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シリコンバレーで考えたことーー加速主義の歪み・人生の使命・多様性の多様性

GOの三浦さんに誘ってもらい、1週間弱ほど、シリコンバレーへ行ってきた。(去年も行ったので、1年ぶりに)

今回はGoogleをはじめとしたGAFA企業に加え、シリーズBあたりからすでに時価総額1,000億円を超えるユニコーン企業を周り、話を聞いた。

もちろんSaaS化していく世界の最前線で起きていること、スピーディーにグローバル展開させる際のマーケットインの見極めと、個別ローカライズで肝になる交渉や根回しの方法。ビジネスの大きな潮流やトレンド、HOWレベルでのテクニックまで、知識をリフレッシュできたし、たくさん新たな知見も仕入れることができた。

ただ、このnoteではそうした「ビジネスがどうこう」は一度脇に置きたい。一段目線をあげて、今回のシリコンバレーツアーで看取した、心を揺さぶられた、自分自身の心の機微に耳を傾けて言語化しておきたい。
未来を見ながら。

加速主義の歪み

最近、思想界隈で話題になっている「加速主義(accelerationism)」との思潮がある。

たとえば、↓『現代思想 6月号』の紹介には下記とある。

失われた未来を取り戻す、資本主義への最終応答
加速主義という新たな思想的潮流。そこでは根底的な社会変化を引き起こすために、資本主義制度、あるいはそれを歴史的に特徴づけてきた技術的プロセスを、あえて拡大し、再利用し、加速するべきであるとされる。閉塞感に満ちた現代社会を打破するような不思議な力によって、それは私たちを否応なく変えてくれるのではないか、あるいは変えてしまうのではないか

また、『Inventing the Future』で基本的要求として羅列される下記の項目は重要であり核心をついているので掲出しておきたい。

1. 生産の全自動化
2. 労働日数の短縮
3. ベーシックインカムの支給
4. 職業倫理の縮減

詳細は、樋口恭介さんが『The Future is the Past』を訳出された下記のnoteを参照のこと。

今回のシリコンバレーの端緒より、目にする景色からこうした思潮を実体的に経験する場面があった。それも連続的に。

僕はサンフランシスコ空港に降り立ったのと同時に、Uberを配車し、Googleキャンパスへ向かった。30分ほどの移動ですぐに到着し、すぐにFacebookメッセンジャーで連絡を取り合い合流。

受付を済ませ、さっそくキャンパス内へ。一通り施設の案内を受け、キャンパス内に無数に置いてあるGoogle自転車にまたがり、みんなでキャンパス内を移動。

このときすでに、一種の違和感を覚えていた。

空港で見かけたふくよかなタイプの人間が一人もおらず、皆が皆引き締まった身体で歩いたり、自転車に乗っている。表情は明るく、コーヒーを片手にあちこちでディスカッション。

ジムや瞑想施設は当たり前のこと、ビーチバレーができるスペースまでカフェテリアの横にはある。

言うまでもなくカフェテリアやスムージースタンド、キャンパスに点在するフードトラックで提供されるあらゆる飲食物は無料。社員のみならず、僕らのようなビジターまで無料で供されるのには驚くばかり。

さて、キャンパスを出て、サンフランシスコ市街へ行くと様相はいきなり様変わりする。

ストリートを歩き始めた途端、薬物のoverdoseで今まさに救急隊員によって(おそらく意識不明の状態で)搬送される人。空に向かって発狂する人、明らかに葉っぱを吸ってる人。

「治安」の一言では言い表しにくい人たちの姿が眼前に広がり、すれ違っていく。Googleキャンパスを歩く人たちの特徴と大きく異なる点は、肥満の人の多さ、表情からポジティブさが引っこ抜かれていることだ。

Googleキャンパスとサンフランシスコに物理的な距離はほとんどない。
それなのにも関わらず、誰にも否定できないほど深い、世界線の溝がある。

引き締まった身体 VS 脂肪をぶら下げた身体、あるいは痩せこけた身体の同居する街ーー。

資本主義とテクノロジーが手を取り合い、イノベーションを生み、生活の利便性を向上させている。

『FACUFULLNESS』を引くまでもなく、誰も否定できない世界の流れだろう。

それでも目の前に広がる、この世界線の断絶はどういうことなのか。

問題は複雑だ。いま目の前にある景色は、断絶は、「歴史」の一言では還元しにくい、政治・法律・文化・テクノロジーの相剋を混交させながら進行して、あちらとこちらの正義が複層化した形だ。

サンフランシスコが現在の歪曲した形に至った過程については、上杉周さんが「#地獄のサンフランシスコ」としてまとめられている講演スライドに詳しい。

僕は結局、シリコンバレーから帰国するまで、そしてこの文章を書いている今も「歪曲された」と表現する他にない世界の在りように首を傾げたままである。

気高くあること、「人生の使命」

サンフランの街を歩いた翌日、僕らはスタンフォード大学へ足を運んだ。

キャンパスに足を踏み入れた瞬間、敷地全体に充溢する“誉れ”と“誇り”の空気感を看取した。一言でいってしまえば、“スピリチュアリティ”に還元されるのかもしれないが、たしかに感じ取ったのだ。

最後のフロンティアとして開拓されたこの場所は、世界で二番目に大きな敷地を誇る大学なのだそうだ。

一つ一つの建物が荘厳な建築であり、その総体として構成されるキャンパスの壮大さは、日本にいるとなかなかお目にかかれない代物である。

キャンパスを歩く学生や関係者たちの顔つきが、明らかに違うことに僕は瞠目した。自信と誇りに満ち溢れ、ただただ“精神的に”前向きであり、嘘偽りなく、一回しかない人生を正面から受け入れきり、いま自分が未来に対してできることを語り合っている。ポジティブに、真剣に。

僕はたった二日間しかこのキャンパスに居なかったり、歩かなかった。それでも確かに感じたのは、未来の少なくとも一部分は、確かにこの場所を起点に形作られている、と。

スタンフォードを卒業してアメリカの大統領になった人物はまだ居ないという。それでもGoogle創業者のラリー・ペイジや、PayPalを作ったピーター・ティールはたしかにこの場で学び、世界を変えるサービスを生み出した。この空気が包む場所で。
(※7/18 追記 第31代大統領ハーバート・フーヴァーがスタンフォード卒とのことです)

事実、僕がシリコンバレーから帰ってきてから読んだ下記のブログでは、実体験としてスタンフォードの独自性が綴られている。(少しだけ長いが、引用させていただく)

僕は三年前、スタンフォードのキャンパスに足を踏み入れた瞬間、この大学に惚れ込んだ。気候や環境はもちろんのことながら、キャンパスで学んでいる学生のエネルギーに圧倒された。これまでに感じた事のないエネルギーを感じたのだ。キャンパス訪問二日目、キャンパス内のカフェで少し休憩していたら、聞こえてくる会話に驚いた。

A「すんげーこと考えちゃった!!」
B「何よ?」
A「やっぱ、味覚って遺伝子解析によってある程度把握できると思うんだよね。その遺伝子データを基に、味覚に合うワインのサブスクリプション(定期購買)サービスをつくったら面白いと思うんだ」
B「いいね!いいね!お前ワイン好きだもんな!」

その後、すぐにビジネスプランを描き始めた二人を見ながら、羨ましく感じたことを覚えている。「スタンフォードって、きっとこういう場所なんだろうな」と思った。Feasibility(実現可能性)やどれくらいビジネスになるかはわからない。それでも、ちょっとした発想や自分の夢をどんどん語り、それを応援してくれる仲間がいる。すぐに実行に移し、失敗もすれば成功もする。その中で成長があり、また次のチャレンジに挑む。このサイクルが渦巻いている環境なんだろう。新しいアイディアを発想し、それを応援し、チャレンジする環境がここにあるのだと知った。

多様性の「多様性」

日本で「多様性」の重要性が叫ばれるようになって久しい。

LGBTQへの理解、管理職における女性登用の割合、障害者雇用、一口に言っても日本社会の文脈における「多様性」が指すとされるスコープの範囲は広く、その核心的コンセプトは不明瞭だ。立場や思想の違いによって、必ずしも共通見解が確立されているとも言いがたい。

ここでは、僕がシリコンバレーで過ごした(わずかではあるが)時間で感じ取った、“多様性”の意味への予感について書いて筆を置きたい。

本を読めば新しい考え方や知識に触れることができる。それはそれで尊いことだ。それでも人は本来的に、目にしたものしか見えないし、耳にしたことしか聞こえない。それはもう、物理的な次元で。

前項で触れたスタンフォードで触れた空気は、そこからさらに一次元進んで、精神的な次元で僕に開眼をもたらしてくれた。

人間の精神やマインドセットは、身を置く環境によって否応なく規定され、固定化される。

たまたま裕福な家庭に生まれ、その天啓に預かる形で(強烈な寄付文化を背景に)スタンフォードへ進学する子息たちも少なくないだろう。それでも、世界中から自分の意思で、たぎるハングリー精神だけを羅針盤に、この地へたどり着いた志高き学生が世界中から集結していることもまた事実だろう。

そうした学生たちが世代を超え、スタンフォード大学で過ごした時間が、この場所には“ある種の空気感として”漂っている。一面では、リベラルガチガチ、テックドリブン、表面的な多様性がない。それでも裏側では、“意思”と“使命”の共通軸によって分かちがたく結びついた精神が、時代を前へ進めようとしている。集合的な意思として。

一つしか顔がなかったら、一つしか人種がなかったら、一つしか生命種がなかったらーー。

なぜ、表面としての差異があるのか。少なくとも、あるように見えるのか。

意思とは何か、使命とは何か。その場所へたどり着くために、意思をドライブし続けた覚悟は生得的なものなのか。そこにも環境の運命は無慈悲に、時に慈悲深く作用しているのか。どれくらい?

分からないことだらけの世界で、“空気感”という極めて非論理的で非合理的な気配に僕は畏怖を覚えたし、本当の意味での「多様性」とは何なのか。思い巡らせずにはいられない契機を預けられたのだった。

ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。