参院選に寄せて

7月21日日曜日、曇り

参議院議員選挙。開票速報は見ていない。見ていないけれど、どうにも堪らない結果になっているんだろう──という気はする。

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「ひろゆき」は、個人的には知り合いになりたくない嫌な奴だとおもうけれど、その視点には「なるほど」と考えさせられることがあり、さきほどもまた唸らされていた。

「若者が投票に行けば、政治は変えられるんだ!」みたいなことを言う人が居ますが、人口比率上、変えることはもう無理

無邪気に、「若年層が票を投じるようになれば、政治家も無視することはできなくなる」と、そんなことを考えていたのだけれど……、

20歳~39歳の若者が全員投票に行ったとしても、40歳以上の有権者が3倍ぐらい多いので、40歳以上の6割の投票を阻止するとかしないと勝てない

少子高齢化により構造的に若年層が少ないため、若者がどれだけ票を入れようと結局高齢者向けの政策が重視されるようになる。(というのが「国民の総意だ」ということになるため。票の数により)

これは──えぐい。

若者が(比較的に)軽視される政治が続くならば若者の数は減り続けるしかない(「保育園落ちた日本死ね!」という話もあった)。
政治家も、もし若者に向けた政策を実現したいとしても、票を確保しないことには実行力さえ持てないわけで、すると高齢者向けの政策を掲げざるをえない。そして当選したとして、掲げなかった若年層向けの政策の実現を企てたりはできない。(「景気浮揚」だとか「働きやすさ」だとか言えば、ひょっとしたら?)

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まだ僕は20年近く働ける時間を残しているわけで、そして働き続けるつもりではあるけれど、どうだろうか。

現状でなら現役の同僚たちの中でも優れて成果を出せている集団に属しているとおもっている。

けれどあと10年経ったらどうだろう。それでも優れたパフォーマンスを出し続けられるのか。あるいは、仮に優れたパフォーマンスを出し続けられているとしたら、それは自分が後進の成長の場を奪い続けているため、だなんてことはないだろうか。

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どこかで、なにかの掛け違いが起きているのか?

働ける人が働いていることに、間違いはないとおもう。

働く場がないことが問題なのか。
働いたことへの見返りがないことが問題なのか。

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生きていくためには「衣食住」の確保が必要で、ただ、そのうちいずれにも手がつかないような暮らしになっていることが、そもそもおかしいのかも、しれない。
つまり食べるものくらい、自給とまでは言わなくてもある程度、自分たちの手でつくれる必要があるのかもしれない。(作物的な意味で)

暮らすことに、生きていくことに、感じる不安。

それは自分の暮らしが、命が、自分では支えらないことに起因している、気がする。顔も声も知らない人たちが遥か遠くでつくった食材を「商品」としてあがなうしかなく、それを調理するのもガスや電気、水道とお金を使って確保せねばならず。生きるためには、とにかく交換可能なお金を使うしかない。そのためにどうやって稼ぐのか。

でも、基本に立ち返れば、ひょっとしたらお金なんかなくったって生きていけるのかもしれない。

どうあったって生きていける。
そういう確信がないことが、揺るがない太い幹が自分の内にないから、不安で生きづらいのかもしれない。

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投票に行くついでに聖蹟桜ヶ丘まで歩いて出てコーヒーを買い、そのままちょっと走ったりもして家に戻った。
妻をハグジードーナツに誘うということをおもいつかず、無念。

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