映画「カラーパープル」観た(ネタバレあり辛口意見あり)

ミュージカルがダイスキなので、上演中に一回は見てみたいと思っていた。でもあっと言う間に上演時間が少なくなるのね。たまたま今日は時間が取れたので18:00からの回を見てきた。

歌唱とダンスは予想を上回るすごさだった。群舞の迫力、ザ・ミュージカル!っていう感じの振付。
主人公セリ―の義理の息子ハーポが家を作る場面でのダンス、全員が横ながの板を持ち、それを軸にひらひらとまるで重さが消えた如く踊り、あるときは体を板に合わせて反転し釘を打つしぐさ(?)をしたりの、男性だけのユニゾンは本当にかっこよかった。

女性チームは、洗濯板でみんなで洗濯をしながら踊る振りが良かったぁ。川の水しぶきを蹴りながらのダンスは労働を美しく謳いあげているようでもあった。

前後するけど、セリ―を中心に、両脇を男性チームが囲んで鍬を持ち、畑を耕すダンス。ユニゾンでの鍬を振り下ろす振りを見たら自動的にレミゼラブルの冒頭(旧バージョン)を思い出したよ。
ハーポの酒場でのシーンはドレスアップした男たちが体の柔らかさを存分に見せるダンスで決めていた。キレキレなダンスシーンはどれも見応えあった。
歌唱も、主人公セリ―の声は少しハスキーな高音がとてもすてきだった。ほかの方もそれぞれ魅力あった。なんでもスピルバーグ監督時のセリーはウーピー・ゴールドバーグだったそうで、それはぜひ見て見たい・聴いてみたいセリーだなぁ、と思った。

こんな感じで、歌とダンスはとても良かったんですが、(ここから辛口だよ)、、、、ストーリーがあまりにも暗い衝撃作で。
この物語(原作は小説らしい)をなぜミュージカルというイレモノにいれようと思ったのか、私には理解不明…。

どんなに美しい歌声、迫力あるダンスだったとしても、内容は1901年から1947年までの、アメリカ南部の黒人社会を扱った話で、長い間奴隷として虐げられた歴史を持つ彼らは、奴隷制が廃止されたあとはある意味無法地帯のなかにいる。男は女を差別し虐げ奴隷のように扱い、そしてその黒人社会そのものを束ね、差別するのは、結局白人たちなのだ。
被支配者が支配者となるときの無法地帯が、このミュージカルの世界であると思った。

主人公セリーは、父親に性的虐待をされ続け、十四歳で既に父親の子どもを二人産んでいる。二人とも生まれてすぐセリーから離され、行方は知らされない。そしてある日ふらっと街にやってきた(ように見える)ミスターと呼ばれる男によって、セリーはモノみたいにミスターと結婚させられる。
セリーを家から出すときの父親の台詞「あいつは顔はブスだが男並みに働くぞ」(←一回しか見ていないので正確には覚えていないです)と言われて家を出るけれども、馬に乗ってきたミスターは徒歩の彼女を全く顧みず進んでいく。彼女はその後ろを遅れまいと必死に歩いてついてゆく。
男の家に行ったら、いきなり三人子どもがいて、家のなかはぐっちゃぐちゃ、「掃除して晩飯作れ」と言われてそのとおりにした彼女は、その最初の晩に全員が揃った食卓でいきなり体が吹っ飛ぶほど殴られる。まるで家族に彼女の奴隷としての地位をみせつけるかのように。

そのあとも、飯の支度が遅いといってはせっかく作ったご飯の彼女の皿だけを床に叩き落とし、殴る。で、「掃除しとけ」。

…ってもう何様なんだこの男は。
そういう時代と女性がこんなふうに性的にも身体的にも虐待を受け差別された時代があったのだといいたいのは分かる。別に黒人に限らず、白人のなかでもこんなことがあったことも知ってるつもりだ。
だけれども、コレ、ミュージカルにする必要あるか?
…と、観ながら根本的なところに戻ってしまった私だった。

泣くばかりのセリーとは違い、主張し闘うことをやめないソフィア。勝気な彼女もまた、市長夫人(白人)に逆らうと、すぐに警官がやってきてボコボコにされた上になんと6年も刑務所に入ることになる。

もう一人の重要人物、この街の出身者で歌手として成功したシュグ。彼女は元彼のミスターの家で暮らすようになる。だけれども、セリーは彼女に言うのだった。
「行かないで。シュグがいなくなれば、ミスターは私を殴る」と。
なんていう環境だ。
ちょっと前に話題になった、実話をもとにして作られた映画『プレシャス』を思い出した。これも、母親からの暴力とあらゆる悪意をぶつけられる少女プレシャスは、父親と、母親が連れ込む義理の父によって性的虐待を受け続け、既に子どもが二人いる。酷い話だ。

こういう話は当然アメリカだけにとどまらず日本でも勿論あり、その社会問題から目を逸らすことは良くないことで、何も力になれなくても知っておくことが出来るはずだ、と常々思っていることではあるのだが、とにかく、私、絶対に仕返しできないと分かっている相手(力の弱い女性や少女、少年)に虐待するという話が大嫌いで。三面記事ダイスキな私なんだけれども、この問題にだけは、目を覆いたくなってしまうのです。

というわけで、ミュージカルとしては素晴らしいけれども、それとこの残酷極まりないストーリーとの狭間で苦しんだ二時間ちょっとでした。
大詰めでいきなり主人公が事業で成功するというのも、薄幸の女性がちょっと土を掘ったら温泉湧いて出てきた、或いは油田に突き当たったぐらいの唐突感があり、リアリティに欠けるラストだと思わざるを得なかった。

冒頭から美しい自然や森や木々が風にそよぐ美しい風景を描いているけれども、場所が移動しているはずなのに、全部同じ村のなかで起こっているように私には見えた。(セリーが出した店の場所も、ミスターの家の近所のような錯覚に陥った。)

で、帰宅してちょうどケーブルで放送していた『剣客商売』で、秋山小兵衛が41歳年下の妻・おはると普通の会話をしていたり、彼が普通に女性に優しいのを見て、心の底からホッとした。そのくらいアレは酷い話だった。

とはいえ、いくら乱暴され酷い目に遭っているといえども、暴力夫の父が家に来たときに出す水のコップに唾を吐き、更に指を入れてかき回したものを何食わぬ顔で出すセリーもまた怖かった。
それを一気に飲み干した義父を、彼女は物陰でにやりと笑うのだけれども、してやったりという笑みなのだろうか、それともまた、そのくらいしか復讐の手立てがない彼女の不遇を思うところなのだろうか?もし前者の場合だと、会社員だったときに、まさに給湯室で先輩女性社員が濡れ雑巾を絞って上司のお茶に入れたのを目撃したことがあり、そのときに居た女性社員達はみんなセリーみたいな目をしていたけど、なんか虚しさしか感じなかったな。

セリーという人物のいろんな面(聖母のように心が美しく、自信がなく弱いという人間性だけでなく)を見せることが目的であるならば、もうちょっと品性のあることしませんか? それこそここは映画で、作りごとの世界なのだから。虐待の酷さやそれを甘んじて受けるしかない境遇はたしかに憐憫の情が沸く場面ではあるけれども、こういうやり方は嫌だな、と、なんというか生理的に受け付けないと思ったのであります。

こういうの、人種の違いなのかなぁ。
ダンスと歌によって、自らの置かれた不当で厳しい現実を表現することは制作プランに入っていなかったのだろうか。
たとえば『レミゼラブル』のように。
この作品の主人公は嬉しいときの歌しか歌っていない。(と思う)

というわけで、おひとりさま平日のあの時間帯に映画館に居るのは、とてもとても贅沢な時間を過ごしてきたという満足感とともに、もやっとしたものも持ち帰った今晩なのでした…。

おわり~


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