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わたしたちの、"大人のおやすみセット"


数年前、当時の恋人と”新幹線旅行のお愉しみ”にしていることがあった。

品川駅でビールを買って、新幹線に乗り込むと、わたしたちは、買い込んだビールをちびちびと飲みながら、ちらちらと通路側を覗き込む。

待っているのは、車内販売のカートだ。

「きたきた」

車内販売のカートが来ると、私たちは目をきらきらさせて、お互いの顔をにこにこして見る。

いろんなひとが注文するものだから、なかなかこっちまで来なくて、じれったい。車内販売のカートのお姉さんが、色んな人の注文を受けて、サンドイッチを出したり、コーヒーを出したり、ビールを出したりしているのを、何度も通路の方に首を傾けて、じーーっと見てしまう。

やっと目の前までカートがやってくると、通路側の彼がすっと手を挙げる。

「はい〜、ありがとうございます」とお姉さん。

「あ、ビールと、アイスクリーム2つ」

注文すると自慢げな笑みで彼が私の方を見た。私もとってもうれしくなって、満面の笑みを返した。この瞬間がとってもわくわくする。

「どうぞ」

お姉さんがアイスクリームとスプーンをテーブルに置いてくれる。ご丁寧に、アイスの下に小さな手拭きまで置いてくれるんだ。

テーブルにビールとアイスクリームが揃っているのを見ると、私たちのうれしさは最高潮となるのであった。


***


アイスクリームとビール。

この、労働意欲の全く無い不真面目な組み合わせを、我々は「大人のおやすみセット」と名付けた。

ビールでほろ酔いになりながら、甘いアイスを食べていると、脳のネジがゆるんでいくのがわかる。新幹線のアイスクリームって、新幹線でしか見たことないアイスクリームで、そしてすごく甘さの密度が高くて美味しくて、旅の特別感を演出してきてずるい。

ゆるゆるした頭で、新幹線の窓から見える、流れていく田舎の景色をぼおっと眺めることのこの上ない幸福感よ。そして舌の上には、「冷たい」と「甘い」という官能が広がっているのだ。

大人のおやすみセットは、ビジネスの出張には似合わない。

完全に遊びの旅行へ向かう新幹線の中で、「これから遊びに行くんだ」と気分を高揚させる魔法なのである。

***

「でもさ〜、大人になってから新幹線でアイスとか買えるの一緒にいるときだけかも」

彼が残り少ないアイスをかき集めながら言う。

「どういうこと?」

「いや、俺男だから、自分だけじゃ恥ずかしくて買えないし、これまでの彼女の前では、変に格好つけちゃって買えなかったんだよな〜」

「……どういうこと?」

はじめて彼と"大人のおやすみセット"をやったとき、彼がそう言った。

褒められているのかわからなかったけれど、私は嬉しかった。彼はシャイな人だった。私以外の前ではあまり喋らない人だったから、なんとなくアイスを我慢している様子も想像できる。

そうして、”大人のおやすみセット”は我々にとって、我々の飾らない関係性を表現する象徴にもなった。

新幹線の旅行をするたび、我々ははしゃいでいた。旅行の前日には「明日は”大人のおやすみセット”しようね」と約束した。私たちは色んな所に行った。”大人のおやすみセット”を、旅の入り口にして。

***

2019年。

それから数年が経った。

私は一人で新幹線に乗っている。地元の京都に帰省するのだ。お母さんが私の大好きなハンバーグを作って待っているんだって。

結果的に、私たちはうまくいかなかった。

“うまくいかなかった恋に、意味はあるのだろうか”

ハチミツとクローバーの主人公・竹本祐太も最終回に自分に問うたセリフ。叶った恋というのは、相手に「恋人」だとか「妻」だとか名前もつけられるし、目に見える関係ができあがるので”意味がある”と知覚しやすい。名前に紐付いて、世の中が沢山の意味を提供してくれているし、目に見えたり名前があるものは、誰かも褒めやすい。褒められるものは「意味がある」と知覚しやすい。

だけど、叶わなかった恋は、そうじゃない。叶わなかった恋の先にいる私たちの関係に名前はないし、未来もない。だから誰にも見えない。褒められもしない。

“うまくいかなかった恋に、意味はあるのだろうか”

そんなの誰も、教えてくれない。だからこそ、叶わなかった恋に意味があったかなんて、自分で決めることしかできないのだ。

ビールを口元に傾けて外に目をやると、青々とした空が清々しく広がっているのがわかった。すべての景色は過ぎ去っていくけれど、その上にある空はどこまでも美しい。

「すみません、アイスをひとつ」

車内販売が回ってきていたので、私は思わず頼んだ。

お姉さんがテーブルにアイスを置いて、すでに呑んでいたビールと並べると、やっぱり私はうっとりした。この愉しみは、誰にも否定できない。

シャイなあの人は、この"大人のおやすみセット"、誰かと頼めるようになったかな。頼めてたらいいねって、まだ嘘をつけないことは許されたい。そんな思いがよぎって、景色と一緒に過ぎ去った。全ては過ぎ去っていく。

アイスの蓋を空けて、少々溶かすために少し待つ時間に、ビールに口をつけて、小さくこのアイスとビールのこの組み合わせに乾杯した。

どれだけの景色が過ぎ去っても、やっぱり、大人の休暇の入り口に、「大人のおやすみセット」は欠かせないのだ。これからも、ずっと。


このnoteは、キリン×note の「 #あの夏に乾杯 」コンテストの参考作品として書いたものです。
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