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【インド瞑想記⑩】新しい朝― Perfect Equilibrium

注釈:本noteは2013年5月に書かれたブログに若干の修正・加筆を加えたものです。

#⑨にひき続いて...。

先に紹介した「早起きの常識を覆したら、毎朝5時に起きられるようになったお話」という記事で早起きの定義を

目を覚ますことではなく、両足で立ち上がることだ。

と変えることで、実行性(feasibility)が上がると書いてありました。同意です。

インドにいる間はすんなり起きれても、日本に帰れば、飲み会があったり、タスクが溜まったり、早起きの障害が多くなっていきます。

孫社長が前にツイッターで言っていた「今日は人生で最も素晴らしい日になる。毎朝その様に願うことが大切だと思う」、"毎日がエブリデイ"みたいなはすごく大切で、今日は昨日と決定的に違うし、同じ日は死ぬまで訪れない。

こんな厳格にスケジュールが決まった瞑想プログラムでさえも7日目と8日目では決定的な懸絶がある。

要は、新しい習慣を自分の生活規則に組み込もうとしたときに、上の例のように視点の定点をズラす、定義を再構成することは実はすごく有効なんじゃないかということ。

"Gamificational Lifestyle"というエントリーで昔書いたことは実はいまでもハックとして使っていて、"ゲーム性"を日常に積極的に持ち込んでいく。

たとえば淀んで退屈な毎日もミッションインポッシブルのように、24のように勝手に緊張感をもって、一つ一つのタスクを一つの多いなる命題の下にこなしていく。

気付いた時には、それが自己規範となり、習慣となっていく。

ジョージ・オーウェルはこう言った。

小さなルールを守っていれば、大きなルールを破ることができる。

今日は4時前、ベルの音が鳴り響く前に目覚める。

退去日も近づいているため、部屋の掃除、外を掃いておく。

瞑想と瞑想の合間に、公衆便所(urinal)に行くと、いつも無数の蟻が長蛇の列をなしていて、活発に動き回っている。時間によって、疎らであったり、数えきれないほどごった返していることもある。

彼らにも彼らなりの生活秩序がある。ふと2年ほど前に読んだユクスキュルの『生物からみた世界』を想起する。

この本の中で今でも強く印象に残っているのは、やはり「時間があくまで相対的なものにすぎないこと。一人一人が大いなる主観の檻にある」ということ。人間のうちでも時間の流れは各々違っているように、人間と他生物ではそれこそ決定的に異なる。少しユクスキュルをひいてみる。

時間はあらゆる出来事を枠内に入れてしまうので、出来事の内容がさまざまに変わるのに対して、時間こそは客観的に固定したものであるかのように見える。だがいまやわれわれは主体がその環世界の時間を支配していることを見るのである。これまでは、時間なしに生きている主体はありえないと言われてきたが、いまや生きた主体なしに時間はありえないと言わねばならないだろう。
瞬間の連続である時間は、同じタイム・スパン内に主体が体験する瞬間の数に応じて、それぞれの環世界ごとに異なっている。瞬間は、分割できない最小の時間の器である。なぜなら、それは分割できない基本的知覚、いわゆる瞬間記号を表したものだからである。すでに述べたように、人間にとっての一瞬の長さは18分の1秒である。しかも、あらゆる感覚に同じ瞬間記号が伴うので、どの感覚領域でも瞬間は同じである。

彼がここでいう「環世界」とはすべての動物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、その主体として行動しているという考え。ユクスキュルによれば、普遍的な時間や空間も、動物主体にとってはそれぞれ独自の時間・空間として知覚されている。(Wikiより)それぞれの生命に、それぞれの営為がある。

これを分かりやすく捉えるために、ウィキペディアでも取り上げられているマダニの環世界は非常に興味深い。

マダニというダニの一種には視覚・聴覚が存在しないが嗅覚、触覚、温度感覚がすぐれている。この生き物は森や茂みで血を吸う相手が通りかかるのを待ち構える。相手の接近は、哺乳動物が発する酪酸の匂いによって感知される。そして鋭敏な温度感覚によって動物の体温を感じ取り、温度の方向に身を投じる。うまく相手の体表に着地できたら手探りで毛の少ない皮膚を探り当て、生き血というごちそうにありつく。この生き物にとっての世界は見えるものでも聞こえるものでもなく、温度と匂いと触った感じでできているわけである。しかし血を提供する動物は、ダニの下をそう頻繁に通りがかるわけではない。マダニは長期にわたって絶食したままエサを待ち続ける必要がある。ある研究所ではダニが18年間絶食しながら生きていたという記録がある。

この「環世界」という概念を基層に「コウモリであるとはどのようなことか」や「なぜ私は私なのか」といった関連項目を考えてみると面白い。

僕が住む町は東京でも一応下町と呼ばれているように老人が多い。

今日も前方にお婆さんがゆっくりとぼとぼと歩いていた。それこそ亀のように。

きっと、あのお婆さんは僕らとは決定的に違う「環世界」の中で生きている。

インドの人だってそう。ガリガリに痩せ細っているのに人を4〜5人も乗せて平気な顔をして自転車を力強く漕ぐリクシャの運ちゃん。

「文化」という言葉で差異化するまでもなく、人は一人一人異なった「環世界」で生きている。世界は億通りあるのだ。

(今日、王様のブランチで紹介されていたインドの青春映画『きっと、うまくいく』気になるなあ) 

午前中の瞑想をこなしているときに、バンプの'Everlasting Lie'の世界観イメージが突然、頭に立ち現れた。

砂の海で錆びたシャベルを持って、まるで闘うように夢を掘る人。赤く燃える太陽に身を焼かれても必死で這い上がろうとする。

本当にその場所に「石油」が埋蔵されているなんて確証もないのに、遮二無二にただただ掘り続けていく。

瞑想の終わりに何があるかなんて分からない、ましてや10日間の短いコースでは。

ただ、この瞬間、この瞬間の瞑想に没我してやっていくだけ。

一日の終りにインストラクターは必ずこう言う。

Work diligently and diligently, patiently, persistently, you are bound to be successful, bound to be successful. (懸命に一生懸命に、忍耐強く、根気強く、必ず成功することでしょう)

ゲーテの「世界の万物はメタファーだ」やアリストテレスが『詩学』でいう「通常の言葉は既に知っていることしか伝えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである」などを考えるとき、たくさんの音楽を聴くこと、沢山の小説・詩を耽読することは誰かの世界を拡張するのに寄与するとのだと思う。

それはただ「余暇(pastime)」や娯楽では片付けられない恩恵を授けてくれたと思う。

専門書、実用書では得られない物語に埋め込まれた想像力、メタファーやアナロジーは窮地から救ってくれる実存性がある。今回の瞑想を通して、間欠泉から吹き出すように断想が沸々と常時溢れ出てきたこと。

自分の置かれている状況をメタに、一次元上から捉えたり、ある物語の主人公に照応させたり、いくつもの物語(story)を自分の内に蔵しておくことは武器にさえなる。

柔軟で広大無辺な思考フィールドを縦横無尽に駆け回ること。

ビジネス書を右から左へとにかく読み耽るビジネスマンにとってみれば、小説や物語は時間を食うばかりで実利がないと考えている人も沢山いると思う。

だけど僕は小説から多くのことを学んだし、それはきっとこれからもそうなんだと思う。想像力の風船を膨らませるためにはきっと必要なもの。

たとえば瞑想に続く瞑想で気が滅入りそうになっていた当初の日々も、『永遠の0』で描かれる特攻部隊の日本兵に比べれば何のこれしき。

人は一度しか生きられず、人生を比べるための人生を持ちあわせてない。

だけど、小説は擬似人生として、それなりの参照点として機能することがある。

5日目あたりで卒倒したこともあり、それ以来はしっかりと食事を摂るようになった。

食欲自体はほとんどなかったが、なかば強引に胃に放り投げていくように。

今日はカレーの風味付けがされたベジーとナンを。

そしてどこか敬遠していたパゴダでの個人瞑想にも意識的に身を入れて取り組む。

リベンジ、ラストチャンスだと思って。

今日の説法で肺腑を衝いた一言。「自己の救済を勝ち取れ」。

ここまで瞑想を続けていく中で得たものの中で、一つの結論は「自由に、ただ自由であること」。

老子は「無為を為し、無事を事とし、無味を味わう」という。

爲無爲、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳。圖難於其易、爲大於其細。天下難事必作於易、天下大事必作於細。是以聖人終不爲大、故能成其大。夫輕諾必寡信、多易必多難。是以聖人猶難之、故終無難。
(現代語訳)「特に何もしない」という事をして、「なんでも無い事」を仕事として、「味気の無い生活」を味わう。小さなものを大きく捉え、少ないものを多く感じて、人から受けた怨みには徳をもって報いる。難しい事はそれがまだ簡単なうちによく考え、大きな問題はそれがまだ小さいうちに処理する。この世の難しい事は必ず簡単な事から始まり、大きな問題は必ず小さな事から始まるのだ。だから「道」を知った聖人はわざわざ大事を成そうとはしない、小さな事を積み重ねて大事を成すのだ。安請け合いをしていては信頼など得られないし、安易に考えていると必ず困難な目に合う。しかし聖人は些細な事でも難しい問題として対処するので、結果的に特に難しい事もなく問題を解決できるのだ。 (引用元

瞑想とは老子がいう小さなことを積み重ねていく作業そのもの。

呼吸法をその都度修正し、淡々とだけど着実に「自己の救済」に向かっていく。

自由だ、ほんとうは。どこまでも自由だ。

もっと、もっと、みたい景色がある。だから、ぼくは旅にでる。

#⑪へつづきます...。

ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。