見出し画像

僕がフェンシング協会の英語基準にポジティブな理由

冒頭

先日こんなニュースを目にした。代表選考にあたって英語の試験を実施し、基準に至らなければ、実力が上位でも代表に選出しないというものだ。この出来事に対してTwitterなどで賛否両論の議論が巻き起こっている。そんな議論を見つつ、僕はこの制度をポジティブにとらえている。(=賛成である)一スポーツ関係者として僕がこの制度に対してなぜ思ったのかを書きたい。

『Athlete Future First』

まず、『Athlete Future First』という言葉。この言葉は非常に秀逸だと思う。今までスポーツ界では選手のセカンドキャリアやデュアルキャリアなどの話がかなりされてきたと思うが、ここまでシンプルに新しい概念を表せた言葉はないのではないか。従来の『Athlete First』はいわば選手の競技力向上を考えの中心におく概念。これはNFや選手あるいは市井の人々が選手に対する評価を競技の結果のみで測っていたことの証左だと思う。それに対して今回太田会長が打ち出したのは『Athlete Future First』。NFとして「競技力だけでなく、他の能力も伸ばして社会により多くの文脈で貢献できる選手を育成しますよ」ということの決意を表した言葉だろう。それが選手のためになる、本当の『Athlete First』になる、という太田会長の強い想いが読み取れ、きっとご自身の経験から深く感じられていたことなのだろうと推察する。同じことを感じていた人がいたとしてもここまでシンプルにかつ明確にまとめられた言葉は見たことがない。そういった点で、まずこの『Athlete Future First』という概念を打ち出したことに対してポジティブに思っている。

競技力以外の軸をつくること

次に、代表選考において競技力以外の軸を設けることの是非についてだが、ここは個人的にもかなり迷った。結論としては、僕は競技力以外の軸があってもいいと思っている。なぜなら、NFによって何を重点に置くかは異なってもいいからだ。普及・強化・育成にバランスよく重点を置くようなサッカーもあれば、強化・育成を強めに重点を置く卓球やフィギュアもある。代表選手はいわばその競技の看板。その看板となる人にどんな能力を持っていてほしいかはNFによって異なっていてもいいと思う。『代表=競技力トップの集団』という考え方だけではないと思う。もし普及にめちゃくちゃ重点を置くNFがあるとしたら、最悪競技大会でボロ負けしようが、普及に影響力のある選手を代表に選出すればいい。「NFはメダル獲得=選手の競技力向上に最も重点を置くべき」「選手は競技力向上に尽くすべき」という考え方が前提に来てしまっていることを認識する必要があると思う。そうじゃない考え方があってもいいのではないか。

一方で「NFは国内唯一の統括組織だから就活と違って~云々」という意見があることも理解できなくはない。ただこれも考えようかなと思っていて、同じスポーツをやっている人でも、みんながみんな代表選手になるわけじゃないでしょと。代表選手を目指す人たちはそういう選択をしているのであって、そこは就活で「○○会社に就職したい」といっているのと似たようなものではないかと感じる。あとは、前述したが、「NFは競技のみに集中すべき」『代表=競技力トップの集団』というような無意識的なとらえ方が影響していると思う。もし、とあるNFが選手育成について話すとき、「この競技で競技力トップの選手を育成する」ではなく「社会に貢献できる選手を育成する」に重点を置くというのであれば、それに基づいた代表選考がNF内の適切な手続きを経て決められている限り否定はできないだろう。もし本当に嫌なほど反対、もしくは本当におかしいと思うほど反対ならば、その競技の選手・指導者ら関係者、市井の人々が束になって意見書を提出するか、ボイコットすればいいし、次期会長選で太田会長を落とすか当人が会長になればいい。

何度もいうように、NFがどこに重点を置こうがそれは自由だ。現に世の中のNFが置く重点はそれぞれ異なっている。後述するが、競技力に最も重点を置くNFにも、競技力以外の軸は絶対に存在する。そうじゃないと競技力が同じとき代表を選出できないし、仮に競技力が少し上の選手がいたとしても、世の中への影響力も考えて競技力が少し劣った選手を選出することも十分にあると思うからだ。単にそれらの軸を公表していないだけで、どのNFも持っているはず。

パートナーとの商売?

それと、英語力だけ伸ばしたって代表に選出されるわけではない。もちろん競技力を伴わないと代表には選出されないのであって、100と0の話ではない。あと、英語力向上が競技力向上につながる可能性は十分にある。指導者が海外の人の可能性も高いからだ。加えて、太田会長は「一定の基準」といっているが、それが絶対的な基準なのか相対的な基準なのかは明言していないことも頭に入れておく必要がある。パートナー企業との関係に関する言及も少し僕の認識とは異なる。「商売に従う」というか、NFとしてお金を集めたいのは当たり前でそのためにパートナー企業を募るものだし、『Athlete Future First』で選手の将来に重点を置きたいフェンシング協会とベネッセの提供する英語教育のコンテンツが合致しただけだと思う。(もし裏に黒い取引があるならば話は別だが。)このパートナーシップの結果、フェンシング協会にお金が入るのであれば、それは選手にとってもいいことだし、NFとしても国からの補助金頼り体質から抜け出すことにつながるし、いい一歩だと思うけどなあ。

国からの税金云々とNFの存在意義について

そして、「税金が投入されているから~云々」についてだが、もし本当に国が今後も「メダル獲得、すなわち、競技の結果」を期待して、税金をNFに投入するならば、それにそぐわない方針を打ち出したフェンシング協会に税金を投入しなければいい話だと思う。あと、前段落と少し重なるが、世の中のすべてのNFが「メダル獲得」を重点に置かなければならない理由はない。仮にメダル獲得=競技の結果を目的に据えていたとすれば、代表に競技力以外の軸を設けることには違和感はあるが、フェンシング協会は違う。なぜなら、太田会長は「選手の未来」に重点を置いているからだ。日本のスポーツのとらえ方が偏っていることを感じざるを得ない。なぜ競技力向上のみに目がいってしまうのか。なぜメダルを獲ることがNFの存在意義だとおもってしまうのか。その認識から変えていかないとダメなんだなと痛感している。

競技力以外の軸と英語軸の基準について

あと、正直競技力以外にどんな軸を設けるかはどうでもいい。英語の基準を設けるのであれば、英語のテストの種類はGTECでもTOEICでもTOEFLでもどうだっていいし、その基準の高さもどうだっていい。NFによって重点を置いているところは異なるのでNFに任せる。英語じゃない軸をつくるとしたら、最悪顔でもいい。メダル獲得=競技の結果に最も重点を置くNFでも、普及に置く重点の程度によって、「競技力:5/顔:7」の選手と「競技力:6/顔:3」の選手がいたときに、前者を代表に選出する可能性があるからだ。顔でなくとも、競技力以外の軸もみて代表を選考しているNFなんかざらにあるだろう。それを公に公表していないだけだ。そういう意味でも選考のひとつの軸を公に明らかにしたフェンシング協会は進んでいるといえるだろう。絶対基準になるのか相対基準になるのかは興味深いところだが。(公表されないかもしれないが。)

終わりに

ここまで僕がフェンシング協会の英語基準にポジティブな理由を書いてきた。勢いに任せて書いた文章なのでまとまりがないが、皆さんと議論がしたい。もちろん僕が持っている以外の視点を持っている方がいたら指摘してほしいし、「いや、~~だから、それはおかしいんじゃないか?」ということがあれば言ってほしい。ご意見お待ちしております。

もしサポートしていただけるのなら泣いて喜びます。。。