見出し画像

「社畜」は他人に対するレッテルじゃない

「社畜 とは」で検索すると、会社に飼い慣らされた会社員を揶揄する言葉、という意味が出てくる。

つまり客観的な人への意味づけとして、「社畜」という言葉が使われているということだ。

個人的に、他人に対して「社畜」という名称を与えるのは失礼なことなんじゃないかと思う。

事実、プライベートを省みず、もしくは省みることができず、長時間労働、サービス残業、断れない人事異動・転勤、それらに対して意義を唱えない人たちはいる。

しかしながらそういう人たちに対して、「あんた本当に社畜だよね(笑)」というのは、間違っていると思うのだ。

なぜならそこには「そんな場所から抜け出せないあんたはダメなやつ」という他人を見下した意味が込められているから。

抜け出せない理由だって、色々ある。

家族だったり、金銭面だったり、違う方向に舵を切るのが不安すぎたり。

特にレールから外れることが良しとされない中で育ってきたならば、これで安泰、とされてきた選択が間違っていたと認めて違う道を探す、というプロセス自体のハードルが高いはずだ。

ここにいるのは本意じゃないけれど、抜け出せない、どうやって抜け出していいかわからない人たちに対して、その背景を理解せず、「社畜」という言葉で形容して冷ややかな視線を向けるのは、ただの無差別な攻撃でしかない。

だから、そういう他人を蔑む意味での「社畜」という言葉の使われ方にはどうしても違和感がある。

じゃあいつ使うのかという話だけど、私の中で「社畜」というのは、自らを称して使う言葉。

あくまで「会社に飼いならされている」というマインドを自覚できるのは自分であって、他人が決めることではない。

もちろん前述のような労働条件を肯定しているのではない。雇う側が雇われる搾取するパワーバランスなんて許容されていい訳はない。

だから個人的な願いとしては、自らを「社畜」と称しているのは一時的なことであってほしい。

それぞれにはそれぞれのバックグラウンドがある。その状態をどうするか、その会社を辞めるのか、直談判するのか、そう自称してしまう部分をうまく消化するすべを見つけるのか、結論はどうであれ、自分の中で納得いく落としどころを見つけるが一番なのではないだろうか。

「社畜」というキャッチーな響きは煽る言葉として消費されがちだけれど、その定義のターゲットを他人としての使われ方は、見直されるべきだとわたしは思う。

いただいたサポートは、小躍りしながらオランダで魚を手に入れるための資金にさせていただきます。ありがとうございます!