あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」中止(2)──2017年一橋大学百田尚樹講演会事件との共通点

今回のあいちトリエンナーレ展示中止事件は、2017年の一橋大学百田尚樹講演会事件と極めてよく似ています。

一橋大学百田尚樹講演会事件は、じつは今だ解決されていません。2017年6月2日に実行委が中止を決定したことに激怒した百田尚樹氏は、その腹いせになんと、私が一橋の学生を脅迫したというデマを流し続け、その結果常軌を逸した差別煽動が私や一橋大の留学生・マイノリティに殺到したからです。(そのデマは、『週刊新潮』やデイリー新潮や『VOICE』や外国人特派員記者クラブでの会見やそのユーチューブでの映像やツイッターなどで拡散され、いまも拡散され続けています。明らかな名誉棄損なのにマスコミは誰も取材してくれないのですが…。デマについては下記記事をご参照ください)。

マンキューソ准教授を放置する一橋大学問題で多忙ですが、この件は、一つだけ声を大にして言いたいです。つまり、(目次の後に続く)

あいちトリエンナーレ展示中止事件は、一橋大学百田尚樹講演会事件からキチンと社会的教訓を学ばなかったから起きている人災である

ということです。

あいちトリエンナーレ展示中止事件の推移をみていて、むしろ本当の恐ろしいことは今後起きるだろうという確信をもちました。百田尚樹講演会事件と同じだからです。

今日はまず、あいちトリエンナーレ展示中止事件と一橋百田尚樹事件の共通点がなんであるかを書いておきます。そして最も懸念することについて書きます。次回以降、その解説を書くことにします。

※前回記事はこちらです。

2019年あいちトリエンナーレ展示中止と2017年一橋百田尚樹講演会事件の共通点

両者の重要な共通点を挙げておきます。

1.両者とも、差別煽動が「表現の自由」を危機に晒す事件である。つまり「表現の自由」を危機に晒しているのが、一般的な抗議などではなく、人種差別撤廃条約に違反する政治家や著名人による差別煽動である(それによる極右テロリズムやヘイトクライムや差別や犯罪の組織化によって「表現の自由」が危機に晒されている)。

2.両者とも、差別禁止(ルール制定と徹底)こそが表現の自由を守るという(世界人権宣言や人種差別撤廃条約以来の)国際常識が、主催者・国・自治体など関係者に全く理解されていないために起きた人災である(つまり差別反対と表現の自由は対立すると誤って考えられていて、形式的に表現の自由を絶対視してしまっているための人災)。

3.両者とも、愛知県(あいちトリエンナーレ)と一橋大学(国立大学法人)という自治体・国立大学が主催あるいは会場使用に関与している。したがって人種差別撤廃条約を履行する義務を負った自治体・国立大学が差別禁止の論理で極右の差別煽動に明確な反対の意思を示し、極右の差別煽動から主催者や来場者の安全を確保すべき責任があったのに、その責任を放棄ないしは履行しなかったために起きた人災である。

4.両者とも、差別煽動を仕掛ける極右の側の攻撃は、ある基本となるシンプルな「差別煽動ストーリー」(一橋百田事件の時は、「①梁英聖という反日朝鮮人が、②無垢な学生を脅迫し、③「言論弾圧」を行った、というデマ)をでっち上げ、それにすべてを落とし込む形で差別とフェイクを使い、SNSやヘイト雑誌書籍を駆使した組織的プロパガンダで勝負してくる。つまりどんなに主催者や被害者が丁寧に反論・説明したところで、極右の側は馬耳東風でノーダメージであるどころか、それらを用意した「差別煽動ストーリー」にフェイクと差別を交えて組み込んで新たな差別煽動ネタにする。したがって説明や反論ではなく、差別禁止という正義に立脚し、差別煽動そのものの異常性・非人間性を可視化するやり方で対抗しなければならない。

5.両者とも、最も深刻な被害者は主催者ではなく(イベントに無関係な)マイノリティである(百田事件では私や一橋の留学生や一般のマイノリティが差別煽動によって被害に遭った。あいちトリエンナーレ展示中止事件でも、元日本軍「慰安婦」被害者だけでなく、たとえば性暴力被害者一般や性差別被害に遭う女性にも性差別煽動の被害が及んでいる)。

6.両者とも、外野の「表現の自由を守れ」という形式的な擁護論は、被害を防止する上でも、加害を抑制する上でも、ほぼ何の役にも立たない(そればかりか、現状では極右の差別煽動のレイシストの主張とそれに反対するマイノリティの主張をも、全く等価な、憲法が保護すべき「思想」に還元する悪しき機能を担う)。

そして、私が最も恐れていることは次の点です。

このまま極右の差別煽動に断固反対できなければ、あいちトリエンナーレ展示中止事件は美術展終了後も、何年にもわたり差別煽動を過激化させる可能性が高い。

7.そして2017年一橋大学百田尚樹講演会事件の場合、むしろ6月2日の中止決定以降に攻撃が激化し、しかも学祭終了後も、一橋大学が明確なデマ否定や差別反対をしないがゆえに、百田尚樹らの差別煽動や愛国ビジネスのネタとして何年も使われ、攻撃が継続した。したがってあいちトリエンナーレ展示中止事件も、このまま愛知県や国がデマ否定や差別反対そして極右テロリズムへの断固とした姿勢を見せない場合は、美術展終了後もずっと差別煽動のネタ(極右の一大勝利事例としての2014年朝日新聞謝罪と同じように)として繰り返し参照され、差別煽動が何年も(もしかしたら10何年も)継続する可能性が高い。たとえば津田大介さんや大村県知事や参加アーティストはじめ関係者へのフェイクが何年も続くというだけでない。上述のセクシズムやレイシズムが煽動されるだけでなく、特に日本軍「慰安婦」問題に取り組む個人・団体(たとえばwamにすでに杉田水脈から攻撃が再開している)に深刻な差別煽動が及ぶだろう。

この7点目は美術展が終わっていないので、もちろん予測です。

しかし一橋大百田尚樹講演会事件を生身で体験した(しかもマンキューソ准教授から攻撃され、リベラル教員の無理解に悩みながら)立場からすると、上のような共通点が十二分にクリアにみえます。

上に挙げた点は、それじたいが教訓なのです。しかし一橋大学のリベラル教員はじめ知識人の多くは2017年百田尚樹講演会事件であれほど問われた問題を深く批判的に検討することをサボったのです。一橋大学のリベラル教員の多くは「中止」に安堵する、という態度をとり、真の問題が中止後の差別煽動の脅威をどうするかという問題も、あるいはそもそもマンキューソ准教授を放置していた一橋大学だからこそアウティング自死事件や百田尚樹講演会事件を引き起こしたのではないのかという問題も、深めなかったのです。

インテリだけではありません。マスコミはおろか、理解あるジャーナリズムもまた、2017年6月当時なぜ百田尚樹講演会事件をキチンと扱おうとしませんでした。みんな「中止」されてよかったね、という態度か、形式的に「表現の自由」と差別をどう考えるべきか?という問いを立ててお茶を濁すという態度でした(例外的に冒頭の記事はキチンと報じてくれました)。

一橋大学の教員が足元の差別にもっと真剣に向き合い、マスコミやジャーナリズムがきちんと取り上げてくれれば、今回のあいちトリエンナーレ展示中止事件も違った対応になったのではないかと思わずにいられません。

(ただし、他方で2017年百田尚樹事件やマンキューソ准教授問題と直面することで、実践上ほんとうに重要な問題とは何であるかを、自分たちで考えぬくクセをARICは培うことができました。欧米理論の輸入屋さんになっていて足元のマンキューソ准教授の差別さえどうしたらいいか対案を出せない理論家に見切りをつけて、社会運動と切り結んで練り上げられた外国の反差別理論を参照軸にすることで、突破口を開くことができたのです。来年刊行をめざし急ピッチでARIC若手研究者で翻訳をすすめている米国批判的人種理論の古典であるマリ・マツダらの『傷つける言葉』(仮)は、じつはマンキューソ准教授や差別と闘わないリベラル教員に対処する時の重要な参照軸です)

長くなったのでこの辺で。

あいちトリエンナーレ展示中止事件は極めて悪い方向に向かいつつあります。予測が外れればいいのですが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?