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怒らない、3日目

すぐ怒る自分がいやだった。
まだ、怒らない3日目だから、いやだった、と過去形で記していいのか悩むけど、意識をしながら3日もいらいらを出さないことができたことは、怒る自分がいやだと思い出して初めてな気がする。

それくらいなんにでもいらいらしやすい自分を変えたくて、怒らない技術とかの本をいろいろ読んでみたりした。
怒りがわいたときに、深呼吸したらいいんだとか、ゆっくりむっつ数えてみたらとか、怒ると自分の身体に悪いとか、そのときに知恵を得るんだけど、いざいらいらがやってきたときに、呼吸のことなんて忘れてるし、数を数える気持ちにも健康を憂う気持ちにもなれやせず。

そして、お客さんやら上司や同僚やらに、いらいらをアピールするような物言いをしてしまい、帰りの車で、自分いややいややと思い続け、ストレス発散だとばかりコンビニに立ち寄り、甘いものやら辛いものやらしゅわっとするものやらを買い込んで帰る日々。

そんなこんなを、食生活も含めて変えたくて、連休中にふたたび本屋へ。悩んだときはいつも本屋。これも人に答えを委ねてしまう自分のあらわれか。

そこで出会った本、というか昔買ったことがあっていちど手放した本を、ふたたび手に取り買った。
ひすいこたろうさんの、あなたの人生がつまらないと思うんなら、それはあなた自身がつまらなくしているんだぜ。

そして買ったものの読まないまま、本棚に並んでた本。
さとうみつろうさんの神さまとのおしゃべり。

この2冊を一気に読んでみた。

結果得たものがあったんだと思う。
読後、わたしは3日間いらいらしていない。

ひとつ。
感情がわくのは、目の前のできごとが原因ではなく、それを悪いことだと思いこんだ自分の固定観念こそが真の原因だということ。

そんなことにいまさら気づくなんてと思われるかもしれないけど、いままで自分は、周りの人に対して、こうあるべきなのにやらない、やってくれない、こうあるべきじゃないの?と思うことで、自分はまちがってない、相手がまちがってると思って、いらいらしていた。
そして、それにいらつく自分を知ることで、それを改めてくれないかと思いながら、そのいらいらを相手に表現していた。
でも、正しいとか間違いとか、常識とか非常識とか、それだって、それぞれの主観でしかなくて、一般的、というものもほんとはない。そこにまずはっとした。自分の主観だけで人をはかって裁いた気でいたわたし。

ふたつ。
他人のことばにパワーを与えるのはわたし自身、ということ。
例えば、誰かにデブと言われたりブサイクと言われたりするとわたしは傷付く。でも、ナリキン野郎といわれても傷付かない。これはわたしが自分のことをデブとかブサイクとかは思うところがあるからひっかかるんだけど、お金持ちではないと思ってるからナリキンはスルーできる、ということ。
わたし自身がふだん悩んだり思ってることがあれば、それに関することばを誰かが発したときには過剰に反応してしまうということ。

自分の怒りも、これと同じだと思った。
自分の主観で、べき、をあれこれ決めつけてしまっていて、そこを外れる言葉や行動が耳に目に入ったときに過剰反応してしまう。
でも、自分の、べき、に沿ってたり、逆らわないものに対してはいらいら反応が出ない。

とりあえず、このふたつを拾ったけど、いろんなとこにわたしを変えるためのちりばめがあったのだと思う。名詞はおかしかったか、ちりばめ。

まとめ。
わたしをいらいらさせる人や発言や物事というのは存在しない。
わたしがそれらを、わたしをいらいらさせるものと勝手に反応、判断しているだけ、ということ。要はわたしがわたしの固定観念によって、怒りを勝手に作り出していただけ、という気づきだった。そしてこの固定観念だって、主観的なものでしかなく、世界中のみんな、自分が正しいと思ってるということ。

こうやって文字にしてみると、簡単なことに思えると思う。

でもこれをただ文字を通して分かった気になるのではなく、自分の中にすとんと落とせたからこそ、いつもならいらいらしてしまう場面にあたったときに、相手のわたしへの発言や行動に対して、わたしはいらいらが湧かなくなった。
わたしの固定観念の、もろさというか、たいしたことなさにちょっと気づけたからだと思う。

今まで、いらいらがわいたときに対処する方法をあれこれ拾っていたのだけど、この連休明けからの3日間は、いらいらそのものが発生していない。この違いの大きさ。

そして、つつがなく過ごせた日の、帰途につく車の中、自分をきらいにならないでいられる凪のこころ。コンビニに駆け込まない自分。こんな自分をすきになる感覚。それが小さな喜びとなってフィードバックされていくから、わたしは怒らない日々をもっと続けていけるような気がする。

本。
ひとつの本に綴られてる文字はいつも同じもののはずなのに、読み手の心の状態で、拾う情報が違ってくる。拾えないときもあるし、打たれて涙するときもあるし、ときが経って手に取るとぐっとくるときもある。
いつ行っても、大きい書店でも、小さい書店でも、そのときどきに、自分にひっかかり手に取る本と出会える。これはしあわせなことだと思う。でもひっかかる本の数だけ、自分の心に、欲するものや、悩みや、叶えたい物事があるということなんだよなあとも思う。

長年抱えてきた、怒りとの付き合い方を、もし、このまま、自分の望むように持っていけたら、そのときわたしはどんな風に変わってるだろう。自己啓発本はきっといらなくなる気がする。それくらい怒ることへの憂いは深い。

さてさて、
この怒らない3日間をこれからも継続していくための日記でした。

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