龍は苦笑いをした。
「五雷法をかけてもなお、そこまで文句が言えるとはさすがだな」
 驪龍はさらに口訣を唱えた。
「溢れだしたものを片付けるぞ。伽羅童子、翠羽童子」
 二体の童子は屋根まで届こうとする“塊”に斬りかかった。童子は剣で塊を細かく斬り刻むと、その欠片はもの凄い速さで室内をぐるぐると飛び回った。
「雪豹! あれを捕まえてこちらへ寄越せ」
 雪豹は驪龍の命を受けると、自分の意思とは関係なく、その欠片を追いかけ飛びかかった。
 雪豹は、欠片を口に咥えると、それが人型になっていることに気が付いた。粘土で作ったような手足に、のっぺりした顔。眼球はなく、窪んだ眼窩は涙のように何かの液体がたまっていた。口はパクパクと、何か言いたげに動いていた。
(うげっ)
 吐き気を堪えながら、雪豹はそれを驪龍に投げつけた。
 驪龍は宝剣を手にとると、上下左右、奇妙な動きでそれに斬り付けた。すると、それは乾いた土になり、サラサラと崩れて消えた。
(何だよ、これは?)
「いいから、次を寄越せ」
 驪龍の言葉に、雪豹は気持ち悪いのを我慢して次を捕まえて投げつけた。気がつけばもの凄い数の人型が、室内を所狭しと飛び回っていた。
(これ全部!?)
「そうだ」
 雪豹は、せわしなく動く二体の童子と対照的に、まったく動かない武将に気づいた。
(なんで、あのおっさんは動かないんだよ)
「五星にぶつかるなよ。一歩でも動いてしまうと、結界が壊れてこれが外に飛び出してくぞ」
 驪龍は、司祭と対峙するように見せかけてこの教会を外界から隔離していた。四体を外に配置し、要となる鬼神を中央に配置することでその結界を完成させ、鎮綏椀の力が教会の外にいる他の信者たちに及ばないようにしていた。
「早く次!」
 驪龍の言葉にビクっとした雪豹は、慌てて一体を捕まえて彼に投げた。

「足を止めるんだよ! 足を」
 黒豹の言葉に、胡服の男は慌てて剣を構え直した。
(強い……)
 黒豹は崖を上手く利用し、高さを使った攻撃を巧みに仕掛けていた。数が圧倒的に不利だというのに、それを感じさせない動きで次々と薛延陀兵を崖の下に落としていった。
 一方の胡服の男は、黒豹にやられてもなおその隙をついて前に進もうとする兵士を片付けるのに精一杯であった。
(ここで食い止めなければ)
 気を取り直して剣を振るう胡服の男の横を、何かがもの凄い速さで通り過ぎていった。
(え……)
 それが何であるのか、見切る暇もなかった。
「黒豹さん、何かがあっちに抜けた」
「何?」
 黒豹は耳を澄ませた。先に行った足音は聞こえない。
「人馬じゃないな……だったら、妖術か。ならバー公がいる。心配するな」
 黒豹は胡服の男の肩を叩いた。
「まだへたるには早いぞ。祭はまだまだこれからだ」
 環首刀を構え直すと、彼は薛延陀兵に突っ込んでいった。

 数限りなく飛んでいた人型も、ようやく姿を消し雪豹は一息ついた。
「では、次にかかるぞ」
(まだあるのかよ……ったく人使い荒い)
 声にならない声で、雪豹は驪龍に文句を言った。
 鎮綏椀からは、得たいのしれない何かはもう出ていなかった。驪龍はそれを拾うように雪豹に命じた。
 雪豹が恐る恐る近づくと、突然、何かが鎮綏椀から飛び出した。
 びっくりして飛び上がった雪豹は、弾みで五星にぶつかった。
(しまった――!)
 五星はパンと弾けて散った。
「伽羅童子、翠羽童子」
 二体の童子とともに、驪龍は宝剣を手にその何かに向かっていった。それは、二体の童子を食いちぎると、驪龍を突き飛ばした。
 これは、鎮綏椀の精の“核”。最も古い部分。
(こいつはバガトゥールを取り込む気だ)
 驪龍は体制を直すと、外へ飛び出したそれを追おうとした。
 と、扉の前に誰かが立った。
 彼女は金色の筒状の冠を付け、紅い毛織物のマントを頭から羽織っていた。その服装は胡服に近いが、かなり古めかしい。
「大丈夫」
 吐火羅語に近い響きを持つその言葉でそう告げると、彼女は扉をパタンと閉めた。
金山アルタイの……」
 こちらの手出しは無用と言うことか……。
(先生、追わなくていいのか!?)
 雪豹は驪龍の足元に来て訊いた。
「ああ、こちらはこちらでやることがある」
 驪龍は、袂から呪符を出し、それを金色の鷹に変えた。
「頼むぞ、孔鷹」
 金の鷹は一声鳴くと、排気口から外へ飛び出した。
「あの邪悪な精が戻ってくる場所をなくす。鎮綏椀を清める」
 驪龍はそう言うと、光の場所ガーフ・ローシユンにある椅子の上に鎮綏椀を置くように雪豹に命じた。
 代々の祈りが通じているなら、ここには光の通り道がある。
 そして、昨日は積石庵周辺に集まっていた天地の気は、ゆっくりと西方に流れてこの近くまで来ている。その気を、こちらへ流す。光の道へ。
 驪龍は禹歩を踏み、秘呪を詠唱した。
「孔鷹!」
 彼の呼びかけと共に、孔鷹は天井から光と共に鎮綏椀に向かって一気に降りてきた。
(うわっ)
 まぶしい光に、雪豹は目を背けた。
 キラキラと光の柱が、天空から椅子まで真っ直ぐに続き、教会内部を照らした。
「純粋な祈りがあればこその光か」
 光の柱はゆっくりと細くなり、やがて髪の毛ほどとなって消えた。
 薄暗くなった室内の中で、鎮綏椀だけが金色に輝く光を放っていた。
「二千年前の姿に戻った。これで、血を求める邪悪な明器はなくなった」
 驪龍は雪豹の額に手をやると、さっと呪符を剥がした。
「これで五雷法から解放する。悪かったな」

 姫とバガトゥールは、一番後ろをゆっくりと歩いていた。バガトゥールは普段から岩山でならした健脚で、もっと速く歩くこともできたのだが、姫にあわせてゆっくりと歩を進めた。
 一番後ろなら、一番初めに黒豹に会えるから。そんな気持ちで姫はいた。
 急に、つないだ手が冷たく感じられた。
「バガトゥール、どうしたの?」
「……お腹、痛くなった」
 姫は慌てて周囲を見渡し、岩陰に彼を休ませた。
「大丈夫?」
「解んない。何か、変な気持ち。お腹がもぞもぞする」
 バガトゥールはお腹を抱えてうずくまった。
 姫はどうしていいか解らず、ただ彼の背中をさすった。
 ここで休んでいれば、いないことに気づいた誰かが助けを寄越してくれるはず……そう考えた姫は無理に進むことは止めて、彼が落ち着くまでここにいることを決めた。
 ふと、何かの生臭さい気配がすることに、彼女は気づいた。
(何?)
 臭いがする方を見ると、奇妙な生き物がいた。
 四つん這いではあったが、蝙蝠のような翼もあった。そして顔は猿のような、人のような、何とも言えない顔をしていた。
 姫はギュッとバガトゥールを抱きしめた。
 そいつは一定の距離を保ちずっと二人を見ていた。
(どうしよう……助けを呼ばないと)
 苦しそうに息をするバガトゥールを抱えながら、姫は途方に暮れた。
 その時、柔らかい手が、彼女の肩に触れた。
 彼女は驚いて上を見上げた。
 とても綺麗な女性が、二人に微笑みかけた。そしてバガトゥールの額に口づけをした。
「息子よ……」
 吐火羅語に似た、古めかしい言葉でそう言うと、彼女は化け物の方に近づいていった。
 彼女が手を触れると、化け物は輝く炎の鬣(たてがみ)を持った獅子に姿を変えた。彼女は獅子に跨がると、そのまま天空に駆けていった。
「何あれ……?」
 姫はただその様子を見ているしかなかった。バガトゥールも、額に手を当てて空を見上げていた。
「大丈夫か!?」
 二人を捜しに戻ってきた胡忇の声で、二人は我に返った。
「あれ、何かしら?」
「何って?」
 姫は空を指さしたが、灰色の雲の切れ間から、うっすらと光が差しているだけだった。
「雲?」
 怪訝そうな顔で胡忇は言った。
「ケガでもしたのか?」
「ううん、お腹痛かった」
 そう言いながら、バガトゥールは立ち上がった。
「あ、でも、もう大丈夫。痛くないや」
「君たち、お腹空きすぎでおかしくなったのか? 干し肉あるから食べなよ」
 胡忇は困ったように言いながら、干し肉を取り出すと二人に渡した。姫は肉は断り、代わりに水をもらった。
「ねえ、胡忇」
 干し肉を噛みながらバガトゥールは言った。
「俺、母さんに会ったかもしれない」
「え?」
「よく解んないけど」
「こっちが解らないよ。夢でも見た? 疲れてるならあと一息だよ。頑張って」
 胡忇は二人を馬に乗せると、自分は馬を引いて歩き出した。

第9章 終息

(光……)
 司祭は薄れゆく意識の中で、それを見ていた。
 命が消える最後の瞬間、彼が見たのは、“光の場所(ガーフ・ローシユン)”に降り注ぐ光。
光の王ローシユン・シヤフリヤールよ……我が師 マール・マーニーよ……)
 遠く離れてしまった光の王国ローシユン・ワヒシユトを思いながら、司祭はその生涯を閉じた。
 闇に落ちれば落ちるほど、光は強く感じられる。
 驪龍は見開いたままであった司祭の目を閉じ、涙を拭ってやった。

「おい!」
 黒豹は、胡服の男が振り下ろされた刃を避けきれずにいるのに気づき、慌てて割って入った。環首刀が間に合わず、その腕で刃を受けたが、衝撃を受けただけで無傷だった。
 辟兵布の効果をその身に体験した黒豹はひゅうと口笛を吹いた。
「一回ぐらいは役に立つもんだなこれ」
 黒豹は環首刀を構え直して胡服の男に声を掛けた。
「“忘れん坊”、もうだめか?」
 胡服の男は息も上がり、剣を持つのもようやくだった。間合いを詰めてくる相手を何とか牽制した。
「――お待たせっ!!」
 甲高い声が上から響いた。崖を利用して雪豹は上から駆け下りると、胡服の男の前にいた兵士の脳天に蹴りを食らわせた。雪豹は一回転すると、スタッと着地した。
「雪、遅せーぞ」
「悪い。ちょっと手間取って」
 雪豹はふぅっとため息をついた。
「ちょっといろいろあってさ、俺、今、身も心もボロボロなんだよ」
「はぁ?」
「だから、ちょっと、すっきりしていっていいかな?」
 雪豹は指をポキポキ鳴らした。その様子で何が言いたいのか、黒豹は理解した。
「ああ、いいぜ。好きにしな」
 雪豹はニヤリと笑うと、柳葉刀を抜いた。
(なんだ、この連中……)
 胡服の男はへたり込んで二人の動きを見ていた。
(とてもじゃないけど、真似できない)
 自分の二倍以上は動いているはずなのに、黒豹の動きに疲れはまったく見られなかった。切れのある動きで兵士の馬を奪うと、兵士の方は雪豹がザックザックと斬り付けていった。
 二人の息の合った動きに、胡服の男はただただ感服するしかなかった。
(強すぎる……)
 あれだけいた薛延陀兵がどんどん減っていく。
 胡服の男は、自分がどうしてここにいるのか考えた。
 きっかけはまだ自分が小さな子供だった時。その頃は今の皇帝がまだ秦王で、天下平定のため各地を転戦した。曇りなき秋天のある日、たまたま秦王軍の凱旋に出くわした。
 破陣楽が流れる中、煌びやかに凱旋する彼らを見て、自分もあそこにいたいと思った。
 そのために剣も習った。徴兵に応じて軍にも入った。
 しかしこのざまだ。
 どこで、何を間違ってしまったのだろうか。
「おい」
 黒豹は胡服の男の襟首を掴むと、ひょいと馬に乗せた。
「行くぞ」
 見ると、追っ手は全滅していた。
「雪の見立てじゃこれ以上追っ手は来ないだろうって。行くぞ」
 雪豹は、すっきりした顔でさっさと先に行っていた。
「は、はい」
 胡服の男は戸惑いながらも、黒豹の後に続いた。一体いつまで彼らと行動を共にするのだろうか?

 驪龍は、司祭の服を整え、拭える範囲で血の汚れを取ってやった。
「ずいぶん丁寧だな」
 教会に入ってくるなり紫陽は言った。
「あのままだと、彼を信じていた信徒が可哀想ですからね。それに――」
 驪龍は最後に司祭の髪と髭をなでつけた。
「解らなくはないのですよ。信ずるものを守るため、我が身はどうなってもいいという考えに」
「ああ、成る程。かの玄武門の時、血の滴る首級を掲げ、逃げる敵を追いかけて長安中を走り回った伝説を持っているだけはあるな」
 その言葉に驪龍は苦笑いを浮かべた。
「それ、半分噂ですよ」
 驪龍はふと遠い目をした。
「若気の至りでしたね、あの頃は。でも、後悔はしてません。あの時はあれが正しかったと思っていますから」
 紫陽は手を伸ばして驪龍が立つのに手を貸した。驪龍も黙って彼の手を取った。
「何年ぶりですかね」
 立ち上がった驪龍は紫陽に言った。
「こうやって手を貸してもらうの。茅山にいた頃以来……」
「私はいつだって手を貸すよ」
 紫陽は手をヒラヒラさせて戯けた。
「今回のことだって、もっと表立って動きたかったが、下手に動くと元君の叱責を受けるからな」
「充分ですよ。これは仙界が関わるべきことではないのですから」
「だが、今回は危なかったな」
「ええ、調息も乱れ、結界も破られた時はどうなることかと思いましたが」
「あの時は禁を犯して出ようかと思ったが。金山アルタイのあのお方が出てきた以上は手も足も口も出せない」
「正式な御名も解らない以上、こちらとしてもどうすることもできませんが、バガトゥールは間違いなく金山の……」
「元君に伺えば、ある程度は教えてくれるかもしれぬな。たまには南岳に来ぬか? お前は元君のお気に入りなのだし」
「帰ってこれなくなりそうなので、当面はいいですよ」
 元君とは、南岳魏夫人こと紫挙元君のことである。彼女は上清派の開祖であり、仙女となってからは南岳衡山におり、紫陽や驪龍の良き後ろ盾となっていた。
「それに、時が来たら、全てが明らかになるでしょうし」
 ただ、と驪龍は続けた。
「どうにも“養父”としての感情が……。今回も、つながりを確かめるためにあの子を危険な目に遭わせた。そしてこの先のことも……」
「まだまだ修行が足りぬな」
「はい、師兄」
 驪龍は茅山の頃を思い出して笑った。
「では、そろそろ教会ここを人界に戻さないか」
 驪龍は信徒たちが教会に押し寄せるのを防ぐため、一時的に教会の次元をずらしていた。 驪龍は結界を二重に張っていた。一つは精を中から外に出ないため、もう一つは人を外から中に入れないため。二重の結界のうち、今は外側の結界がかろうじて生きていた。
「ああ、そうだ。明日の大祭は恙なく行われるような手はずは整えたよ。ない伝手をなんとか駆使してな」
「師兄、ありがとうございます」
「何、信徒たちには罪がないからな」
「本当に、仙人をこき使うのは私ぐらいですね」
「そうだな、ここまで道士に使われる仙人は私ぐらいだ」
「最後の仕上げがまだありますから、まだ手を貸していただけますか、師兄」
 二人は教会を後にした。薄暗がりの中、椅子がぽつんと差し込む光に照らされていた。

「なんか、すごくないか?」
 黒豹たちは、小高い山の上から集まっていた唐の軍勢を見ていた。兵馬の数もさることなら、助け出された少女たちの数も負けていなかった。
「圧巻だね……」
 雪豹も呆れた様に見ていた。雪豹は将軍に挨拶をしている驪龍を見ていた。彼の周りには“伝説の武将”を一目見ようと集まった野次馬で、妙な人だかりができていた。妙な人だかりに目を奪われていた。
「そうじゃねえんだよ」
 石亀は雪豹に言った。
「数が合わないんだよ」
 蜉蝣も口を揃えた。
「娘たちは、雪豹の見立てより少なく、実際五十人もいなかったんだが……」
「どう数えても、あそこにいる数と合わない」
 そう言われて、雪豹は改めて女たちの数を数えた。
「え……?」
 合わないなんてもんじゃない。さっと見ても三、四百。十倍近い数だ。
「あれ、もしかして……」
 教会に潜んでいたときに聞いた、驪龍が司祭に言った乙女の総数。自分が追いかけた人型の数……。
「深く考えるな」
 ぬっと紫陽が現れると、雪豹の胸元に手を突っ込んだ。
「な、何だ!?仙人のくせになに“ふしだら”な」
 紫陽が腕を抜くと、金色に輝く鎮綏椀が彼の手に合った。
「悪いがこれはもう人界には置いておけないものだ。持って行くぞ」
「何だよ、仙人が泥棒か」
「人聞きの悪い。取り引きだよ」
 そう言いながら、紫陽は雪豹に小箱を渡した。それは昨日、二人が驪龍に持って行った狐の珠であった。
「必要のないものはいらないってさ。女狐が持っているのが一番だと」
 さらに紫陽はもう一つの小箱を渡した。紫檀でできたそれは、飾り気がないながらも一目で上物だと解った。
「昨日の仙薬、お前、欲しがっていただろう? 大した量は渡せないが、この量でも女狐が女狐らしく、お前たちの前から姿を消せる分だけの功力はある。その先どうなるかはあいつ次第」
「畜生、紫陽先生、愛してるぜ」
 雪豹はその二つを受け取ると、馬に飛び乗った。
「兄貴! 先に戻ってる」
 言い終わるやいなや、あっという間に雪豹の姿は見えなくなった。
「なんだあいつ、仙人に愛の告白をして消えるって、新手の何かか?」
 呆れた様に黒豹は言った。
「愛の告白って、何です?」
 下の方から、上品で可愛らしい声がした。
 見ると、驪龍に助けてもらいながら、山を登ってくる亀茲の姫君がいた。
 彼の姿を見て、バガトゥールは嬉しそうに驪龍にしがみついた。
「あれ? 先生、まだ下にいるんじゃ?」
 摩勒は唐軍の兵士に取り囲まれている驪龍の姿を確かめながら、こちらにいる驪龍に訊いた。
「ああ、あれは陽神だよ。将軍への挨拶は済んだのだし、そのほかの連中の相手をする義理はない」
 こともなげに驪龍は言った。
「黒豹、こちらの姫がお前に話があると」
 それを聞いて黒豹は彼女の近くまで飛び降りた。
「何だ」
「お礼とお願いを言いたくて」
 亀茲の姫は黒豹の目をじっと見つめながら言った。
「礼なんて別にいいさ。面白かったし」
「でも、ありがとうと言わせてください」
 目をそらさずに言う彼女に、黒豹は戸惑った。
「ああ、そうか……で、お願いって何だよ」
 無理難題じゃなければいいと、黒豹は内心思った。
「はい、私たちを阿耆尼まで送ってください」
「ああ、そうか。そんなの、お安いご用……って、は?」
 我に返った黒豹は素っ頓狂な声を上げた。
「何で? 唐軍は?」
「文句言わずに送ってやれ」
 黒豹の右側に紫陽が立って言った。左側には驪龍が立ち言葉を継いだ。
「他の娘さんたちは、みんな南道沿いで阿耆尼とは方角が違うし、何より今回は反唐の同盟となる通婚。唐軍が助けるというのも妙な話」
 驪龍はさらに畳みかけるように言った。
「何より、これは姫君たっての願いだ」
「解ったよ」
 黒豹は自分より背が高い人間にはそうそうお目にかからないのだが、この二人は揃いも揃って黒豹より長身。この二人が左右から黒豹を見下ろすように言うのだから、正直気分が悪い。
「だけど、俺らみたいな盗賊がこんなやんごとなき姫君たちを送って大丈夫なのかよ。その場で輿入れの話もなくなったらどうする?」
「心配するな」
 驪龍は封書を渡した。
「阿耆尼の王都に入る前にこれを開けるといい。開けると同時に軍隊が現れる。ただし一刻を過ぎると消えるから、開けるのは必ず王都に着く直前に」
「――たく」
 黒豹は不承不承それを受け取ると、懐に収めた。それから、上の方にいる仲間に声を掛けた。
「お前たち、休憩は終わりだ。支度しろ」
「悪い、先約があって俺は行けない」
 石亀はあっさりと断った。続いて蜉蝣と摩勒も同じように断った。
「俺たち、三郎さんに用を頼まれてて、これから高昌城市に戻るんだよ」
 蜉蝣が黒豹に理由を告げた。
「はぁ?」
 そんなこと聞いていないと、黒豹は三人の言っていることをいぶかしんだ。
「ほら、三娘さんが膝が痛いって言ってただろ。んで、ちょっと歩きやすいように店を手直ししたいって三郎さん言ってたからさ」
「そう、それで、戻ったら俺たちが手伝うよってな」
「そうそう、なんと言っても一宿一飯の恩義があるからな」
 三人は口々に言った。
 黒豹はチッと舌打ちをすると胡忇に聞いた。
「胡忇、お前も行けないなんて言わないよな」
「まさか」
 胡忇は黒豹の方をポンポンと叩いた。
「黒豹の兄さんの用以上に重要な事柄なんてありませんよ。地獄の底までお供します」
「ってことは、またこの三人か。“忘れん坊”、お前、荷物とかある?」
「はい?」
 胡服の男は驚いたように言った。
「なんで、私だけ都合も聞かずに行くことになっているんです?」
「え? 何? お前都合あった?」
「……ないです」
「だろ」
 石亀、蜉蝣、摩勒の三人は上の方で黒豹たちのやり取りを窺っていた。
 ちょうど下では、胡服の男の旅支度はどうするだと言う話で、黒豹が唐軍から“拝借”すると言うのを聞いた姫が怒って、二人を驪龍が取りなしているところだった。
 それから、驪龍の口利きで多少の物資をもらえるということが解ると、姫は黒豹の腕を引いて山道を降りて行った。
「あれ、どう思う?」
 石亀は二人に訊いた。
「どう見てもベタ惚れっすね」
 ニヤニヤしながら摩勒が言った。
「でも、兄貴は奥手だからな」
「そ、自称女好きのウブ」
 蜉蝣の言葉に摩勒は同意した。
「どうせ他の娘連中は胡忇のとこ行くとして、あの新参がジャマするかどうかだ」
「まあ、そんなことないよう、付かず離れず見張ってますよ」
 摩勒はニヤニヤしながら言った。
「でもとりあえず、結局手出しできないのに十銭」
「あっしも手出しできないに十銭」
 蜉蝣の賭けに摩勒も乗った。
「いや、賭けにならない賭けは止めようぜ」
 石亀は苦笑いを浮かべながら言った。
「まあ、やんごとなき姫君の泡沫(うたかた)の恋だ。ちょっとは良い夢見られるといいな」
 まだあと何日か一緒にいられる。それだけで姫は嬉しかった。

終章 別れと始まり

高昌郊外から、積石庵に戻る道中。飛廉に乗りながらバガトゥールは驪龍に尋ねた。
「ねえ先生、俺の両親て死んでるんだよね」
「ああ……お前しか生き残らなかった」
「……うん」
 それは幼き頃から幾度となく聞かされていた自分の出自。
「でもね、先生。俺、今日、母さんに会ったかもしれない」
「母に?」
「不思議な人だった。その人、とても綺麗で俺のこと“息子”って呼んだ。それから獅子に乗って空に消えていったんだ。ねえ、先生。どう思う?」
 それは“金山アルタイの魔女”。彼女がどのような意図で動いているのだろうか。ただ解ることは、彼女は数千年という気が遠くなるような、長い時の流れの中で何かを企てている。
「彼女とはそのうちまた会うから、その時“本当のこと”を訊くと良い」
「また会えるの? 嬉しいな」
 バガトゥールが抱えているもの、それは驪龍と過ごす日々の中で、ゆっくりと浄化されていっている。“金山の魔女”はその変化を待っている。今の驪龍が解っているのはそれぐらいだった。
 そして“魔女の業”が成るのは、まだ遙か未来。彼らの生きた時代よりずっと先のことであった。

「もう起き上がって大丈夫なの?」
 雪豹は胡床から起き上がって外を見ている女狐を見ていった。
 戻ったときは起き上がれないくらい弱っていたのが嘘のようだ。
「ああ、ありがたいね。あの仙薬は効いたよ」
 女狐は胡床に腰掛けると言った。
「寿命なんだから、飲む気はなかったがね。でも飲まないと紫陽先生に怒られるから仕方ない」
 彼女はケラケラと笑った。
「お頭は本当に紫陽先生と仲が良いよね」
「ああ、昔の情夫(おとこ)だったって言ったら信じるかい?」
「――まさか」
 一呼吸置いてから雪豹は言った。
「だって、好みじゃないだろ」
「正解。よく解ってる」
 女狐は笑いながら言った。楽しそうに笑う彼女を見て、雪豹は急に寂しくなった。
「お頭、本当に行っちゃうのかい?」
「ああ、これが私らの宿命だからね」
 女狐は雪豹の頭を撫でた。
「ありがとうよ、雪豹。最後に私のところに来てくれて」
 知らない間に、雪豹は涙を流していた。
「しけた面してるんじゃないよ。情けない」
 女狐は雪豹の頬をパシパシと叩いた。
「まだ行かないよ。他の息子たちが帰ってくるまではね」
 彼女は力強く言った。雪豹の涙は止まるどころか、さらに量を増やした。
 彼女はギュッと強く雪豹の肩を抱いた。
「何弱気になってるんだよ。私らはどうやったって、天帝に憎まれる存在。だから最後まで足掻くんだよ。お前も、強くお生き」
 雪豹の涙は止まらなかった。女狐はただただ、優しく彼の頭を撫でていた。

 高昌から阿耆尼へ行く道は、いくつかの山を越えなければならなかった。少女たちは道中をしっかりとあつらえた馬車の中で過ごしたが、何故か姫だけは黒豹と一緒に馬に乗ることを望んだ。
 いつもの調子で押し切られた黒豹は、自分の馬に姫を乗せ、彼女の他愛のないおしゃべりに一日付き合わされた。嘘がバレて結局同行することになった石亀たち三人は、その様子を見ては顔を見合わせてニヤニヤと笑った。
 道中は順調に進み、三日目には無事、阿耆尼の王都に着いた。
 黒豹は懐から驪龍から託された封書を開けてみた。と、中からけたたましい音楽とともに十数騎の兵馬が出てきた。
 その音色を聞いて胡服の男は歓声を上げた。
「秦王破陣楽じゃないですか。これ」
 嬉しそうに言う彼に、黒豹は冷ややかな視線を浴びせた。
「え? 何か変なこと言いました?」
「お前、唐軍抜けたくせにこんなの好きなのかよ」
「良いじゃないですか、好きなものは好きで」
 馬車を付け替えながら言い合っている二人のところに、姫が駆け寄ってきた。
「ああ、お嬢さん。もうちょっとで終わるから待っててくれ」
「――お嬢さんじゃありません」
 姫は、自分の腕輪を外すと、黒豹の腕にはめようとした。しかし、彼女の腕は細すぎて、黒豹の腕はたくましすぎて、どうしたってはめようがなかった。
 それはかみ合わない彼女の恋そのもののようだった。
 姫は腕輪をはめることを諦めると、それを黒豹の掌にギュッと握らせた。
「これ、絶対、ずっと持っててくださいね」
 半べそをかきながら彼女は言った。
「それから、私の名前はチャンドラマーラー。忘れないで。絶対」
「お、おう」
「だから、私のこと、ちゃんと名前で呼んでください」
「お嬢さ……」
「名前で!」
「チャンドラ……マーラー」
 姫は、自分の名を呼ばれて、にっこりと微笑んだ。でも両目からはポロポロ涙が溢れていた。
「ありがとう、黒豹」
 彼女はもう一度、ギュッと黒豹の手を握った。
「忘れないで、絶対……もし、この周辺であなたの身に何かあったら、この腕輪を示して私の名を呼んでください。絶対に、あなたのこと、助けますから」
「ありがとうな、おじょ……チャンドラマーラー」
 彼女は、黒豹の指に口づけをすると、急いでアイーシャの待つ馬車に乗り込んだ。そしてアイーシャに抱きつくと大声で泣いた。
「姫様……」
 アイーシャは彼女の背中を優しく撫でた。
「アイーシャ、解ってるの。解ってる。自分の役割。でも……」
「いいんですよ。所詮、私たちは国の政(まつりごと)の手駒。でも、気持ちは別ですから」
「いいよね、この気持ちずっと持ってても……」
「ええ、もちろん」
 姫はアイーシャの腕の中で思いっきり泣いた。
 やがて馬車は動き出した。阿耆尼の王都に向かって。
 その後、姫は、後嗣にこそ恵まれなかったが、神兵に守られた姫として婚家に大切に扱われ、短いながらも幸せな生涯を閉じた。

「初恋ですね、あれ」
 王都へ向かっていく亀茲の姫たちを見送りながら、胡服の男は黒豹に言った。
「もうちょっと、こう、良い感じにできなかったんですか?」
「るせー、バカが」
 黒豹はフンと鼻を鳴らしながら言った。
「相手にするにはガキ過ぎるよ」
 黒豹は、姫がくれた金の腕輪を握りしめた。
「おい、“忘れん坊”、そういやこの呼び名、何とかならないか」
「何とかって……あんたが勝手にそう呼んでるでしょうに」
 呆れた様に胡服の男は言った。
「こう、何だ、うん、盗賊らしいな、言い感じな名前にしないか」
「は? 盗賊って?」
「え? これから行く予定あてがあるのか?」
「いや……ないです」
「じゃあ、戻るしかないだろうに。いくぞお頭が待ってる」
「……え?」
 胡服の男の返事を聞かぬまま、黒豹たちは“忘れん坊”の新しい名前について馬鹿馬鹿しい議論を始めた。結果として、彼は女狐の「最後の手下」として彼女から紅雨という名前をもらい、のちに雪豹とともに黒豹の良き片腕となるのであるが。

 貞観20年(646年)、唐は亀茲王国を滅ぼすと安西都護府を高昌から亀茲へ移し、広大は西域諸国は、唐が支配するところとなった。
 その頃には、もう人々の記憶から女狐の名前は消えていたが、その代わり黒豹と雪豹が西域中にその名を轟かせていた。彼らは唐軍相手でも義を貫き、女狐の魂を唯一受け継ぐ盗賊団として、天山双盗――義盗の黒豹と知盗の雪豹と、畏敬の念をもって呼ばれるようになった。

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