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方言と東京弁と外国語と

地元の方言ではなく、いわゆる東京弁を話していると、なんとなく素に蓋をされているような、そんな感覚に陥る。

言葉尻がなんとなく、気合いを入れないといけないというか、気分を上げなければいけないというか。

敬語を使う分には、方言でも東京弁でも変わりないのでそんな感じは全くしない。タメ口で話をする場合だけ、このもどかしさに襲われる。

タメ口で話ができる仲であるからこそ、もっと素を出して語り合いたいのに、慣れない言葉で話す自分と、それを俯瞰する自分との間に摩擦が生じて、伝えたいことを伝えているはずなのに、何かが引っかかる。

大げさに言えば、方言で話す主格の自分と、東京弁を操るまた別の人格の自分がいる感じ。

なぜこんな感覚が生まれるのだろうか。
生まれてから長い間囲まれて来たいわゆる自分の「母語」(=方言)と、それと共通の部分を持ちつつ、部分的に修正が必要な修飾言語(=東京弁)。この母語をベースに修飾言語を使うという、言葉間で無意識に行われている「修正」という作業が、この感覚を生み出しているのではないだろうか。

自然と口をついて出てくるものを、一旦止めて修正をして外に出すという、時間にして0.01秒にもならないこのワンクッションが、「何か引っかかった感じ」を生成している気がする。

一方で面白いのは、外国語で話しているときは、不思議とこの現象は起こらないこと。自分の考えていることが他の言語でうまく伝わるか、という別のもどかしさはあれど、外国語を話す自分は方言で話す自分と変わりない。

これは、外国語が自分の「母語」を修正して話している言葉ではなく、全くもって別物だからだろう。だからもしかすると、その外国語の方言を話し出せたりすると、また同じことを感じるのかもしれない。

詰まるところ、この一瞬の修正作業に違和感を覚えないくらい、その言葉を習得してしまえば、自然に言葉が出てきて、引っかかりと「なんか素の私じゃない」感を覚えることはなくなるんじゃないだろうか。

そこの言葉を習得して素が出せるくらいまで、たくさんで濃厚なコミュニケーションを人と取りたいものだ。

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