【レビュー】砂紋と躯の浸透――吉田志穂「砂の下の鯨」(hpgrp GALLERY TOKYO)

 海風にあおられた砂が舞い、すでにそこにあった何かの上に降る。そうやって砂の下に潜る何かは、かつて打ち上げられた鯨の躯かもしれず、砂の表面がなす縞状の肌理は鯨の皮膚の肌理のようで、その模様を描くのが風と砂なのか、それともその下に横たわる鯨なのか、判然としない。
 連想的な想像力とはつねに、判然としないこと、あるものが別のなにものかでもあり得るという、イメージの隠喩的な読み換えを頼りにしてはいなかったか。そうした経験はあるいは、焦点をいったん弛緩させ結びなおすこと、地と図の交換という知覚的判断の揺れにかかわるかもしれない。向かい合う2人の人物と壷とが、透明な(注意の外に後退する)背景と不透明な図像という属性を互いに交換し続ける、よく知られたダブルイメージのように。だからそれは透明さと不透明さが私たちの眼のなかで入れ替わる状況なのであって、不透明な物質の上に同じく不透明な物質がたんに載っているというような客観的事実をいうのではない。
 「砂の下の鯨」において吉田志穂の制作を動機づける基本イメージはしかし、鯨の上の砂という客観的事実の描写であるようにも思え、だとすればそれは、何らかの理由で漂着した鯨が砂にまみれているという観察の報告でしかないのだろうか。
 だがその、砂の下の鯨/鯨の上の砂、というイメージは、あらかじめ据え置かれ撮られるのを待っている一つのモチーフなどではおそらくないだろう。また鯨の漂着を伝える報道写真が含まれているからといって、この展示そのものが報道的なリアリズムを意図しているわけでないことは明らかだ。反対に吉田の制作は、正確に写された客観的な事実といったものを突き抜け、冒頭で触れたように、イメージの連想的な膨らみへとモチーフを押し開く手続きなのだ。あるときは縞模様が砂浜の表情として見え(不透明化し)、またあるときは鯨の畝として見えるというその交換、弛緩と再焦点化のプロセスは、形態変化(メタモルフォーシス)であると同時に形態破壊的(ディスモルフィック)であるような、解体と再構築のプロセスともいえるかもしれない。
 ところで写真とは、眼の外部化、つまり眼の代理物として身体の外に構成された機械=カメラによって産み出される画像だ。それは脱肉体化された純粋な視覚として、現実の濁りのない写しという地位を期待されもした。そこでは観察する主体と観察される客体が明確に区分され、対象の見えに不安定な身体器官が干渉することはないだろう。
 しかしカメラが身体の外にあることはそれ自体がすでに、視覚の外在化、分離であり、統一的な自我の解体をもたらしている。ゆえにそのとき、実は「主体」という遠近法的な特権的視点の基盤がそもそも掘り崩されている(それとともに、「客体」という二項対立のもう一方もまた意味をなさなくなる)のであり、視点は多元化されているというわけだ。全体を見通す「一つの」眼は消え、複数の視線が交錯することで、つまり眼の代理物=記号が複数的に関係することで、世界が織物=テクストのように構成される。かつて遠近法的な視点の主体とは、世界を「見る」主体であると同時に、世界を「創る」主体でもあるような、超越的な身分を占めていた。しかしテクストと化した世界の住人にとって、「もはや『見る』ことは、肉眼でみること、知覚することを越えて、何かを読むことにほかならないし、そのときに用いる道具、あるいは装置が『眼』の役割を果たすようになった」(*1)。
 本展で展示されていた、「砂浜の写真」の写真、というべき入れ子状のイメージ(《砂の下の鯨_02》《砂の下の鯨_03》)は、こうした視点の分離を示すと同時に、破片的なイメージの複数性に依拠するものでもある。それは砂と鯨の関係性が、素朴な経験的事実としてではなく、アナロジー的な「読み」によって媒介された2つの代理表象(共通の特徴を備えるイメージとして修飾された2つのモデル)の関係としてのみありえていることを指し示している。あるいは吉田の制作プロセスにおいて重要な位置を占めているだろう、web上のデータベースから得られた検索画像の束は、それ自体テクスト的な形態をなしている(分節と結合が繰り広げられる織布webとしてのサイバースペース)。
 本展の空間は、ただバラバラなイメージが散乱しているというものではなかった。そこにあったのはあくまで、砂紋と鯨の皮膚とのアナロジーを駆動させる、確信めいた思考に導かれたものだった。だが探られていたのは、何もないところから世界を「創る」ことではなかった。むしろ、切れ目のない織布に対して、ある「読み」のフィルターをかけること。個々の画像/写真にも加工を施し、驚くべき秘密の詰まった細部を際立たせ、次々と連合させること。そうして、砂浜の表面と鯨の皮膚はにわかに接近する。いまや、砂の下に鯨がいるのではない。砂浜の広がりが鯨の雄大な躯となり、鯨の腹部に走る筋の表情が、風と砂のデッサンとなる。
 印象的だったのは、粗い粒子の肌理に入った亀裂のイメージだった。稲妻を思わせる線形は、何かの文字のようにも見え、それはまさしく「読ませる」イメージであることをほのめかしている。しかし「砂の下の鯨」の空間を貫通するようなその形象は、それにとどまらず、波頭の稜線となり、鯨の腹のスリットとなり、座礁したその躯に刻まれた傷となり、あるいは――。そこには読みの充実がある。その充実とはもちろん、あらかじめ解読されるべきものとして想定された真実のようなものではなく、思いがけず発見されてしまった偶然の結びつきが必然的なものとなる、そうした出来事への新鮮な驚きとともにある。


(*1)多木浩二『眼の隠喩 視線の現象学』、筑摩書房、2008年、159頁。

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