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言葉の海でクロールする

言葉に触れるほど、飲み込むほど、自らの内に構築される言葉の世界は広がっていく。

さながら、大海に、また新たな水が注ぎ込まれていくように。

だからこそ、瞬時に言葉を受け取って、渡すことが求められる会話のコミュニケーションで息詰まる感覚を覚えることが時にある。

反対に、物を書く、ある意味で“時間に縛られない自分との対話”においては、海が広がるほど思考の深度が増すので豊穣さが出る。

いずれにしても、なにかを得ることは、なにかを手放すことに他ならない。

本を読むこと、だれかと対話すること、文章を書くこと

一連の知的生産は、確実に思考を深め、情報感度も高める。

対して、商業ライティングを生業とし、毎日のように媒体向けの記事を書くことは、同様の効能があるだろうか。

当然、どんな体裁の記事を書くにせよ、ある程度の「思考」は求められる。この「程度」の深さを追求していくことが、ある意味で編集者の練度を高めることなのだろう。

上記のnoteで、自分自身で指摘しているように、「自分の言葉を失っていく感覚」を覚えるのは至極まっとうなことだと思う。
ただ、それでも取材の数を重ねること、原稿を執筆し続けることは、乗数的に効果を発揮することだけは覚えておいてほしい。

とはいえ、冒頭で触れたように、自らの深奥に広がる海で思考=クロールするには、最適な方法がある。
それは端的にいって、私的な文章を書き続けること。その場として、noteは優れた場だと思う。そうアドバイスして、すぐに書き始めたので、今後もnoteも楽しみだ。

新しい言葉への渇望

中学生の頃から日記を書くようになり、高校生から大学生にかけてはブログを書くようになった。

さまざまなブログプラットフォームを触った経験からいっても、noteはライティング・ストレスが限りなく小さい。HTMLをいじったり、フォントに装飾をつけたり、「物を書く」以外に労力を使うことが最小限に設計されているからだ。

本題に戻ろう。

書くことは、考えること。それも私的な文章を書くには、WHY、WHAT、HOW。すべての思考原則を自分で設定し、頭と手を同時に動かさなくてはならない。

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これを習慣化すると、新しい言葉・考え方を渇望するようになる。ただ、時計の針が進むだけでは、なにも手にできない。「言葉を手にする感覚」を意識的に忍ばせながら、生きる姿勢が必要だから。

とりわけ、読書については思うことが多い。読書によって言葉を獲得し、思考の技術を伝授してもらった身としては、いつもメタ的に「読書」とはなにかを考えてきた。

「読む」を読む、「書くこと」を書く、「考える」を考える

たとえば、5年も前に書いたこのブログ。

当時は毎日アルバイトをしながら、隙間時間に読書をしていたので、その生活感が文章に染み出していて、それだからこそ到達できている仮説がある。

1. 時給1000円のアルバイターは資本主義下の豚なのか

労働を強いられている間、たしかに肉体はその場に縛られている。
ところが頭の中、脳ミソ、自分の思考空間は自由なまま。
とりわけ、週6~7で働き通しているときに、マルクスの『資本論』を読むと、彼の言わんとしていることが、実体験として得心できる。

2. 咀嚼、消化、排泄、そして循環

ただコンテンツを受容して自分の中で退蔵するだけでは、お腹いっぱいになってしまうし、消化不良を引き起こしまうのではないか。そのうち、自動的に上書き処理がなされていき、薄い知見は霧散し、抹消されていく。
なら、自分の蓄積と整合しながら咀嚼して、自分の価値観を付与しながら加工、そして吐き出す(アウトプット)することが一番健康的なのではないかと思う。

3. 「本を読む」ということは、「命」を差し出すことでもある

自分の与えられた人生(時間)の一部を輪切りにし、差し出した上で、やっと読書から知見を引き出すことができるわけです。
おおげさに言えば、命と引き換えに知を得るわけです。
そもそも、人は学びつつ、死へ近づいていっているわけで。

そのさらに1年後の2014年、同じテーマでまたブログを書いている。

Ⅰ. 残された時間のなかで、あと何冊の本を読むことができるだろうか?

図書館で目を覆うほどに四方八方に所狭しと積み上げられた蔵書に囲まれると、未だ知らぬ知への高揚感から来る興奮と同時に、残された自分の生のうちで一体どれだけココにある本を読めるだろうかという圧倒的な虚無感と寂寞に身を抓まれます。

Ⅱ. どれだけ読むのかではなく、どれだけ読まないか

「量は質に転化していく」このフェーズを経たのちに、量そのものは減らし、質は向上させていというように、自分の読書遍歴を振り返ると思考をスライドさせてきたように思います。
上質な情報への直観的なな嗅覚センサーの精度を上げていく。(その意味で多くの知識人が唱道するように古典は概して"外れ"が少ない。歴史という苛烈な淘汰競争をくぐり抜けてきた書物だけに"古典"という冠が付与される)

Ⅲ. アウトプットがあって、はじめてインプットがある

質の高いインプットがあってはじめて、質の高いインプットができると考えられていますが、(少なくとも自分の場合)それは逆であると考えています。
アウトプットという行為を通じて、はじめてインプットへ至るということです。
両者は分かちがたく結びついた関係性にあり、"表裏"というより"円環"と言った方が精確かもしれません。

これらはあくまでも4〜5年も前に考えていたことなので、当然今では異なる、アップデートされた読書観がある。

詳細はまだ言えないのですが、来年から読書にまつわるコミュニティのようなものに定期参加させていただく予定。また決まったら告知します。

読書の話だけで文字数が増えてきたので、今回はこの辺で。
本当は「思考篇」もやりたかったのですが、とりあえずは『PLANETS』でやらせてもらっている連載『考えるを考える』のリンクだけ置いておきます。


ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。