「和賀英良」獄中からの手紙(26) 烏丸教授の告白
―留学中の訪問者―
烏丸先生があるときベッドの中でこう言いました。
「ねえ英良、これは誰にも言っちゃだめだよ」
自分が首を縦に振ると、先生が東京藝大を卒業してフルブライト留学生としてアメリカに渡り、ニューイングランド音楽院に留学した時の話を始めました。
その内容は、要約すると次のようになります。
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私は大学時代、世田谷区等々力にある田所家に下宿していました。
これは後から知ったのですが、勘当されたとはいえ、鹿児島の烏丸の実家が自分の身を案じて、東京の知人を通じて密かに住む場所を準備していたことが真相のようです。
田所家はその指示に従って私を下宿させるべく、藝大の事務局に伝えていたようで、大学の窓口では「下宿先はここが良いでしょう」という段取り通りの進め方で、自分は何も疑問なく等々力に住むことになりました。大学からは少し遠い場所でしたが、一時間くらいで着くので気にはしていませんでした。
等々力には「等々力渓谷」という東京とは思えない美しい場所があって、神社と滝がある湧水が豊富な山奥のようなまったくの別世界でした。自分はよくこの等々力渓谷を散歩して、芸術的なイメージを膨らませたものです。
東京藝大を卒業後に留学はどうか、ということになり、現代作曲家を目指すには、やはり自由の国であるアメリカが良いだろう、ということで、取り急ぎ下宿先の当時は文部省官僚であった田所氏に相談したところ「私にまかせなさい」と、すぐにニューイングランド音楽院への留学が決まりました。
ニューイングランド音楽院は、マサチューセッツ州ボストン市に本部を置くアメリカの私立大学で、1867年創立。音楽大学としては最難関でアメリカ国内最古の音楽教育施設です。
当時のフルブライト留学生は、たいへんな倍率でしたが、田所氏の後押しがあったようで、渡航費用から学費、はたまた生活費まで支給される、もう至れり尽くせりの留学でした。
こういったバックアップはその後の自分と田所氏の関係に十分に影響を与えており、ニューイングランド音楽院在学中も田所からの様々な指示に従っておりました。
さて、ここからが本題です。私がボストン在住のとき、ある紳士が訪ねてきたのです、黒いロングコートにハットをかぶった長身の上品な人物は、ミスター田所の指示で、あなたをサポートするように言われている、ということでした。
肩書は政府の教育関連のデパートメントの名刺を持っていましたが、これはあとで分かったことですが、CIAつまり米国中央諜報局の人物であったようです。
その人物があるとき、日本の留学生のケアをしているという「ヤマダ」という女性の部下を連れてきたのです。その方は聡明そうな普通の日本の婦人でしたが、英語がとても堪能で、日本出身だが今はアメリカに住んでいる、なにか困ったことがあればすぐに相談してください、とのことでした。
この女性はその後何度も連絡をしてきて、自宅のアパートで一緒に食事をしながら「ミスタータドコロは元気ですか?」「タドコロさんはいまどんな政府の仕事をしていますか?」などと聞かれ、面倒なので、こちらにはあまり連絡がなく良く知らないと答えていました。
別れ際には百ドルくらいのお金を毎回もらいました。
これは当時ではものすごく大金でしたが、音楽の勉強に使ってほしいとのことで、自分はこれらのことが田所氏の指示で遠回しに援助をしてもらっているものだと思い込み、まったく疑いもしませんでした。
しかし、在米二年を過ぎたあるとき、一時帰国した私が、等々力の田所邸におもむいて、何気なくその話を田所氏にしたところ、田所氏の顔色が一瞬にして変わりました。
「烏丸君、その女性は確かにヤマダというんだね」
「とりあえずその人とは今後いっさい会わないようにしてほしい」
田所氏はなにか情報を持っているようでした。あとで聞いた話ですが、日本のインテリジェンス、つまり公安諜報関係の部署がマークしているのが、その「ヤマダ」という女性で、まさしくアメリカ合衆国の中央情報局の人間だということなのです。
私に近づいてきたのは、こちらが田所氏に近しい関係だということを知って、諸々の情報をつかみたい、あるいは私をスパイに仕立てられないかどうか探っている、という意図だったように思います。
その後はその紳士や「ヤマダ」女史からはまったく連絡が無くなったのは、日本政府からの何らかの圧力があったと見るのが妥当でしょう。
しかしながら、こういった件や私が田所氏の指示に従順に従わざるを得ない、という「大きな借り」ができていったことは、金銭面の援助も含めてまったくの事実です。その証拠に、帰国以降に田所氏からの指示で動いたことは多数あります。
その一つが「下山事件」といわれる国鉄総裁の轢死事件に間接的にかわっているのです。
これは自分が墓場まで持っていくべき内容のひとつなのですが、その出来事の発端は私が帰国してからしばらくして、神奈川県にある児童養護ホームからピアノ演奏を頼まれた際に、その施設の創立者の女性から「ある事」を頼まれたことから始まります。
そのある事の発端は、あなたはアメリカ留学中に「ヤマダ」という女性と会ったことがありますか?という質問でした。私は「ヤマダさん」に会ったことがあると伝えると、こう言いました。
「あなたはそのヤマダさんから、なにか頼まれていることはありませんか?」
「いや、特に頼まれたことはありませんが、よく世間話をしながら食事を一緒にして別れ際に少しお金をいただいていましたが、なにか問題でしょうか?」
――以降不明――
第27話:https://note.com/ryohei_imanishi/n/n928b584f1938
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