霧氷

「目からウロコ」インタビュー集 ②伊藤博文暗殺事件の謎に迫る


伊藤博文暗殺事件の謎に迫る

封印された近代史を紐解け

作家 浦辺登氏


初代内閣総理大臣伊藤博文を暗殺した安重根をヒーローとして称えその記念碑を建てようという動きが中韓両国の間で起きている。一方、日本ではその黒幕に杉山茂丸がいるという説が一人歩きしている。果たして安重根は単独犯なのかそれとも…謎に迫るインタビュー。

真犯人

―明治四十二年(一九〇九)にハルビン駅で朝鮮民族主義活動家の安重根によって暗殺されましたが、その黒幕的存在として杉山茂丸が関っているという説が巷間で流布されています。浦辺さんはその説を真っ向から否定していますが。

浦辺 杉山黒幕説を最初に発表したのは、現在某大学の教員を務める方です。この方が今から十数年前に「暗殺・伊藤博文」という著書を出されたのですが、この中で「杉山が画策して玄洋社・黒龍会に関係する者が謀略を働いた」と結論付けています。氏はあくまでも謎だとしながら、「杉山黒幕」説を主張しているのが不思議ではあるのですが、これをよく読んでいくといわゆる作文だということが分かります。つまり、色んな文献から都合の良い部分を引っ張ってきて貼り付けて書かれているんですね。それを非常に巧妙につなぎ合わせられてあるので、一般の読者が読むと納得させられてしまう。私のような玄洋社関係を研究した者からすれば、この著書はまさに週刊誌的な“見出しが躍る“内容でしかありません。しかし、著者の権威によってその中味を疑わずに引用している人が多く、間違った歴史が一人歩きしています。これは日本の近現代史を解明していくためには大きな障害になりかねないと思っています。

―黒幕説の反証は?

浦辺 まず、ピストルで人を撃つということがどういうことなのかから考証しました。一般にテレビや映画の影響かもしれませんが、簡単にできると思われていますが、安重根が旅順の刑務所で書いた供述書を見るとある疑問が生じてきます。その供述書は漢文によって書かれています。当時の朝鮮は階級制度が厳しい社会ですから、安重根は漢文が書ける階級となると、つまり両班(やんぱん)という支配者階級の人間であることが分かります。この階級は下級階層から徹底的に搾取して贅を尽くしていたわけで筆より重たい物を持ったことがない人間がピストルを使えたという謎にぶつかります。そんな人間がなぜピストルを撃てたのか、どこから入手したのか…

普通の人がピストルで人を簡単に殺せるか。このことについてある元警視庁SPの方にそのことを訊いた事があります。その方によれば、即座に否定されました。「映画やテレビの中のやくざですら、人を撃つのが怖くて上に向けて威嚇するだけでしょ」と。ピストルで人を撃つことは普通の人間にはできない、となれば安重根は訓練されたある種のプロと言ってもいいでしょう。どこかでヒットマンとしての訓練を受けたのでしょう。

 次の疑問点は、安重根が使用した拳銃です。使用されたブローニング製の拳銃は七連発で安重根は銃弾を六発入れて、その内五発撃って残りの一発は自決用に残したと自供しています。あの群衆の中で自決用に一発残すという冷静な行動からも安重根はプロだったことが分かりますね。東京の憲政記念館にある安重根が撃った弾頭が保管されていて、それを見ると十字の刻みが入っています。殺傷能力を高める工夫をしていたことも安重根プロ説を証明しています。ところで、ブローニングという拳銃はベルギー製です。ベルギーと言えば、チョコレートとダイアモンドのイメージしかないかもしれませんが、武器製造は現在でも主要産業です。その技術は優秀でナチスドイツですら、製造工場は攻撃せずに自分たちが使うために接収したくらいです。この拳銃には一丁毎にシリアルナンバーが付きます。このシリアルナンバーが付いたものを買ったのはロシアの武器商社で、彼らが外国に売ることはありえません。自国に売るしかないわけですからロシアから安重根にピストルが渡ったとしか考えられません。

―よく考えれば当時の朝鮮でピストルを手に入れて訓練する事など不可能ですね。ロシアが黒幕の可能性は大きいですね。

浦辺 この事件は年表では「明治四十二年十月二十六日午前九時半過ぎにハルビン駅で暗殺された」としか書かれていませんが、この時他にも被弾して負傷した人がいるのはほとんど知られていません。ロシアのココフェツ蔵相との会談のためにハルビンを訪れた伊藤の随行員五人が負傷しました。伊藤以下六名が被弾した弾の数は十三発です。

―えっ?!安重根が撃ったのが五発ですから計算が合わない…

浦辺 安重根が撃ってきたのとは違う方向から銃弾が飛んできたと証言しているのが、首相秘書官の室田義文(よしあや)で自身の口述筆記による自伝によると、「安重根とは違う方向から弾が飛んできた」と証言しています。この人は小指やコートなど五発被弾しています。伊藤の致命傷になった弾が三発ですからこの段階で計算が合わなくなりますね。この他の五発が中村是公満鉄総裁らに当たっています。安重根はロシア兵の股下から上を見上げる形で狙撃しましたが、伊藤の致命傷になった弾は上から撃たれたものです。これは室田も証言していますし、付き添いの日本人医師の検死も上から撃たれたものが致命傷になったという資料も残っています。また、山口県立博物館に伊藤が被弾した時の着衣が残っていて現在の科学捜査で検証しても上から撃たれたという結果が出るだろうと言われています。

犯人の意図

―そうなると安重根は囮役ですね。ロシアの目的は何だったんでしょう?

浦辺 日本ともう一度戦争をしたかったのではないでしょうか。いわば日露戦争のリターンマッチを仕掛けようという意図があったと見ています。日露戦争はご存知の方も多いと思いますが、あれ以上長引いていたらギリギリの国力で戦って日本海海戦を制した日本は負けていたかもしれなかったのは史実です。

―ロシアの屈辱感ということではないでしょうね。

浦辺 目的は満鉄の奪還です。元総理大臣の伊藤を殺された日本側が怒り狂って戦争を仕掛ける事を意図したものではないでしょうか。ロシアは戦争を仕掛けてでも満鉄を取り返したい理由は、大連と旅順を日本に抑えられたままではロシアにとって東清鉄道は価値が全くない。ウラジオストックの港だけでは工業品、農産物を世界に輸出する事はできませんからね。

―政府首脳は真犯人はロシアだと知っていたんですね。

浦辺 当然、予想していたと思いますね。主戦論者を抑えたのは、山本権兵衛(海軍大臣、総理大臣、外務大臣を歴任)です。当時、満鉄は日本の政党の重要な権益になっていました。国内政界は熾烈な権益の奪い合いが起きていました。日本国にとっても政党にとっても戦争でロシアに満鉄を取られたら多大な損失になります。日露戦争は日本という国家の総力戦でした。日本が一週間かかって製造した弾薬をわずか半日で消耗したのが日露戦争です。これをもう一度やれと怒りに任せてやってしまったらどうなるか。山本たちはよく分かっていました。

―ロシアとの再戦を避けて朝鮮を併合することになったんですか。

浦辺 朝鮮の併合は以前からの規定路線でした。

―伊藤は併合には反対でしたね。

浦辺 それは朝鮮の併合は日本にとって全くメリットがないからでした。伊藤は朝鮮を併合すると日本は破綻すると主張していました。ここで誤解を解かないといけないのは、日本が朝鮮を併合したと歴史の教科書では書かれていますが、正確には合邦です。つまり、あくまでも朝鮮とはフィフティフィフティの関係で、企業でいう提携であって吸収ではないのが実相なんです。意味が全く違います。しかし、最後には併合してしまいますが。

―一部で伊藤暗殺の黒幕とされてしまった杉山はその頃どういう動きをしていたんですか?

浦辺 伊藤にハルビンに行くのを一所懸命止めていました。暗殺の危険性を察知したんでしょうね。杉山は当時伊藤たち政府首脳に「ヒンターランド構想」を主張しています。この構想は日本列島から見て、ロシアを北に位置する後背地(ヒンターランド)に見立ててロシアの南下政策を食い止めるための緩衝地帯、つまり特区を設けるという考えです。その経済特区をロシアと協調してシベリアに作って日本が資源を開発して共存共栄を図るという遠大な構想でした。杉山は朝鮮に関しては日本と緩衝地帯の間に朝鮮を挟んで物資輸送路の沿線開発などで発展させようと考えていました。その話し合いをロシアとやるために伊藤はハルビンに乗り込もうとしていましたが、ロシアにはまだその気がない、むしろ日本と再戦したいという情報が杉山の耳に入っていたのでしょう。伊藤が危ないということで出発直前に下関まで乗り込んで伊藤に行かないように説得しています。

消された歴史

―その杉山たち玄洋社もまだまだ正しく評価されていませんね。玄洋社という存在をどう評価していますか。

浦辺 どう評価するかはまだ難しいですね。敗戦で総括されないままですからね。敗戦直前の昭和十九年に亡くなった頭山満も全く文書を遺していませんし。僅かに口伝を基に伝えられているくらいです。あれだけ巨大な組織なのに全貌がつかめていないというのが現状ではないでしょうか。福岡に帰ってきたのは、玄洋社の地元である福岡に埋もれている資料を収集してスポットを当てたい気持ちは山々ですが、相当な時間とエネルギーが必要です。ただ、やはり最近玄洋社を見直そうという動きが盛んになりつつあるなと思います。例えば、先日開かれた、貴誌で連載されている杉山茂丸の曾孫・満丸さんが主催している「夢野久作と杉山三代研究会」の発表会で未翻刻の杉山と後藤新平の往復書簡があったことが分かりました。これは後藤新平の研究者ですらその存在を知らなかった資料で、福岡は玄洋社研究者にとってまさに宝の山です。

―そういう埋もれた貴重な資料はやはり地元にいないと発掘できませんね。

浦辺 それと戦後GHQに消された日本の近代史によって戦後の現代史もゆがめられてしまっています。玄洋社の実像をなぞることで日本の正しい近代史を福岡から発信していきたいですね。と言うのも、後藤新平の研究者に玄洋社のことにも触れたらと勧めると、「知ってはいるが書けない」と言うのです。書いたら干されると。頭山、杉山のことなど玄洋社に関しては一行も書かない。これでは正しい近代史はいつまで経っても解明できません。触れなければいけない玄洋社を無視した結果、後藤新平の実像が伝わっていない。

―後藤と言うと、関東大震災後の帝都復興で敏腕を振るったという偉人のイメージが定着していますね。

浦辺 玄洋社とのつながりが深かった後藤なのに玄洋社に一切触れないから綺麗な後藤新平像しか出てこないんです。内務省衛生局の医師でジョン万次郎の息子で中浜東一郎の日記を読むと同期生だった後藤のことをぼろくそに書いています。中浜に言わせれば後藤は人望がなく、政治的コネを駆使して出世した権力欲の強い人物だと評しています。そういう後藤の一面は歴史には全く出てきません。

―玄洋社という戦前の光り輝いた存在で近代史を照射すれば光と影がくっきりと出てきそうですね。

浦辺 一国を滅ぼすには伝統文化と歴史を潰せばいいと言われますが、戦後の日本はまさに歴史を潰されてきたわけです。歴史の負も部分も含めて正しい歴史を取り戻さなければこの国には未来はありません。アナーキストで関東大震災時の混乱に乗じて殺された大杉栄に、後藤が当時の三百円という大金を援助したという事実は知られていませんが、大杉の自叙伝にはきちんと書いてあります。杉山の名前も出ています。

―戦後の東西冷戦時代のイデオロギー闘争という色眼鏡で戦前を観ると間違えますね。右左で観てはいけないと。

浦辺 なぜ当時内務大臣だった後藤の自宅をアナーキストの大杉栄が突然訪問できたのか。尾行している警察もいるわけで堂々と後藤の自宅を訪ねているんです。すでに後藤との人間関係は出来上がっていたと考えてもいいと思いますが、表面の歴史上はおかしい話ですよね。それは杉山が間にいたからこそそういう関係ができた事実を研究者は全部無視しているからなんですよ。大杉は杉山の築地のオフィスである台華社を訪ねたとの記述が大杉の自叙伝にしっかりと書かれているにもかかわらず、です。殺された大杉と伊藤野枝、甥の橘宗一三人の遺体の火葬の骨を貰い受ける手配を誰がやったのか。それは玄洋社でした。この史実も消されてしまっています。

―現代の視点では、左翼の大杉と右翼の玄洋社の密接な関係性は説明できませんね。

浦辺 それは戦後、左右の対立構造をわざと作ったために戦前の近代史の実像が全く見えなくなっているんですね。日本の左翼運動の元祖といわれている中江兆民と、右翼の源流といわれる頭山が密接に繋がっている史実をどう解釈すればいいのでしょう。玄洋社の運動が自由民権運からスタートし、互いに頻繁に往来していました。そういう史実を知れば中江と頭山の関係は自ずと分かるものです。中江兆民の死期が近い時にその枕頭にいたのは頭山でした。頭山は戦時中でも共産党員が特高警察につかまって拷問受けているのを助けたりしていたという話を聞くと信じられないという研究者が多いのが現実です。

―霊園から近代史を見るという、これまでにない手法で歴史を紐解いていらっしゃいますが、このきっかけは?

浦辺 元々玄洋社の実像を調べていたのですがその過程で玄洋社が関って支援した朝鮮開化党の金玉均の墓が青山霊園にあると知ったのがきっかけでした。わずかな手がかりでもと思っていたんですが、導かれるように次々と玄洋社に関りのある人々の墓所に遭遇しました。このことは日本の近代史に多くの玄洋社の社員が関っていた証拠です。

 今、日韓関係が歴史問題でギクシャクしていて、日本人の中でも嫌韓感情が噴出している感じがしますが、そんな人は玄洋社が朝鮮人を支援していたと聞くとわが耳を疑うかもしれません。「助けを求めてきた人間は助ける」、窮鳥懐に入るという玄洋社の基本的な精神が根底にあったからです。そこには右も左もないという、スケールの大きさを感じますね。その精神の根源にあるのは敬天愛人、隣人愛ではないでしょうか。「このままでは朝鮮は滅びてしまう。日本のように改革しなければ」と言葉、理念だけではなく命をかけて支援しました。

 初めて金玉均の墓所を訪ねた時に霊園にある埋葬者のリストを眺めていると、「えっ?!ここに頭山満の墓があるのか」と驚きました。その後、谷中霊園を訪れている時、来島恒喜の墓を勝海舟が建てたことにも驚きました。そうやって辿っていくと、日本の近代を築いた人々が、戦後敵同士と思われた人物のお墓が仲良く並んでいたりします。紙に書いたものは改ざんされやすいのですが、墓石に刻んだものは改ざんされにくい。碑名や碑文、誰が建てたかを確認することで、紙の資料を読むだけでは見えてこない人間関係が見えてきます。

 浦辺氏プロフィール

昭和31年、福岡県生まれ 福岡大学ドイツ語学科在学中から雑誌等への投稿を始める。学生時代にベルリンの壁を単独で越えた体験が文章を書くきっかけになった。インターネット書評「bk1」では“書評の鉄人”の称号を得る。サラリーマン時代に「熱い書評から親しむ感動の名著」(共著、すばる舎)を上梓。平成21年、オランダ系生命保険会社を退職後、執筆活動に入る。

著書「アジア独立と東京五輪」「東京の片隅から見た近代日本」「霊園から見た近代日本」「大宰府天満宮の定遠館」(いずれも弦書房刊)

(フォーNET 2014年5月号 文責・編集部)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?