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1980年、中学三年生、広島の夏 ひとり旅 ③ 何も収穫がなかった旅

中学三年生の夏、私は、各駅停車を乗り継いで藤沢から広島まで一人旅をしました。ほとんど無計画な旅でした。また大きな野望を持って出かけた割には何も収穫のない旅でした。

アメリカという国が広島に原爆を落としたことについて知りたいと思いました。私にとってアメリカという国は特別な国でした。叔母さんが戦後まもなくアメリカ兵と結婚をしてアメリカに渡りました。その叔母さんからは季節が変わるたび、カラフルなアメリカンカラーの洋服やお菓子が届きました。また、父親の実家が横須賀にあり、当時の横須賀は屈強で陽気なアメリカ人であふれていました。私はそのアメリカ人たちと原爆を結びつけることができず、この目で広島を見に行くことにしました。

一日目の夜は、東海道線の夜行大垣行きのボックス席で眠り、二日目の夜は広島のユースホステルで過ごしました。三日目の朝、ユースホステルを出て路面電車に乗って平和記念公園に向かいました。

当時は今と違ってあらかじめ多くの情報を得ることができるような時代ではありません。着いた平和記念公園は、ほとんどの場所に規制がかかり、一般者が近づくことはできませんでした。仕方ないので私は、公園のはずれに立って遠くのテントを見つめていました。何が行われているのか、何が語られているのか、まったくわかりませんでした。ただセミの声だけが、けたたましく聞こえていたことだけを覚えています。

その足で、原爆資料館に向かいました。しかし、そこもいっぱいでした。帰りは新幹線の切符を買っていたので時間がなく入ることができませんでした。結局、何も収穫することなく帰ることになりました。

私が、原爆資料館に初めて入ったのは3年後の高校の修学旅行でした。その頃には、戦争についての知識も増えていました。この日本がどんなことをしたのかも知っていました。

「広島」に行った理由はもう一つあります。当時、私はラジオの深夜放送に夢中になっていました。その中でもかかさず聞いていたのがパックインミュージックという番組です。そこで読まれた一通の手紙がありました。それは、広島で被爆した親から産まれ、自分も放射線障害で苦しむ青年からの手紙でした。そのときに、世の中には一見しただけではわからない障害で苦しんでいる人がいることを意識しました。

下の娘がその頃の私と同じ年になり、インターネットで調べ物をしている姿を見て、あの頃の自分を思い出しました。

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