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「私の越境日記」をテーマに、noteを始めました。


なぜ急に・・・?

いきなりですが、私と面識がある方、周如意ってどんな人ですか?を聞かれたらなんと答えますか(笑)?前向きに捉えていただける方からはポジティブ?活動的?グローバル?面白い?といった有難い評価をいただけるかもしれません。実は私自身も、(株) WeGlobalを創業して2年半、自社の人材事業の基盤づくりを始め、起業家としても多くのチャレンジをさせてもらいました。新たなステージに向けて、会社のメンバーとミッション/ビジョン/バリューを再策定している中で、自分は誰で、誰のために何をしたいのかを改めて深く考えるきっかけをもらえました。よって、自分のnoteをつくることで、自身の「越境的な」経験や価値観の変遷を記録し、皆さんに共有できたらと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

越境とは

これまでは「Be Global, Be Yourself」というグローバルなビジョンを掲げて事業し、生きていきました。クロスボーダーや越境というキーワードが自分の中で強く出てきたのはこの1年くらいのことです。自分が表現したいグローバルをさらに言語化した際に、決して言語や海外経験だけでは説明できない、オープンなマインドセットで枠を飛び越えて逆境に負けずに生きる姿勢が見えてきました。この「越境」的なマインドこそ、現在、私たち一人ひとりのキャリア開発そして組織 (会社の事業)の発展にとって大事な要素ではないかと考え、フォーカスすることにしました。

私たちが仕事する中では、実は様々な越境を経験しています。大きい越境ですと、部署移動などで全然違う仕事を任される、大手企業からスタートアップ企業に転職して違う組織形態で仕事をすること、海外で異文化のなかで仕事をする経験、独立してフリーランスや起業をする経験などです。小さい越境ですと、今までと違うクライアントを任されたり、違う人と一緒に働いたり、会話したりすることも立派な越境経験です。

私の越境人生ストーリー

振り返ってみると、
私はこれまでの人生で受身的に、または積極的に越境してきました。

1994年中国福建省で生まれ、上に兄二人いまして、末っ子の長女として両親の元に誕生しました。好奇心の向くまま、年齢、性別関係なく周りと遊んだり、活発に動く子供でした。

国境 (言語や文化) を跨ぐ越境

12歳に中学校に入ったタイミングで親の都合で来日し、私の意思によらない受身的な越境 (中国から日本へ国境を跨ぐ越境)をしました。当時は日本に来たことがない、もちろん日本語は一言も話せない、公立中学校に転校したため日本語での授業も分からない、友達もいない状況でした。それまでは中国の学校で人気者扱いされて、勉強もできたのに、急に、逆境になったどころか絶望的な環境に置かれた気分でした。どん底にいた自分が努力する以外頼れる人・ものはないと思って、そこから周りと同じスタートラインに立つまで約2年間かけて日本語の習得→学校の授業について行きました。おかげさまで、幸運なことに県立高校の一般受験、そして筑波大学の一般受験を経て無事に進学し、教育上のハンディキャップを乗り越えることができました。

「第二の言語を話せる」から「異文化を完全に理解し、尊重し、受け入れられる」状態までさらに10年間かかりました。それまではちょっとずつ喜びあり苦しみありの文化的な越境体験や経験を経て、自分のクロスカルチャーな人格を形成していきました。25歳の時に、シンガポール転職の機会を得て、初めて中国、日本以外で第三国で暮らし仕事をしました(それまでは短期的な海外旅行など)。第三文化からの視点を得たときに、私は完璧な国がないこと、完璧な文化もないことに腑に落ち、よりフラットに自身のルーツを受け入れ、自分と異なる文化を持つ方々をリスペクトできるようになりました。

私みたいに不本意に日本に来てもがいてきた人たち、あるいは自身の意志で留学/仕事しにきた人たち、そして日本から海外へ自身の意思で留学/仕事し、帰国された人たちなど、皆さんは越境的に自分の人生に向き合い、勇気を持って強くかつ柔軟に生きてきたのではないかと思います。

専門領域・キャリアの越境

大学では筑波大学医学群医療科学類で勉強しました。生命科学や医療という世界への知的好奇心と探究心があり、生命の尊さについて学ぶことができました。臨床分野では臨床検査技師の国家資格を取得し、基礎研究分野では解剖学・発生学研究室で遺伝子改変マウスを使ってインシュリン産生細胞に関わる遺伝子の発現について研究し、卒業論文を書きました。大学卒業後の進路は医療専門家でも進学して研究者でも選ばず、当時自分の周りではマイナーである、企業就職へ越境しました。将来的にビジネス・経営に関わりたいと思ったのと、1つの特定領域の専門家を極める道は自分よりも得意な人がたくさんいるだろうなあと感じたからです。そして、新卒で就職したのが、日本の大手医療機器メーカーで、よくある総合職のガチャで、行ったこともない大阪配属になり、望んでもいないカテーテルの営業(MR)職として、また受身的越境をすることになりました。「営業をやっているんだ」と驚かれるんですが、いざ自分で起業をしてみると営業スキル・対人スキルはめちゃくちゃ大事(逆に営業ができないと生き残れない)で、あの時の苦しい越境経験は学びが多かったなあと思います。

その後、社会人3年目で、シンガポールに転職する機会に恵まれ、医療・ヘルスケア業界から完全に外れ、日本とシンガポールおよびASEANをつなぐクロスボーダー人材コンサルタントとなりました。異国の地で新しい業界で新しい仕事を始める、そして主要言語は英語、越境づくしの経験で身体中の細胞が刺激された気分でした。そして、日本に再度戻った後も、シンガポールでの人材領域の経験を切り口として、独立・起業をし、今に至ります。

日本では、1つのことを人生を通してやり通すことを称賛する文化があると思います。職人さんや技術者、1つの会社に長く勤める方々。専門性を持つことの重要性に関して私も同意しています。しかし、テクノロジーの発展により、これからの時代は単一のスキルや専門性は今まで通りに活躍できるとは限りません。むしろ、専門性の掛け算により多角的な視野を得られたり、そしてある領域の専門家が違う領域に飛び込んだときに、新たに価値を生み出すことができるのではないかと考えます。異なる業界や職種、そして独立や起業など新しい働き方に積極的にリスクをとってチャレンジし、レールから外れる選択をしている皆さんは、越境キャリアの先駆者であり、社会的に皆さんのチャレンジをもっと前向きに評価すべきのではないでしょうか。

人生は越境の連続である

 私は今年30歳になりました。いろんな人に応援されながら心配されながら、20代は無茶なことを含めて沢山チャレンジしてきました。自分の中では、まだ短い人生ではありますが、山あり谷ありで、自分なりに悩んで枠を広げてきました。30代はもうちょっと落ち着きたいところですが、自分にできる挑戦そして自分より若い世代に与えられる挑戦をしていきたいと思います。変化が早い世の中だからこそ、そして成熟した社会システムだからこそ、個のキャリアや生き方、組織のあり方や組織間のコラボレーションなど、柔軟に越境して出会い、学び合い、共創し合える社会にしていきたいです。起業家や専門家があるなら、「越境家」もこれから肩書きとしてあってもいいんじゃないでしょうか?少なくとも、私はそう呼ばれてみたいです(笑)。越境を前向きに面白く捉え、越境し合って、新たな可能性や価値を創造していきましょう。


最後まで読んでいただきありがとうございます!
この越境日記は私自身の越境備忘録や日々感じていることを共有しています。
Next noteもお楽しみに!

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