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「和賀英良」獄中からの手紙(42)  丹下の憂い

ー丹下恭二の憂いー

「ねえあなた、裕太の学費って振り込んでくれたんですか?」

丹下は夕食後に突然妻に問われて思い出した。そうだ、先週も言われたことをすっかり忘れていた。息子の大学の学費の納入は今月の末までだった。

「前期分の振り込み、あなたのほうから必ずお願いしますね」

妻の百合子は、汚れた食器を洗いながら突き放すように言った。手元の茶碗が他の食器とぶつかる音が「ガチャガチャ」と大きな音をたてていた。

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 一人息子の裕太は駿河台にある大学の二年生であり、経済学部で学んでいる。髪を肩まで伸ばし、親父よりもはるかに背が高い裕太は、警察の仕事には全く興味がなく、逆に親が警視庁の刑事であることを友達に隠しているようだった。

母親もこの過酷な公務員としての仕事には興味がない。というよりまったく時間が決まっていない自由業のような生活に、子供が生まれてからずっと不満を持っているようだった。

丹下は5年ほど前から田所重喜議員とつながりを持つようになった。正確にいえば議員の秘書から「警察内部の情報が欲しい、それなりの報酬は支払う」というオファーが内密にありそれを承諾した。特に弱みを握られてのことではない。当時はその金で競馬などを妻に内緒でしていたが、株にも手を出した結果、かなりの借金を背負うようになった。

そして息子の大学の学費である。もう公務員だけの給与では自分の生活を賄えないようになっていたので、この田所からの臨時収入で生活はかなり助かっていた。

もちろん田所氏とは直接話をしたことは無いが、秘書とは週に一回は連絡を取っている。このところは例の「蒲田操車場殺人事件」のやりとりばかりになっていた。

事件の捜査本部主任は今西栄太郎であり、自分もその捜査班の一員として今西刑事とかなり近い立場にいた。捜査の進捗は逐次秘書に報告し、田所氏からの指示に従って動いていた。

捜査上で「カメダ」というのが人の名前ではなく「場所」を示すのではないか。それは秋田の「羽後亀田」ではないか。という捜査会議での流れを受けて、その情報を秘書にリークしたのは当日の夕方である。

それを受けて田所氏は「羽後亀田」に劇団員の男をすぐさま向かわせて、捜査のかく乱を企てたようだ。まったくもって手の込んだやり口である。そこまでしてどうするのか?自分はよくわからなったが、どうもこの事件の背後には田所が潜んでいることは間違いないだろう。

それを今西さんに報告できる勇気は自分にはなく、以前から報酬を受けているこの状況を変化させたくはなかった。
 
そういえば蒲田署の吉村刑事は俺のことが嫌いらしい。たまに視線を合わすと自分のもっさりとした髪の毛と口ひげを交互に見ながら、その大きな瞳で睨みつけるようにする。こちらもすこし後ろめたい事情もあるため、その視線を避けるようにしているが、まあ疑われているのだろう。

「あいつが捜査本部の情報を漏らしているんじゃないか?」吉村さんの目は無言でそう語っている。なにか裏を知っているようでちょっとやな感じだ。

今西さんには署内では気に入られていて、よく酒も飲む間柄だ。会議ではすぐ隣に座ることも多いが、自分はタバコばかり吹かしてあまり身が入っていない。そういえば今西刑事がこの一件で伊勢まで自費で調査に行った時、田所秘書から連絡があった。

「吉村刑事から本庁に連絡入ったら、匿名のタレコミがあったと言ってください。内容は『大阪で和賀英良の本籍を調べろ』……以上です」

いつものように会話は短く、指示だけですぐに電話は切られた。 

自分には意味が解らなかったが、和賀の出自に疑念があるということだろう。しかしテレビや新聞で見かける色白のヤサ男である「和賀英良」があの凄惨な事件をやったとは到底思えない。見込み違いではないだろうか。あるいは共犯者がいるのか?

まあ自分はこの流れで田所から報酬を得ていれば特に問題はないだろう。息子もこの夏に車の免許を取りたいと言っているので、また金が必要になる。しばらくはカミさんの小言に付き合いながら我慢の日々が続きそうだ。

丹下は自分のデスクで大きなため息をつきながら、新しいタバコに火をつけた。

バー「ろん」で店員の証言を聞く丹下恭二(右)©1974 松竹株式会社/橋本プロダクション

第43話: https://note.com/ryohei_imanishi/n/nf6841b3a0239

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