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海棠の花散る下で、君と 第5章 烏孫王孫、岑陬

武帝の命を受け、行方不明となっていた張騫を探す旅に出た二人の少年。しかし、その旅は、太古の呪いに仙人達の思惑が絡んだもので――
古代中国、草原を舞台に繰り広げる物語。

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第5章 烏孫王孫、岑陬(しんそう)

 今日が期日の五日目であった。
 最初はどうなるかと思ったが、目のある巻尾のおかげで、最後は順調に進むことができた。
 今朝からは、時々大きな轟音が耳に入ってきた。それは、この雪山の旅の終わりを意味していた。
 その音に導かれるようにして、二人は氷河の終着に辿り着いた。
 巨大な氷河は、そこで崩壊し、融解する。
 大きな音を轟かせながら、崩れ落ちた氷は、細かく砕け、やがて水となり流れていく。この、水の流れの先に、目指す人が、いる。
「気をつけてくださいよ。大きく崩れたら、流れに巻き込まれますよ」
 頭上から聞き覚えのある声が響いた。見上げると、頭上の岩に有為が座っていた。
「有為!」
「ご無沙汰しておりました」
 そう言うと、有為は手を横に伸ばした。するとそこに、あの奇妙な獣の顔がすっぽりと収まった。
 獣の首に捉まって有為は二人のもとに下りていった。
 駿たちの側にいた、目のある巻尾は、嬉しそうに体を揺すると、その獣の所に走っていった。そして、ぽん、と飛び跳ねると、獣の尻尾たちの中に身を埋めた。
 尾が擦れるたびに、ケーン、ケーンという音が響いた。
「ケンケン、ご苦労様。先生によろしくお伝え下さい」
 獣は、嬉しそうに尾を振るわせた。尾と尾が擦れてケーンと音が響いた。そして、空高く舞い上がっていった。
「あれは……?」
 獣が去っていく姿を見ながら、駿は有為に尋ねた。
「蓬莱の獣です。ケンケンというそうですよ」
「けんけん?」
「そう鳴くでしょ?名前で鳴くのだと、安期先生はおっしゃってましたよ」
「本当か~?」
 胡散臭そうに、駿は呻いた。
「でも、確かにそう言っておりましたよ」
「……あの先生も、東方先生と同類だ」
 駿の頭の中に、いつも嘘なんだか、本当なんだか、訳の解らないことしか話さない東方朔の姿が過ぎった。歳星の化身である彼と、仙人。根っこは同じらしい。
「で、どんな字を書くんだ?」
「あ、そう言えば、そこまで聞いてはいませんでいした」
「じゃ、俺が決めてやる。張の兄貴の名前の”騫”を取って、騫騫」
 それを聞いて、後ろのツルゲネが思わず吹き出して笑った。嘲笑以外に、彼女が笑ったのを見たことにない二人にとって、それはひどく意外な光景だった。
「――心配だったのですが、案外上手くいっていたのですね。安心しました」
「何を言う」
 駿は、有為の一言に顔を顰めた。
「俺は自分の操を守るので大変だったんだ」
「は?」
「お前の顔を見て、こんなに安心するなんて、思っても見なかったよ」
 そう言って、彼は有為の頭を小突いた。
「じゃあ、行きましょうか?」
 照れくさそうに笑いながら、有為は自分の馬の方に歩いていった。
「五日も乗らなかったんだ、馬の乗り方、忘れてないだろうな」
 後ろの方で、駿がからかうように声を掛けた。
「何を言っているんですか!?長安を出て、もう、二ヶ月、その間ずっと乗ってるんです!体がちゃんと覚えてます!!」
 と言いながら、有為は馬の背を通り越して、反対側に落ちた。
 それを見てひどく驚いたのは、ツルゲネだった。なにしろ匈奴は、歩く前に馬に乗れるようになることを誇りにする民族だ。馬に乗れない人間など、考えられなかったのだ。
「あいつ、何者だ?」
 彼女は小声で呟くように駿に訊いた。駿は、答えに困って、ただ頭を掻くしかなかった。

「この先に、虎吼ここう岩があります。虎が咆吼するような姿をしているので、その名が付いたのだそうです。そこで、重要な出会いが私たちを待っているそうです」
 一番後ろで、えっちらおっちらとかろうじて馬を走らせながら、有為が言った。
 ツルゲネは、何度も後ろを振り返り、彼を見ては首を振った。彼女にとって、こんなにも乗馬が下手な人間は、ある意味、驚異であったのだ。
「重要な、出会い?何だ?」
「解りません。それ以上詳しくは言ってくれませんでした。あ、あと……」
「何だ?」
「今は雪解けの時期で、急に水量が増えることがあるので、河床を走るのは危険だから止めるようにとも言われてました」
 三人は、雪山を下りて以来、ずっと川沿いに馬を走らせていた。駿は、走りやすいからとついさっき河床の方に下りたばかりであった。
「てめえ、何でもっと早く言わねんだよ!!」
「忘れてたんです!」
「威張るな!」
 駿は慌てて上の方に駆け上がった。
 氷河を起点とするこの河は、その季節によって姿を変える。
 冬には、その流れがほとんど無くなり、時には涸れることもあるこの河も、夏には大河に姿を変える。
春から夏にかけて、大量の氷が溶け、大いなる流れとなって、この礫沙を横切っていく。その流れは、夏の到来も意味していた。
 しかし、春先の今は、まだ流れも少なく穏やかで、河床の一部分を占めるほどしかない。だが、川岸となる断崖までの距離や、抉れた大地の規模を見ると、この河がもっとも水量の多い状態がいかほどであるかは、容易に推測できた。
「――あれかな?」
 流れが多いときは、きっと中洲となるのだろう。谷の中に、ぽつんとそびえ立つ岩山があった。よくよく注意してみると、それは確かに何かの獣が吠えているように、見えなくはなかった。
「でしょうかね?」
 駿の問いかけに対し、頼りない返事が、有為から返ってきた。有為自身、話を聞いてはいるが、それがどんなものであるのか、皆目見当が付かなかったからだ。
 先頭を走っていた駿は、スピードを落としながら、周囲を見渡した。安期生の言うことは、嘘はないが、想像通りではないからだ。駿は、神経を研ぎ澄まして警戒した。
 案の定、の、ことが起きた。
 ひゅん、という音と共に、矢が、駿の馬の、鼻先をかすめた。
 注意をしていた駿は、落ち着いて矢を交わすと、すぐに二人を、安全そうな岩陰に避難させた。
 その僅かな隙に、矢は二本、三本と彼らの足元に突き刺さった。
(かなりの使い手だ……)
 矢の軌道を見て、駿は瞬時にそう判断した。様子を窺おうと、岩陰から顔を出すと、そこに向かって正確に矢が飛んできた。
「重要なって、敵に会うことか?」
「そんな……」
 襲撃に浮き足立っている有為に、これ以上訊いても無駄だと、駿は首を振った。
「有為、お前、時々、ここから顔を出して、矢の的になれ」
「え!?」
 驚いて、目も口も丸くなった有為に、駿は容赦なく言った。
「数を数えてれば大丈夫だ。三つ。三数えたら顔を引っ込めろ。そうすれば串刺しにはならない。ただし、顔を出す間隔は数えるな。一定の間隔だと気付かれたら、顔を出した途端に射抜かれるかもしれない」
「そんな、無理です!出来ません!!」
「そうして貰わなきゃ困る。お前が敵を引きつけている間に、俺は後ろを回って、相手をやっつける。解ったな?」
「――私が、引きつけようか?」
 地団駄を踏んでいる有為を見かねて、ツルゲネが口を開いた。それを聞いて、駿は即座に首を振った。
「駄目だ。あんたに何かあったら、兄貴に面目が立たない」
「じゃあ、私に何かあってもいいんですか!?」
 涙声で有為が訴えた。駿は、にっこりと笑って彼の肩を叩いた。
「大丈夫。お前には安期先生が付いている。首がもげたって、きっと、先生ならくっつけてくれるさ」
「そんな!」
 有為の訴えに一切耳を貸さないまま、駿は敵に気づかれないよう、死角を選んで崖を登っていった。
「有為、交替で顔を出そう」
 そう言って、ツルゲネは有為を岩陰から突き飛ばすと、三数えて、再び影に引きずり込んだ。彼の服の裾を、矢がかすめた。      
 悲鳴を上げた彼に構うことなく、彼女は落ち着いて岩陰から顔を出した。矢は、彼女の鼻先をかすめた。
「ほら、お前の番だ」
 腰を抜かしている有為に向かって、彼女は落ち着いていった。
「時間かかってもいいが、かかりすぎたら、また、突き飛ばすぞ、思いっきり」
 有為は、涙でぐしょぐしょになった顔を、必死に横に振った。

「――奴らの動きは、止まったようですよ」
 射手は言った。
「どうするか?」
 射手の後ろの男が尋ねた。
「向こうも、そう、数は多くないようですし、あまり矢も無駄にしたくはないですな」
「では、まずは捕らえてみるか。それで生かすか殺すか考えよう。私が下りていくから、援護しろ」
「解りました」
 その話を、駿は岩陰から聞き耳を立てて窺っていた。匈奴の言葉なので、半分以上は聞き取れなかったが、おおよその見当は付いた。
 駿は男が、岩山を下りていくのを確かめると、有為たちの様子を窺っている射手の後ろに、静かに近づいた。そして、彼に気付かれないうちに背後から襲いかかった。
 後ろからいきなり襲われ、射手はほとんど抵抗できないまま、駿に押し倒された。そして、駿は射手の喉元に剣を構えた。
 構えて、その顔を確かめた瞬間、彼は驚きの声を上げた。
「堂邑のおっちゃん!?」
 そう言われて、射手も驚いた。その名で呼ばれることなど、この十年、無かったからだ。
「……お前は?」
「俺だよ、俺。忘れたのか?――」
 男は、彼の顔をまじまじと見つめながら、ハッと気付いた。
「衛侍中のとこの、チビか?」
「チビはないだろう?もう、十年も経ってる」
 駿は、男の手を引いて起きあがらせた。彼は、駿の顔をまじまじと眺め、納得したように頷いた。
「確かに面影がある。確かに、侍中の所の、俊々だ」
「五つ六つの子供じゃないんだから、俊々はないだろう?今、俺は鄭駿、独生と名乗ってるんだぜ。親分は今や将軍さまだ。俺はその将軍さま麾下の騎士をやってるよ」
「そうか……立派になったんだな」
 男の目には、涙が滲んでいた。
「――カン!どうした!?」
 異変に気付いた男の連れが、慌てて山頂まで引き返してきた。男は剣を引き抜き、駿もまた、剣を構えなおした。
岑陬しんそう!追っ手ではありません!漢人……味方になりうる人物です」
 ”堂邑のおっちゃん”と呼ばれた男は、慌てて止めた。
「漢人?」
 男は、剣を下ろすと、駿を品定めするように、上から下まで舐めるように見た。
 彼は、匈奴とは若干違う格好をしていた。胡服と呼ばれる、乗馬に適したスリットの入った長い上衣や沓は同じような感じあったが、服に施された文様、ボタンやバックルの飾りが、明らかに匈奴とは違っていた。 
 また、風貌も明らかに匈奴とは違っていた。
 匈奴人は体つきががっしりと大きいものが多いが、顔立ちは漢人とそう差異はない。
 冒頓が強大な帝国を樹立して以来、様々な民族を飲み込んだ匈奴は、混血もまた多かった。ツルゲネもその瞳の色が示すように、西方の民族の血が混じっていた。
 しかし、純粋な匈奴人は、黒髪に黒い瞳を持ち、あまり彫りは深くなく、すっきりとした顔立ちをしていた。
 しかし、この男は、瞳の色は青味がかった灰色をしており、その髪は茶褐色、彫りの深い顔立ちは、明らかに、西方の民族の風貌であった。
「岑陬、彼は、武帝の寵妃の姻戚につながる者。敵にする手はありません。利用すべきです」
 ”岑陬”と呼ばれた男は、納得したように頷いた。
「彼は、何者だ?」
 駿は”堂邑のおっちゃん”に尋ねた。
「この方は、烏孫の王孫。岑陬だ」

「前に話したことがあっただろう?投降者で、匈奴のことを俺と親分に教えて貰った人がいたって。彼がそうだ。堂邑のおっちゃん」
 駿は、二人を有為とツルゲネの許に連れていくと、彼らを嬉しそうに紹介した。
 ”堂邑のおっちゃん”と呼ばれた彼は、駿の言葉に苦笑いを浮かべた。
 本名はカン。漢地では甘父もしくは、堂邑家に使えていたことから、堂邑父と呼ばれていた。”父”は、「おじさん」という感じで添えられていた言葉だ。
 かれを”おっちゃん”と親しげに呼ぶのは、この駿や衛青のように、数少ない人物であった。
「生きていてくれて、本当に良かったよ」
「俊々――いや、独生どのは、どうしてこんな所に」
「ああ、陛下の命で、張の兄貴を捜しに来たんだ」
「何ですと?」
「詳しく話せば長くなる。簡単に言えば、この有為が探索の旅に指名され、俺が、一緒に付いてきたってことさ。張の兄貴を捜すために」
「陛下は、まだ、張団長のことを……?」
「もちろん、必要としている。っていうより、親分の方が必要としているかもしれない。この間の秋、俺たちは匈奴と戦ったが、やはり、将が足りない。張の兄貴のような人物は、そうそう得られるもんじゃない。だから、俺は親分に代わって、ここまで探しに来たんだ」
「何と――!」
 堂邑父は、跪くといきなり涙を流し出した。
「おっちゃん?」
「独生どの、今、ここで私をお斬り下さい」
「どういう事だ?」
「月氏への使節団が、匈奴に捕らわれたのも、ひとえに私の責任なのです。今、全てをお話ししましょう。そして死を以て、その償いを……」
 堂邑父は匈奴の単于と内通していた。

 堂邑父は、月氏までの道案内として、使節団に加わった人物だ。それはもともと彼が匈奴人で、草原の地理に詳しかったからに他ならない。
 しかし、堂邑父は期待には添わなかった。
 彼は、匈奴の内訌に巻き込まれて漢に投降した人物だったが、漢での境遇にも満足できなかった。
 彼は、漢で奴婢同然の扱いを受け、堂邑という豪族の下働きに甘んじていた。不自由な身になるために、漢に降ったわけではないのに、現実はそうではなかった。
 堂邑と付き合いのあった衛青は、彼とも親しく付き合うようになった。そして彼を使節団の道案内に推薦した。しかし、結局、彼はその期待を裏切った。
 昔のように、自由に暮らせる身分と引き替えに、彼は使節団を単于に売ったのだ。
 行こうと思えば、裏道など、いくらでもあるし、匈奴はその民族柄として、買収にも簡単に応じる者が多かった。本当だったら、使節団は簡単に匈奴の領地を抜け出せるはずだったのだ。
 なのに、彼らは甘粛であっさりと捕まった。すべては、堂邑父の内通の仕業であった。
 一行の所持していた贓物は、全て没収され、使節団は単于庭に連行された。
 そこで彼らは、匈奴に投降するよう申し渡された。匈奴の強さの一つに、他民族を進んで登用するという面があった。特に文明の進んだ漢族を彼らは歓迎したのだ。
 だが、張騫はそれに従わなかった。
 怒った単于は、張騫を始めとする使節団員を、遙か北の北海(バイカル湖)に送った。
 北の果てにある、北海の冬の厳しさは想像を超える。初めての冬で、団員の半分は死んだ。
 生き残った者の多くは、その冬に恐れをなし、単于に忠誠を誓って南に移っていった。
 しかし張騫は従わず、ろくな装備も与えられないまま、もう一冬をその地で過ごした。
 単于は、彼の意志の強さに感服し、張騫を単于庭に呼び戻した。そして、彼に妻を与え、時間を掛けて自陣に取り込もうと画策したのである。
 しかし、張騫は最後まで単于に従おうとはしなかった。
 やがて、馬邑の事件が起き、漢との内通を恐れた単于は、彼を、遠く離れた西方、居延沢へ移したのだ。
「私は、この岑陬を、居延の張団長の下に送る途中だったのだ」
「どうして?」
 堂邑父は岑陬の顔を見た。岑陬は、漢語はほとんど解さないので、堂邑父に続けて説明するように命じた。
「烏孫は、漢との同盟を望んでいるのだ」

 烏孫とは、匈奴の西、イリ川周辺を支配地域とする騎馬民族国家である。一応、匈奴に服属はしているが、関係は良好ではなく、年に三度招集される首長会議にもほとんど顔を出すことはなかった。
 もともと烏孫は、月氏と共に敦厚周辺に居住しており、国自体も弱小であった。
 烏孫は、月氏に討たれ、部民は一旦、匈奴に逃れた。匈奴の庇護下、体勢を立て直した烏孫は昆莫こんびを王とし、積年の恨みを果たすべく月氏を討った。
 その時、月氏は既に匈奴に破られた後で、河西からイリ川方面へ逃れていた。
 さらに月氏は烏孫にも破られ、彼らはイリ川から、ガンダーラ北部、トカラまで逃れていった。
 月氏を破った烏孫は、そのままその地に止まり、そこを本拠とし、国も強大になっていった。
「その、昆莫王の孫が、この方です。名をグンシュビと申し、岑陬の位を賜っております」
「岑陬?」
「漢で言うと、王か、侯か…皇族が賜る位と同じような物ですね」
 そう聞いて、駿は納得したように頷いた。
「我ら烏孫は、強国になった今こそ、父祖の地に帰ることを望んでいる。だが、今、その地は匈奴の領土。帰るためにはまず匈奴を討たなくてはならない。聞くところに依ると、漢は共に匈奴を討つ相手を捜しているという。その相手に、我ら烏孫が名乗りを上げようということだ」
 グンシュビは駿に向かってそう言った。駿の語学力では半分理解するのがやっとであったが、横で堂邑父が通訳をしてくれた。
「それで、兄貴を匈奴から救い出し、漢との取り次ぎを頼もうとしたのか」
 堂邑父に言葉を訳して貰い、グンシュビは頷いた。
「でも、どうして堂邑のおっちゃんが、この岑陬殿下と行動を共にする事になったんだ?」
「それはな――」
 烏孫は、匈奴討伐の準備が整うまで、表向きは関係修復を装うことにした。
 グンシュビは烏孫の王太孫で、昆莫の跡を継いで烏孫王になる予定の人物だ。
 彼は年老いた王に代わって、一月の首長会に出席した。そして、単于家攣鞮(らんてい)氏から妻を娶ることにもなっており、今回の来朝でその話をまとめもした。
「一月!?今は四月になろうって所じゃないか?いくら何でも時間がかかりすぎるだろう?」
「確かに、五月にはもう、次の会が開かれるというのに」
 呆れた様子の駿に、グンシュビも苦笑しながら答えた。
 匈奴の首長会議は、一月、五月、九月の年三回、開かれていた。今時分であれば、五月の首長会のために、故国を出発したっておかしくない頃だ。それがまだ帰還の途にも付いていないとは。
「供の者はすでに帰国している。私は単騎残って、密かに匈奴領内を探っていたのだ。カンとはそうしているうちに出会った」
「密偵がやるようなことを、どうしてわざわざ王太孫が?」
「父の兄弟は十人以上いる。その中で、私は父の死後、無理矢理、王太孫になった。自分の地位を、確固たる物にするには、それなりのことをしなくてはならない。失敗して死んでも、代わりはいくらでもいるから、気に病むこともない」
 グンシュビは事も無げに言った。
「匈奴はもう大したことはない。討つなら今だ」
「何故、そう思う?」
「聖地の力も失せた。一月の会で、彼らは何をしたと思う?幼子の心臓を、公衆の面前で――」
 駿は、グンシュビに飛びかかって、彼の言葉を遮った。堂邑父に通訳して貰わなくても、彼の言おうとしていることは、簡単に解った。
「てめえ……」
 駿は、彼を押し倒しながら呟いた。
「それ以上、言ってみろ。今度は俺がきさまの心臓を切り裂いてやる」
 グンシュビは何が起こったか解らず、呆然と駿の顔を見つめた。
「――やっぱり俊々だな。その身の軽さは変わっていない」
 堂邑父は駿をグンシュビから引き離しながら、言った。
「岑陬。そこの女性は張団長の妻で、あの幼子の母親です。出来れば、これ以上、何も言わないでいただけませんか?」
 それから、堂邑父は駿の顔を見て言った。
「心臓を切り裂いてもらうのは、私ですよ。岑陬ではありません」
「おっちゃん……」
「全てをお話して、心残りはありません。あなた方が岑陬を団長の下にお連れしてください。それが、漢のためです」
 堂邑父は、自分のしたことを深く悔いていた。
 もともと、匈奴にいられなくなって漢に降った人間だ。しかし、その漢にも満足できずに、ふたたび匈奴に戻った。
 匈奴は目先の利益に敏感な民族である。それゆえ、堂邑父のしたことは、別段特別なことではなかった。二重の裏切り者である彼を、責め立てる者など、匈奴にはいなかった。
 彼を咎め立てたのは、他でもない、彼自身の良心だった。彼が、漢地で衛青たちと過ごした日々の中で培われた心だった。
 どんな辛酸を舐めようとも、単于に従うことのない張騫のことを、風の便りに聞く度に、彼の心が痛んだ。
 そして、去年の秋、衛青率いる漢軍が、匈奴領内深くまで攻め入ったときだ。
 衛青の軍は、女子供、年寄りなど、弱者には決して手を出さなかった。それは、匈奴軍では考えられないことであった。
 堂邑父は、衛青の義侠心に溢れた人柄を思い出した。彼から受けた、恩義の数々が思い出された。
 匈奴から逃れ、漢に降った頃は、彼の人生の中で一番大変だった時でもあった。その時に、親身になって、彼に救いの手をさしのべてくれたのは、まさしく衛青だった。
 使節団の案内役として自分を信頼してくれた張騫とともに、衛青を裏切った自分を、自分で許すことが出来なかった。
 張騫を救い出したら、自分は死んで二人に贖おうと考えていた。今ここで、衛青麾下の駿と出会ったのも、何かの運命だったのであろう。
 今、ここで自分は死ぬべきなのだと、堂邑父は感じていた。
「駿、どうする?らないのか?」
 二人の後ろから、ツルゲネが声を掛けた。彼女の手には、短剣が握られていた。
「お前がしないのなら、私がする」
 彼女は、掌で刃をぴたぴた叩いた。
「私の不幸の根源は、この男から始まってるらしいからな」
「だめだ」
 駿は、強い調子で彼女を諫めた。
「おっちゃんは、張団長の配下。俺は衛将軍の下にいる。おっちゃんに手を出したら、俺は軍律に違反することになる。だから、俺はおっちゃんに手を出すことは出来ない」
「つまらないことに縛られてるな」
 駿の言葉を、ツルゲネは鼻で笑った。
「それだけじゃない。これから先のことを考えれば、ここで、おっちゃんを失うことは得策じゃない。おっちゃんは弓の名手。匈奴に捕らわれている兄貴を救うには、おっちゃんの弓の腕が必要だ」
 ツルゲネは、冷たい視線を駿に投げかけると、くるっと短剣を一回転させて、鞘にしまい込んだ。
「独生どの……私を許してくれるのですか?」
 堂邑父は駿に訊いた。
「許すも何も、俺はそんな立場にはない。ただ、おっちゃんたちの助けが必要なだけだ。俺たち三人の中で、まともに戦えるのは俺だけ。この有為は戦士じゃない、別口なんだ。戦えるおっちゃんと岑陬がいてくれると、俺も心強い」
「そうですか」
「岑陬、最後の決定はお前だろう?どうする、手を組むか?」
 駿の言葉に、グンシュビも頷いた。
「私が欲しいのは、漢の後ろ盾。お前が漢の姻戚に連なる者であるなら、敵に回したら話にならない。漢に取りなしてくれる者であれば、是非とも協力しよう」
(張の兄貴が第一じゃなく、漢と繋がりたいだけか……)
 駿は、打算的なグンシュビの物言いに呆れもしたが、利に敏い騎馬民(かれら)のこと、いちいち気にしても仕方のないことだ。
(胡は胡か……)
 雪山で安期生が言ったことが、ふと、頭の中に蘇った。
「しかし、この広い草原で、このような出会いがあるとは……天の導きなのでしょうか」
 感慨深げに堂邑父が呟いた。
「違いますよ、これは安期先生の導きです」
 駿の後ろから、有為が答えた。
「安期先生が、全て私たちが出会うように、導いているのです。胡妻どのと会ったのも、岑陬どのと会ったのも、全ては」
 その時、甲高い笛の音のような音が天空に響いた。見上げると、いつぞやの白鷹が、大空を横切っていった。
 有為は、それを見て微笑むと、静かに頷いた。


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