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【インド瞑想記⑦】圧倒的な自己修養ー Universe in the Head

注釈:本noteは2013年5月に書かれたブログに若干の修正・加筆を加えたものです。

#⑥にひき続いて...。

苦痛は消え去り、快感へ変わっていく。陰鬱だった空模様が、晴れ渡っていくかのように。

目覚め、薄陽に包まれた外へ一歩足を踏み出し。吸い込む空気の一吸い目。ちょっとした恍惚感。

このブログのヘッダーに据えているブッダの言葉。

Each morning we are born again. What we do today is what matters most. (新しい朝が来るたび、私たちは生まれ変わる。今日なにをするかが一番大切なのだ)

毎朝、欠かすことなく飲む温かく甘いチャイ。

ゆっくりとすすりながら、その甘露さと円やかで静謐な窓の外の景色に身が包まれていく。

今日も虚心坦懐に瞑想に臨む、心がそちらへ向かっていく。

ここまでで(6日目)どのくらい体重が落ちたのだろう。とても体が軽く感じる。

おそらく3〜5Kgくらいだろうか。カロリー計算で2食が日本の1食に満たないのではないだろうか。

体が食べ物を求めるのを諦めはじめ、水(といってもお湯)だけで済ませてしまう日もある。

衣食住のそのすべて、自分にとってかけがえのないもの、当たり前のもの、なくてはならないもの。それをいきなり取り上げられても、はじめは辛くとも、すぐに慣れてしまう。

人間の適応能力は思うよりも高い。

習慣は人間の根幹部で、習慣化するまでの時間を努力と呼ぶのではないか。

アリストテレスもこう言うように。

We are what we repeatedly do. Excellence, therefore is not an act but a habit. (繰り返し行うことが、人間の本質であり、 美徳は、行為に表われず、習慣に現われる)

そういえば、昨日、こんな記事があった。 「30年間黙々と“木を植えた男”、今では広大な森林に多くの動物の姿。

ローマは一日にして成らず、それはそうだけど、「習慣」はなにもかもを可能にする力を秘めている。

少し時間軸がズレて、入れ込んだ話になってしまうけど、先日GWにバイトをしていて思ったことを。

GWのバイトの繁忙さは異常で、時間が濁流のように高速で流れていく。

瞑想時の時間が止まったような、感覚とは比べ物にならない。アインシュタインの「相対性理論」を肌感覚で突きつけられた訳です。

きっと時代の寵児と呼称されるようなIT企業の社長と出家僧侶では根本的に流れている時間が違う。きっと3倍くらい感覚的に長い人生なのではないか、後者は。

2年ほど前に書いた「ゆっくり錆びるより、一気に燃え尽きたい」というエントリー。

多種多様、十人十色。それぞれの生き方がある。

生き急ぐのもまたいい、疲れ果てたときにこそ「」を感じたりもする。

『思考は現実化する』にある以下の言葉。これさえも時間の一つの捉え方であって、真理ではない。

人生というものは、チェス・ゲームのようなものである。そして、対戦相手は時間なのだ。もしあなたがためらっていたら、相手はどんどん先へ進んでしまう。あなたの駒はすっかり取り払われてしまうだろう。あなたが戦っている相手は、決して優柔不断ではないのだ。

ある人の目にはカッコイイがダサく、ダサいがカッコイイと映る。それだけのシンプルなこと。 

瞑想プログラムも折り返し地点を過ぎてからは、純粋に修行を楽しめるようになってきた。無我の境地を探求する。もちろん10日間で解脱に至れるはずはない。

それでもとにかく空漠とした時間の中をクロールし続ける。

とにかく瞑想・修行では呼吸法が鍵を握る。

加えて、主観的な時間に対する「メルクマーク」を操ること。

このプログラムでいえば、24時間瞑想を断続的にし続けるわけではない。

インタールードに朝食、ランチ、ティーブレイクがある。これら一つ一つをメルクマークとして、それに向けて瞑想を精励恪勤にこなす。

この小さなメルクマークを一つずつ徐々に取り去っていき、後半に差し掛かるにつれて、ただ「瞑想」だけに集中できるようになっていく。

いきなりは無理でも(おそらく10日間では足りない)、最終的には24時間断続的な瞑想も可能になるのではないかと思う。

猿回しや馬の調教と同じで、圧倒的な自己修養で達成できる。(Self-discipline / Self-taught)

瞑想中も基本的には瞑想に集中しながらも、気付きや考察はあとでブログにまとめようと思っていたから、意識的に記憶の引き出しに入れておくことを努めた。

その中で、ちょっとした記憶法というかメソドロジーを編み出したので、というか当たり前のことなのですが、ここにも備忘録を。

短期記憶かつ記憶事項が少ない時は両手に収めるイメージで。左右に5個ずつ収納。トレーニングすれば拡張可。そして、そのそれぞれに小見出しを付ける。

内容は小見出しさえしっかり頭に入っていれば、思い出せるので記憶する必要はない。

また、その項目をテーマごとにわけたり(メモリーツリーのようなもの ※『ドラゴン桜』でありましたよね)、タグで関連付けたり、芋づる式記憶しておく。(英単語を覚えるのと同じ要領)

色を付けたり、勝手に誰かに擬人化させたりすると、尚忘れない。要は自分の頭の中なので、どうしようが自分の勝手で、記憶出来ればそれでよし。

(lifehackerの「アイデアを可視化しよう! 「マインドマップ作成ツール」ベスト5」という記事が有益です)

瞑想はいつも順風満帆ということもなくて、とうぜん一筋縄ではいかない。

意識があちらこちら散漫になって、一点に収まらないことがある。

それを防遏しようとすればするほど、逸脱していく。

そんなときは、それに見苦しく抗っている自分をカメラアイから(幽体離脱のように)客観的に鳥瞰してみる。

時間軸を引き伸ばして、未来のある結節点(node)を定めてそこから現在をみる、自分が孵化過程にあることを認識する。すると案外エンジョイできる。

瞑想を開始してから空腹感が集中を阻却する要因だったけど、それも気にならなくなってきた。断食の肝は空腹感が"常態"となるように馴致していくことに他ならない。

空腹感は敵ではなくて、実は思考をシャープに保つために働いていることに気づく。

佐々木俊尚さんもいつだったか「断食で心身をノマド化していこう」というような旨のことを言っていた気がする。

きっとまったく肉を摂っていないことも影響している。

肉を取らないこと(ミートアウト)、ベジタリアン食の効用は『世界のエリートはなぜ歩きながら本を読むのか』で詳述されていた。

インドでは人口の半数以上がベジタリアンという。ジャイナ教やヒンドゥー教では肉食は善しとされていない。仏教も同様。

そもそも牛は神聖な動物なのだ。

瞑想が終わった後もインストラクターに長々と説明された。「人はそもそも、肉を食べるようにできていないのだ」と。

食肉文化が浸透した今の日本でいきなり断肉するのは酷としても、段階的に調整しながらなら可能だと思う。たとえば、上記の本でも紹介されている「ミートアウト・マンデー」。まずは月曜日を肉を食べない日にしようという運動。

最近では、かなりおいしいビーガン食も多く開発されているし、案外可能かもしれない。

ウーマン・オン・ザ・プラネット」でNYで一人暮らしする女性もビーガンドーナツに舌鼓を打っていた。

肉魚など動物性のものを摂取しなくては、活力、バイタリティーが起こらず体や思考が衰退していくかと思いきや、逆に健康そのもので身体はよりオーガニックなものを求めている。

実体験として空腹の状態で寝たほうが、寝るときは多少辛くとも寝起きは調子いい。

前にそれほど太ってもいない女友達が、就活中にダイエットに精を出していた。

「自己管理能力がないと思われたくない」というのが理由だ。

たしかに断食もダイエットもある程度の自制心や忍耐がないとできない。「ふむ」と思ってしまった。

裸眼で一週間近くを過ごすのも久しぶりだ。最初はコンタクトを付けないことが不安だったが、この頃から裸眼で一日を過ごすのがとても気持ちの良いことだと気づき始める。

やっぱり何事もナチュラルがいいのだ。

機会があればデリーかカルカッタあたりでネトラバスティと呼ばれるインドの伝承医学、ギー(水牛などの乳から作るバター)を眼球に入れるエステをやってみようと思う。

ここで気付かされたこと。

一時間ほど長く、一時間ほど短いものはないということ。「今を生きようとするその隙に今が逃げていく」なにかの歌詞で唄われていたこと。

ウィトゲンシュタインは「現在を追う者は、いつか現在に追いつかれる」と言っていた。

アインシュタイン、ダ・ヴィンチでも時間に抗えない。「老い」「死にゆくこと」誰もが受け入れていくこと。

時間を追うでもなく、時間に追われるでもなく、ただ流れの中に身を置き、観察すること。

一生付き合っていくのは家族でも、恋人でも、友人でもなく「時間」なのだ。

生まれた瞬間から時間の御胸に抱かれ、死滅するその瞬間までその揺り籠の中にいる。

孤独の時間ほど、粘っこく剥がれず、流れて行かない。

それでも「孤独と無二の親友になる」「孤独とキスをする」そんなイメージで。(Mr.Childrenの曲にありますね)

心頭滅却すれば火もまた涼し。

そんなことに思い至っていた5―6日目。

パゴダで2時間半の個人瞑想を終え、立ち上がった直後に卒倒するという事案が発生。

ここ数日、立ちくらみが酷かったが遂に倒れた。こんなことは人生初。

一分ほど何が起きたのか分からなかった。

意識が戻ると左のこめかみ辺りから出血していた。そして眼鏡もひん曲がっていた。

すぐにアシスタントの方に応急処置を施してもらう。

ひさびさに自分の血というものをみた。

人は往々にして、死に近づいたとき、言い換えれば、生から離れたときにこそ、「生」を感じるという背理がある気がしてならない。

この時以来、無理してでも意識的に多く食べ物を胃に詰め込めることにした。

断食といえど、果物や野菜など最低限は摂取していなければ、こうゆうことが起こる。

また、このプログラムが1週間ではなく10日間というのが肝なのではないかと思う。

でも考えてみれば、禅問答は一生続いていくことだ。

井上雄彦さんがプロフェッショナルの取材でこう言っていたことが強く記憶に焼き付いている。

「成長することはあっても、その逆はないと思って常に限界に挑戦している」。

この瞑想の期間も、これまで辛いことがあったときもマントラのように唱えていたこと。

それは村上春樹氏があるエッセイで書いていたこと。

"Pain is inevitable, suffering is optional"(痛みは不可避だが、苦しむことはオプショナルだ)

そうどんな苦しみも一時的なもので、永続的に続くことがないと思えば、未来の自分へのささやかなプレゼントだと思えば、やりすごせてしまう。

一瞬たりとも同じ僕はいない。それだけは忘れずに生きていたい。その一人一人が繋いできた、タスキを今僕は肩にかけた。(叫べ / RADWIMPS)

苦しくて仕方なかった1―3日目を越え、こうして6日目を至極ポジティブな気持ちで迎えることができたことが、嬉しくてたまらなかった。

残りの4日間も孜々と瞑想に励みつつ、思い思いに広がっていく頭の中の宇宙(universe in the head)を覗き込むのが愉しくて仕方なかった。

#⑧へつづきます...。

ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。