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コンテンツは、思考への暴力だ

私が心から尊敬し、憧れている女性のひとりに、超有名なクリエイターがいる。彼女は、家庭を持ちながら、文字通り伝説的なクリエイティブやことばを世の中に多く送り出し続けている。

そんな彼女から聞いて驚いた話がある。

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夕暮れ時。

息子さんとそのお友達二人が男の子同士でワイワイ話しているのを見かけたとき、ふとその話に彼女が耳を傾けていると、こんな会話が聞こえてきた。

「ああ〜はやく僕も大人になって、奥さんにお皿洗いとか家の掃除とか家のことをぜんぶ任せて外で仕事したい」

「わかる〜」

彼女は悲しくてびっくりして思わず聞いたそうだ、

「お母さんが一生懸命外ではたらく姿みてるでしょ?どうしてそんな事言うの?」

するとこのような回答が返ってきたというのである。

「だって、サザエさんちもクレヨンしんちゃんちもそうしてるよ」

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私は特定の作品を否定したかったわけではない。ただこの出来事は、普段見ているコンテンツに、私達がどれだけ影響を受けているのかということに気付かされるきっかけになった具体的なエピソードとして今もそのまま私の記憶の中に残っていたのである。

考えてみれば、「映像作品を見せる」とは、かなり暴力的な行為ではないだろうか。連続した映像と音を、ほぼ人の思考の入るスキマがないほどに濃縮して人にぶつけ続ける。

そうして、目に映る主人公の感情が、習慣が、言動が、心にゆっくり刷り込まれていく。それはときに私達を奮い立たせる。ただし一方で、レガシーな価値観を塗り込んでくることだってあるのだ。

ディズニーがストーリーをUpdateしていく現代

年明け、こんなエッセイを書いた。

このエッセイでは少ししか触れられていないが、明らかに最近の「ディズニープリンセス」は、「選ばれる女」から「自らの人生を選ぼうとする女」の話を描くようになっているように思う。私はその姿に何度も励まされた。

実写版アラジンのジャスミン、シュガー・ラッシュのヴァネロペ、トイ・ストーリー4のボー・ピープ、アナと雪の女王2のエルサ。

彼女たちは、人生を待つことなく、自分から切り開いていく。

25歳の頃、気づけば結婚できなさそうな自分を鑑みて「"選ばれ"なかったらどうしよう」と考えていた自分がいたが、それはどこかでおとぎ話のプリンセスの"選ばれている"様子にあこがれていた影響があるのかもしれない。おとぎ話のプリンセスは王子様に選ばれて「幸せに暮らしましたとさ」と伝えられているが、現実は、選ばれてから人生がはじまる。けれど、わたしたちはつい、「選ばれる」瞬間に焦点を当てがちだ。わたしたちが子供の頃見るおとぎ話は、じわじわとわたしたちの価値観に塗り込まれている。

そして、その刷り込まれていく感性を、ディズニーは変えようとしているのではないだろうかと思っている。沢山の女性の中から王子様にキスをされた瞬間に加えて、大嵐の中で船を漕ぎだすシーン、びしょ濡れになった冒険の先に仲間や成長に出会えるシーンにもまた、幼い少女が胸を熱くするように。

同じ時代を生きる人へ、わたしたちはつくっている

このように、クリエイティブを"フラットに""綺麗に""偏見なく"作ろうとすると、「それじゃあ芸術作品はつまらくなる。昔の作品だって、これらすべて許容されてきたのだ」という声があがったりする。

けれど思い返してみると、自分も文章や企画を世の中に放り投げる人間の端くれだけれど、いつもメッセージを届ける相手として頭に浮かぶのは「今を生きる人」である。過去に生きた誰かを動かすためにクリエイティブをつくったりはしない。

過去の作品は過去の価値観を見つめており、それを現代が迎合する理由はない。過去の価値観に沿ったものづくりをしたいと言うならば、現代の価値観によって殴られる覚悟もセットで携えなければならないのではないだろうか。時代も価値観も変わっている。

変わりゆく時代で、"過去はこうしたからこうしましょう"という選択は安全策ではなく、現代を見つめることへの諦めなのだ。

もしあなたが、いまをともに生きる誰かが詰まることなくごくごく飲める作品を作りたいならば、現代の価値観にフィットする表現を探り当てていかなければならない。それは現代の恋愛観や主人公の揺れ動く感情を観察する行為と同価値で同質のもののような気もする。

ちなみに、これは、コンテンツを消費する誰かにも心に留めておきたい考え方だ。

多くのクリエイティブは、過去の誰かを動かそうと作られたものではないと同時に、未来への意志や思いを掲げることはあっても、未来人の生きている世界に配慮しきったクリエイティブなのかどうかを確認することもまあない。

だからこそわたしたちは数年前の広告を掘り返して「こんなこと言うなんてひどい!」なんて言っても仕方がないし(その頃の時代の価値観を消費するのは良いけれど、それを現代に持ち込むのはご法度だと思う)、その約束を守ってこそ、「過去がこうだったからこういう表現も許してよ、というのは通用しませんから」という暗黙の了解のもと、握手できるのだと思う。

新しい価値観に配慮するのは難しい、だけど

人と接していると、「そういうことを言いたかったわけじゃないんだけれど」ということがよくある。「そんな風に傷つけるつもりはなかったんだ!」と言いたくなることがよくある。

だからこそ、まるで自分とは立ち場が違う人も含めて、万人に見てもらう表現をつくるのは難しい。

さらに今は「価値観」という人間の目に見えない部分が変化していっている分岐点のような時代であるようにも思う。数々の表現が「古い」「ひどい」と批判されるのは、わたしたちの他に、向こう岸にいる誰かが存在しているからなのだろう。

様々なまなざしがある現代だからこそ、友だちに、娘に、見せたいモノをつくれるよう、模索していきたい。そして消費する側も同様に、様々な作品にどう向き合っていくべきかを思考する時代が来ている。わたしたちは、すぐそばにあった、自分の知らなかったまなざしに気づいてしまったのだから。

様々なクリエイターが「変化しよう」と懸命になっている時代だ。新しい痛みから生まれるクリエイティブが、誰かの息苦しさを緩める瞬間に沢山立ち会える時代であるとも思う。

既存の価値観ガイドラインに沿ってデザインすることよりも、新しい価値観を定義していくことはとても難しい。けれど、その難しさに匙を投げず、「こんな難しい問題解けるわけあるか!」と逆上したりもせず、粛々と知恵を絞って向き合っていきたい。

わたしたちはきっと、いつかスタンダードになる価値観をつくりあげていく時代の担い手なのだ。傷ついたり、恥ずかしくなったりしながら、ひとつずつ積み上がる議論を重ねて、多くの人にとって美しい景色をつくっていこう。

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