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苦悩とエラーの大切さ

この後期の授業では所属しているビジネスコース以外のコースの授業も履修することにしました。

まじめな大学院生です。

その授業の主題は別なのですが、初回のオリエンテーションを聞き理解したテーマとして

「苦悩」が人の人生における転機となり、重要なファクターであるという話。

それと近しい感覚を持つんですが、最近読んだ本の中に出てきた「エラー」の必要性。

それらについて、今回は僕の考えを言語化したいと思いました。


苦悩(suffering)の価値

国語辞典で調べると、「悩み苦しむこと」

英語ではsuffering


ここで表現している苦悩というのは、明日学校に行きたくないな、とか、あの人不機嫌そうで嫌だな、とかそういうレベル感の話ではなく。

人生の大きな転機となる出来事であったり、僕のnoteでは転機として書いていたりしますが、人生の「底つき経験」というたぐいのものを想定しています。


もちろん、学校に行きたくない、というつらい気持ちも、人によっては大きな出来事ですし、つらさ、しんどさ、苦悩という言葉で表されるものが、その人にとってどのような影響を与えるのかは、その人の主観によるものでしょう。

その主観によると思いますが、人生に大きな影響を与えるくらいの、強いインパクトのあるエピソードとでも表現できるでしょうか。


自分自身のこれまでの人生の経験でも、その点は間違いないことかなと思っているのですが。
「苦悩」こそが人生の転機となるということです。


深い沼にハマってそこから出てこられないような、数ヶ月、数年続いた苦悩の果てに出会う人生の底つきがあったからこそ、

自分自身の人生の無力さを実感できたわけです。

僕にとっては、それは非常に重要なファクターとなったわけです。


でも、普段生活していたり、社会の中で見聞きするのは、そういう苦悩をいかに避けるか、という話が多いですよね。

リスク回避。失敗を避ける。ケガさせない。


気持ちはわからなくもないですし、不必要なリスクはとる必要ないですが。

でもその結果として、転機を逃している可能性があるんじゃないかという気はしています。


前職時代にしていたピアスタッフ関係の研究でも、底つき経験のあるなしが働き方に影響を与える要素じゃないかという話もしていました。

魅力的に感じる人と出会って、その人の反省をヒアリングしていると

出来事の大小は違いますが、その人なりの底つき経験みたいなものがあります。

その経験がその人を成長させているのかなと。


適切に底をつくこと。

失敗すること、悩むこと、解決しないことの価値。

そういったものが、あるんじゃないかなと考えています。



エラーの意味

続いてこちら。

ちょうど先日から少しずつ読んでいる本の中に
偶然の価値やエラーが、自然界で生産性向上のためには必要不可欠であるといった記述がありました。


生産性という言葉を使う人、多くなりましたね。

いかに効率よく結果に結びつけるかという話で、まったく僕も大切な考え方ではあると思っています。

だらだら無駄で本質的でない議論をしたり、非効率的で合理的でない行為や作業を積み重ねることほど、人を疲れさせるものはないなと思っています。


ただ、やみくもにその効率だけを追求するのもちょっと、というのが今回の話題ですが。

短期的な生産性向上という視点では確かにミスは少ない方がよくて、できるだけ正確な方がよいはずなのですが。

少し長い目でみたときに、中長期的には適切な失敗が偶発性を生み出し、変化を生むということも、また事実なのかなと。


偶然おこるエラーによって、違ったパターンが生み出されて、そこからまた新しい変化に繋がったり、結果としての進化に繋がったりということもあります。


「正確に、常に同じ」

が求められるのは、その何かしらのものの、環境が変化しないことが前提で、100%正確になるのかなと思っています。


周囲の環境が変化していっているのに、行為だけは変わらず変化しなければ、一時的には良くても長い目で見たら大きなずれになってしまうわけです。

社会の変化がすさまじく、想像つかないなかで、計画的に正確性だけを求めて行動する限界は目に見えていますよね。


今の社会がものすごいスピードで変化しているのに、昔と同じ生き方していて苦しくなっている人を日本社会ではたくさん見かける気がしますね。


そもそも「進化」も変化のない正確な歩みの中に出てきた偶発性が、時代の変化に適合した結果ともいえるのかなと思いますし。

やはり偶然の出来事、失敗、にこそ価値があるのかなと。



人生遊びが大切

モノとモノの接合部分に隙間があることによって、膨張したり環境によりその物質が変化した時にも全体を崩さずに適合するために必要なものとして、設けられるもので。

鉄道のレールの接続部なんかも隙間があるのは、わりとみんな知ってることなのかしら。

何事にもその「あそび」が必要という話ですね。


ギリギリ限界まで無理したり、正確性を追求したりすることは、長い目でみたら無理があるという話。

あと、正確性や安全性を重視しすぎて、失敗したり苦悩したりする機会を無くしてしまうのも、もったいないなと。

適度なあそびが人生の偶発性を生み、自分が思い描いていない面白い人生を与えてくれるのだと思っています。


今日はこれくらいで、ありがとうございます。



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