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尽くす

新年あけましておめでとうございます。2020年…24の代となり、生まれて2回目の年男です。
このnoteの話は12月後半に書こうと思ってたのだが、年が明けてしまった…。この腰の重たさは何とかしないとなぁ。。。

”尽くす”正直この言葉は好きではない。
自称尽くす、尽くせるという人はある閾値を超えるとその途端わけわからんぐらいキレて、今までの恩を返せとまで言いそうだ。あるいは相手任せで自己決定できないか(その人も途端にキレそう)。ハッキリ言ってウザい。

そんな僕だが先日ある人と話をしていてその”尽くす”という話題になった。
真に他人に尽くす、そのためにはまず自分の我を捨てる事が必要であり、捨てるには、我に気づき、我があると認め、その我を受け入れることから始まる(ザックリと我とは自分の行動に対して自分が欲している、対価や感謝などの見返り、エゴのことだ)。
そして自身の我を受け入れた先に、相手のすべてを受け入れる、自分がアレしたらいいのに、こうなればいいのに、など思っていようとそれを我として受け入れ、相手受け入れる、それが”尽くす”って事だと思う、そんな事を言っていた。。。

『はぁ?なんだそれ、、、人間の発達段階として高すぎて意味わからん。。。』


そんな「はぁ?」ってな毎日を送っていたが、一つ”尽くす”に近いエピソードがあった。

それは去年関西に行ったとき、向こうに住んでいる友人とふらふらと遊ぶ予定だった。しかし、当日になってもその友人は現れず、連絡もつかない、仕方なしに僕は一人でふらふらと楽しんだ(かなり満喫した)、結局夕方ごろに連絡がつき、晩飯を共にした。
要は半すっぽかしな訳で、まぁ、イラっとしたり、心配したりとあった訳だが、なまじ時間があったので内省していた。そのうち『一緒に遊べたら~とは勝手に自分が思っていただけだしなぁ~、まぁ、幸せならいっか~』と思うようになり、イラつきなどはどっかへ行ってしまった。ましてや僕の考えとして”人間、勝手に勝手に幸せになる”というモノがあり、本来予定や決まりごとに対して潔癖なその友人が遺憾なく勝手を行使してくれているので一縷の嬉しさまで感じていた。

なんていうか、この”ただただ相手の幸せを祈り、幸せであると信じる”これは”尽くす”に繋がる考えかもな、と思った。


とはいえ、僕という人間はなんとも傲慢で勘違いしやすく、近くにいる人ほど自分の手の中にいると思いたがり、遠くの人にはそもそもの関心がなかったり、すぐに見限ったりしてしまう。。。

いかにして他人の幸せを祈り、信じ、寄り添い、尽くすことができるのか…、我を我として受け入れられるのか、そもそも我に気付くことが出来るか…、寛容なのか無関心なのか…、そんな自問自答を今年も繰り返すのだろうな、ちっとはマシな人間になれるように。


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