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EUスペサル #4

☆ラヴ ジャンゴ

1910年にジプシーキャラバンで生まれた。
漂泊の生活が当たり前で両親もバイオリニスト、母親はダンサーと言う芸能一家に生まれたからか、最初はバンジョーに目覚めて12才でバンドデビューする❣️
1928年、18才の時に住まいのキャラバンワゴンが火事になりジャンゴも左手の薬指と小指をヤケドした。
ウイキペディアにはこの時ジャンゴは火を消そうとして指を負傷した…とあるが果たしてどうだか。
他の文献や解説書を小生もかなり読んできたがそのような記述にはお目にかかった事はなく、記述者の思い込みか英雄譚風願望の表れではないか?と思われる。
ウィキペディアや他のネット系用語集は誰が書いたか匿名性の特筆上、割とフィクションでもさも本当の事の如く書かれていることがなんと多いことか…ネットを妄信するなかれ。

さて、彼の経歴やヴァイオリ二ストのステファングラッペリとの長年にわたるチーム、フランスホットクラブ五重奏団に関してはそれこそウィキペディアをご参照のほどを。
こちらはほぼ信ぴょう性100%である。

ジャンゴの強烈なギタースタイルは唯一無比、誰が聴いてもジャンゴと判るものであり、いまではジャンゴのプレイスタイルをもってしてマニューイッシュスイング と言う音楽ジャンルがある程にまで広まった。

アメリカ人には出せないトレモロ重視で感情の赴くままに強拍と弱拍のメリハリを付けて演奏する。
どうしてこの様なスタイルが出来上がったかと言うと、ジャンゴの例の若き日の火事によるヤケドが原因だった。
最初はヤケドにより薬指と小指が炎の影響🔥により融接により溶けて一緒になってしまった。
事後、手術によって離したが指の歪曲は残った。
そこで普通は…おらもうダメだ〜
となるのだが、飽くまでポジティブで強気なのがジャンゴであった。
歪曲した指は弦を抑えるのに丁度よく尚且つ半端ない力が加わるので弦の鳴りも通常より強く鳴らせる、と言う事に気付いてしまったのである。
ジャンゴは余りアカデミックに音楽と向き合う人ではなく、殆ど直感でギターを弾いたのでジプシー魂と彼独特のフレーズは決して無関係ではない。
ジャンゴの奇行についてもウィキペディアには載っているが、戦後のアメリカにデュークエリントンに招致された時にVIP待遇で高級ホテルに部屋を取ってくれたにも関わらずジャンゴはジプシー魂からか、ホテルの中庭にテントを張りそこで寝泊まりした、と言う逸話が残っている。

ジャンゴのレコードは約千種あると言われているが、どの時代が一番のおすすめかは人それぞれだが、少なくとも永遠のスタンダードは1935年にアメリカから渡欧していたサックスの第一人者コールマンホーキンスとのセッションは殊更に影響を与えた。
中でもビッグバンドをバックにジャンゴの強烈なリズムギターで軽快にスイングする♫クレイジーリズム は後にハナ肇とクレイジーキャッツの十八番となり、テレビ番組「シャボン玉ホリデー」でも度々演奏され、お茶の間にも深く浸透した。
その元ネタとしてのこのレコードは忘れられない。
又、1943年録音の♫メロディ オゥ クレスプスキュール たそがれのメロディ はコンボとオーケストラバージョンの両方が楽しめる傑作だと思う。
これはオーケストラバージョンの方のオリヂナル盤を所持している小生のちょっとした自慢でもあるが、ユーチューブなどでは大抵この曲はコンボ演奏の方が取り上げられているがオーケストラアレンジは滅多になく、レア音源である。
80年代に20枚組のジャンゴの集大成LPがが東芝EMIからリリースされたが著作権の問題からかここでも僅かワンコーラスしか復刻されなかった曰く付きの名盤である。

あとはチャーリーパーカーの傑作オリヂナル盤を多く輩出した戦後すぐのダイアルレコードからも10インチビニールLPがリリースされ、

この為のセッションで長年のコンビであったステファングラッペリも入ってない編成で貴重なセッションだし、その後ノーマングランツがスーパーヴァイズした1947と1953年、死の直前にパリで吹きこまれたセッションは聴きものである。

そして、本日は第二次大戦中に故郷ベルギーで録音されたメロディアスな♫シール セ ソイア
を拝聴されたい。
アコースティックギターなのにエレキギター🎸の様に聞こえるジャンゴならではの超絶のギタープレイを週末のたそがれ時にどうぞ。

本日も最後まで読んで頂きありがとう存知ます😊

https://youtu.be/To4CuGkpCV8

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