メジロ

日本人として生きるために(分かりやすい儒学講座)(心を正す)

聖書と論語

私は、学生・社会人を含め三年間、作家の故山本七平先生に師事しておりました。山本七平は、在野の評論家で山本書店店主、文部科学省教育審議会会長を務められ、著書は「論語の読み方」「聖書の常識」「徳川家康」など多数遺しておられ、とくにその社会学は「山本学」と言われるように独自のものを作り上げられた方です。私はこの時期に西洋・東洋思想のイロハを学ぶことができ、今の陽明学研究の基礎を作って頂いたと思っております。

先生に師事していた時代、東洋哲学はもちろんですが、特に聖書に関して学ばさせていただきました。当時はよく分からなかったのですが、陽明学を研究していくにつれ、聖書(特に新約聖書)と陽明学の共通点を見出すようになりました。

内村鑑三が「『キリスト教は陽明学に似ている。わが国の分解は此れを以って始まらん』維新の志士として有名な長州の軍略家高杉晋作は、長崎にて始めて基督教聖書を調べてこう叫んだ」と語ったように、高杉はその本質的な共通性を感じ取っていたのでしょう。                       

聖書の「自らを愛するように、汝の隣人を愛せよ」も陽明学に通じるものです。

また「恩讐の敵を愛せよ」という聖書の言葉もそのまま理解しようとすると真意が分かりづらいのですが、陽明学を研究するようになってその真意が少しずつ分かってきたように思います。聖書(新約聖書)も陽明学も外のものを追うよりも内なるものの内容を重視しています。自分が許せない「恩讐の敵」とは、自分自身の心の内にある醜さです。最も自分が苦手とする、憎らしい相手を映し出す自分の曇った心の鏡なのです。

山本先生は日頃、「聖書が分からなければ論語がわからない、論語が分からなければ聖書が分からない」が口癖でした。先生のご尊父は内村鑑三の流れを汲むクリスチャンだったので小さい頃から聖書に親しんでいたことと、ご尊父の方針で幼い頃から『四書・五経』を学んでおられたようなので、偏見なき見方をしてイデオロギーに囚われない自由な考え方はここから養われたのだと思います。私は、先生の門を叩いて初めて聖書に触れたのですが、とにかく先生の話は難しく理系学生の私には全く理解できませんでした。

先生の話でしっかり残っているといえば、時より話される軍隊時代のお話だけで、聖書も論語も私にとっては完全に蚊帳の外のお話でした。社会人になって聖書には、時折触れていたのですが、論語は完全にダンボールの中でした。儒学・陽明学を本格的に研究しようと思いたち、『四書・五経』の研究に本格的に取り組み始めたのは、大学を卒業し社会人になり、更に会社を辞めた数十年後の事で、陽明学の先生の門を叩いたのがきっかけで、陽明学の内容に触れ、山本先生がおっしゃっていた事が記憶の底から蘇り、それが様々なことと結びつき出し、私にとっては長いあいだダンボールの中に埋もれていた『論語』と『聖書』をもう一度表に出すきっかけとなりました。

陽明学は、今の段階では儒教(学)の孔子の思想の完成形と言ってもいいでしょう。なぜならば陽明学は朱子学と違い、孔子の原点にたち返ることを主にしていますので、儒教(学)の中では最も古く、そして最も新しいものなのです。


思いやりの大切さ


「汝の隣人を愛せ」という聖書の言葉は、論語では恕(じょ)の一文字で表されるでしょう。「其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ。」(『論語』顔淵12・2)孔子が人生で一番大切なことだと説いたのが「恕=思いやり」です。自らの心のあり方によって相手が恩讐の対象になってしまうのです。

聖書では「自分にしてもらいたいと望む通り、人にもそのようにしなさい」(ルカ福音書6-31)という表現がありますが、これと比較してみると聖書と論語で表現が逆ですが人にとって大切なことは「思いやり」であることを言い表しています。

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