帰路

日本人として生きるために 分かりやすい儒学講座 「正心誠意」


「断捨離」では捨てられないもの

二〇一〇年の流行語大賞になって以来、息の長いブームが続いているのが、「断・捨・離」(だんしゃり)です。ヨガの行法から来ているそうですが、人生や日常生活に不要なモノを断つ、あるいは捨てることで、モノへの執着から開放されて、身軽で快適な人生を生きようという考え方のようです。ここで問題にすべきなのは、モノを捨てることよりも、モノに対する心のあり方で、こだわりを捨てる、執着から解放される生き方を陽明学では説いています。そのために、「自分」と「モノ」の違いを明確にしなければなりません。それでは「自分」とは何か。陽明学では自分の心の本体、すなわち良知が真の「自分」であって、それ以外を「モノ・事」と定義しています。つまり、自分の体でさえもモノと捉えているのです。人間関係も「モノ・事」、自分の職業、地位、お金も「モノ・事」なのです。徒にモノを否定しているわけではないのですが、自分の心を騙す、誤魔化す必要以上の「モノ・事」は、自分の心の自由性を妨げるものだから執着し過ぎてはいけませんよ、というわけです。
世間で言う「断捨離」は、あくまでもモノへの執着からの解放を勧めていますが、陽明学では自分の地位、おカネは勿論、場合によってはこだわりのある自分自身を捨てよと教えています。
 なぜなら、素直な自分あっても地位やおカネ、虚栄心など色んな欲という殻を纏っていくと、最後には本来の自分の心、良知とかけ離れた人格になってしまうからなのです。人間は、本来の素の自分に自信がなくなると、その度合いに応じてどんどん鎧を着てしまいます。鎧を着た自分でないと不安になってしまいます。もっとも、孔子が言っているように人間は本来一人では生きられない存在で、当たり前のように孤独感、疎外感を感じ、当然何らかの形で自分自身に鎧を纏ってしまいます。
孔子の教えの中心となるのが「人と共に生きること」、そのために最も大切なものが「仁」で、五徳(仁義礼智信)の中でこれが最高の徳とされています。
さて「仁」とは?と尋ねられると一言で言えば「愛」という言葉が当てはまるのでしょうが、孟子が「強く恕(じょ)して行う、仁を求むること、これより近きはなし」と言っているように、「恕(じょ)」つまり「思いやり」こそが愛ある人となるために最も必要なことなのです。しかし、「思いやり」にも、本当に自分の真心から相手のためにしてあげたいと発露する場合と、最初から「よく思われたい」などの打算的な心の発露からくるものがあります。こうした打算的な生き方を長く続けていると、いつしか本当の自分というものが分からなくなってきます。本当の自分と、嘘の自分の乖離がますます酷くなってきます。陽明学の中に「明鏡論」というものがあります。日本人が古来大切にしてきた考え方と同じものですが、他人とは自分の心の「うつし鏡」で、自分の心の鏡を曇らせないようにしておけば、目の前で展開する「モノ・事」の本質が見分けられ、自分に降りかかる問題も解決できるというのです。
Aさんが感じるCさんの「好感を持てる」という人物像と、BさんがCさんに感じる「少し生意気だ」という人物像が違うのは、A、Bと同じCという人間を観ているのに違うのはそれぞれの心のあり方が違うからです。つまり、「自分の心」に写る相手の姿が「そういう人だ!」と思わせているのです。特に、怒り、嫉妬など負の感情を相手に持って、出会ったら相手もそう思ってしまうのはよくある話です。だからこそ自分の「心を正す」こと,つまり自分の考え方や物の見方を反省(内省)することが日常生活の中で大切になります。

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