愛の反対にある正義
最近のレゾンデートルは「愛」の探求です。
先日、親の喧嘩の仲裁に呼ばれることがあった。
父は論理、母は感情で話すから、話や論点が堂々巡る。愛の反対は正義で、それぞれの正義を振りかざしあっても、愛から遠ざかってしまう。ある問題が独立していることはなく、どんな些細な事柄も複雑に絡み合って積層していく。お互いの存在に感謝し、赦すことしかないのだと思った。
ふたりの血を受け継ぎ、長年の関係性を子供ながらに第三者としてみてきたからこそ、見える、言えるものもあるのかなあ...と大人になって(まだなってないかもしれない)思うようになりました。
街で赤ん坊を抱えている親御さんの姿をみると、数年後に親になっているかもしれない自分の姿と、その昔親に抱えられていた自分の姿の、二人の人間の姿が浮かび上がって、不思議な気持ちになります。いまの自分はどこか、大人と子供の狭間にいるような。
知性・想像力・やさしさ
この三つの連関が、人間の高貴さを基礎づける、気がしています。きっと、けっきょくのところ“やさしさ”にまさる知性はないのかもしれない。“やさしさ”にまさる想像力も同じように。
「あのときの私はもういない」「あのときの僕ももういない」
人間の一生と、社会の一生。個別最適と全体最適。いろんなギャップが生む、不幸と希望。だったら、どれだけささやかに見えても奇跡が次々と充足していく奇跡を、しっかりと言祝ぎたい。当たり前のことなんて、一つもありゃしない。
「残像は過去から、妄想は未来からやってくる」
歳をとることは汚れること、それを美しいと受け取れるか否か。アインシュタインが死ぬ際、娘に残した愛の公式。世界は毎日新しい。
愛は常にそこにあり、注がれるもの
毎日のように、会食がある。
隙を見て、「愛ってなんだと思いますか?」との質問をルーティンとして挟むようにしている。8割方は「難しいよね」とお茶を濁される。ある日「愛は空気で、情熱は噴火。愛は常にそこにあり、注がれるもの」との言葉をいただいた。
何かを手にする感覚は、過去遡及的に幻想でしかなく、その瞬間に生じているであろう感情や多幸感は、もう戻らない。掴み取れるかどうか、離さないかどうか、刻み切れるかどうか。その相対、その総体、そのままならなさのほつれの、ギリギリ。それをかき集めて、形成される、未来の破片。
一度でも『ソラニン』的な世界観を人生でくぐり抜けた人は、そのあとで、いかようにも強く、健やかに、優しくなれる気がする。
なんというか。歳をとれば、淀みなく時間が流れるようになる。自分の意思で惰性に楔を打って、無駄な抵抗かもしれないけど、コントロールしようとする、瞬間が、運命の支流の逆サイドへと誘ってくれたりする。その一番分かりやすい方法が物理的に環境を変えることだったり。インドに戻りたくなることがある。
イミはない、ワケがあるだけだ
姪っ子と戯れていると、「愛は与えるよりも、受け取る方がむずかしいかもしれない」とふと思うことがある。
僕は考えすぎているのかもしれない。
人生の先輩、メンターたちが次々とかけてくれる言葉。その意味を十全に理解するには、まだまだ未熟で、なにも分からない。
「だれかを愛したり、愛されたりする前に、自分を愛せ」
メンターの高宮さんにいただいた「正しい思いを持ち続けていれば、正しい枝が光って導いてくれる」という言葉もずっと胸に残ってる。
「イミなんかねえ、ワケがあるだけだ!」
ある日、記憶がなくなるまで先輩たちと飲んだ日の深夜に聞いたパワーワードが、一日中耳鳴りし続けていている。
それでもきっと善く生きる、その探求、それが先進国に生まれた人類に課された普遍命題。なんじゃないかなあ。まだまだ愛についてはなにもわかっていないかもしれない。
ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。