いただきます。

もうすぐGove旅行から帰ってきて一ヶ月。
今年も運良く会いたい人にとことん会えて、充実した滞在の中で多くを学ばせてもらった。

今回も個人的に感じた事は沢山あるけれど、ここに書けそうな事といえば、現地と日本国内でのイダキへの認識のギャップだ。

僕自身、イダキを学ぶ上で大きな壁となっていた認識のギャップについて書きたいと思う。



まず日本ではこの楽器を難しく捉え過ぎている節がある。見た通りイダキは物凄く原始的でシンプルな物なので、もっと気軽なものとして捉えるべきじゃ無いかと感じている。

現地でイダキを見ていて感じる事は、
イダキは生活の一部であるという事。
あからさまな神聖さや難解さなどを感じさせない、良い意味で適当な物に感じる。

例えるなら僕らが食事の際に『いただきます』と言う感覚に近いと感じる。

真意を知った上で、意味合いや感情にその都度意識を向ける事なく、『いただきます』と適当に言って食事を始める事は日常ではよくある事だと思う。

『いただきます』は僕ら日本人にとって大切な習慣であり大袈裟な物では無いように、イダキにもそれを感じる。


僕がイダキを始めた頃は、
女性はイダキを鳴らしてはいけない。から始まり、ヨガとの混同、循環呼吸法、丹田呼吸法、唇の震わせ方、ハミングの発声法などを説く日本人もいたが、実際ヨォロンゴ族がイダキを説明する中でそんな類いの言葉を使っているのを聞いた事は一切無いし、僕には足枷にしかならなかった。

ネイティヴにとっては、唄があって伴奏楽器としてのイダキがあって、日常的な体験を通して理解が進み、演奏出来るようになるんだと思う。

日本で暮らしていても擬似的にそんな環境を作り出す事である程度、身体に染み込ませて行く事ができるんじゃないかと思う。

難解な教えや、曖昧な情報は必要なく、
シンプルに体験が演奏に反映されていく。

言葉にすればする程、遠ざかり、
意識すればする程、屈折してしまう。

僕自身、他人の言葉に振り回されたり、感覚の世界に惑わされていた時期もあったけど、難しく考える事から遠ざかる事で、シンプルなこの楽器の、ありのままを感じれるようになった。

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