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「もてなしたい誰かと生きる」という贅沢

幸せってなんだろうなあ、と一週間に一度は考える。

物足りなく過ぎていく土曜日の深夜だったり、疲れ果てた金曜日だったり、寝坊した月曜の朝だったり、タイミングはいろいろだ。

8月1週目に私の誕生日があって、何日間に渡って、優しい友人たちがお祝いをしてくれた。

私の(そしてたぶん、私を!でもある)愛するその人達は、みんな「あなたのお誕生日をお祝いできて、嬉しいなあ」と言っていた。私はあんまりわからなかった。嬉しいのは私の方じゃない?普通。

私は「私の周りの人々はなんて心がきれいなひとばかりなのだろうか」と思いながら、何度も何度もその言葉を頭の中で反芻していた。そして気づいたことがある。

それは「好きな人をもてなす」って、とっても幸せなことだ!ということ。

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私は誰かに甘やかされるのが好きで、だから、当然のように甘やかし上手な人が好きだ。甘やかしとは、センスである。相手への洞察と、これまでの記憶の遡りを経て、得られた情報に対するソリューションが甘やかしなのだから。素敵な甘やかしを受けるたびに、「なんて素晴らしいんだ!甘やかしポイント贈呈!チャリーン!」という感じで、モリモリ加点してしまう。

一方で、好きな人を喜ばせるのもだいすき。好きな人を喜ばせるのって、いたずらを仕掛けるのに似てる気がしない?相手の行動を予測しながら、嬉しいびっくりを仕掛けるのは、日常の中じゃ眩しすぎるほどわくわくする。

思いもよらない花束や、綿密に練った旅程表、朝起きたときのカリカリに焼いたトーストと珈琲、重い荷物を持ってくれる帰り道、わかりやすくロマンチックな夜景、なんでもない日のLINE、歩道側を歩いてくれるコンビニまでの散歩道。

思い返して、相手の自分に対する観察眼に感動して「ありがとう」と言いたくなるような、そんな瞬間が、記念日でもない日に溢れている。未来の予定表を見ながら、「この日はどんな日にしようかな〜」と企みながらほくそ笑む自分がいる。

そういう日々を手に入れたなら、きっとそれを誰もが「幸せ」と名付けざるを得ないのではないだろうか。

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誰かと「幸せになりたい」と思うとき、私達はいつも「相手が何を持っていればいいか」を考えすぎてしまう。「大きな家を買える財力」とか、「友だちに紹介して恥ずかしくない学歴」とか、「隣を歩いて恥ずかしくない身長」とか。

だけどそれってとっても、「誰かにとって、幸せに見えるか」でしかない。本当に私達が探しているのは「もてなされ、もてなしたい誰か」ではなかったか。

相手の目を見て、「あんなことしたい」「あそこに連れて行ったら喜ぶだろうか」「これは今晩話さなきゃ!」というクリエイティビティが刺激されたならきっと、その先に”シアワセ”が埋まっている。好きな人へのホスピタリティが、自分を大きくまるく成長させてくれる日々を、渇望したい。

シアワセが多様化する現代のわたしたちに必要なのは、どこかに誰かと眠っている、”必殺技のように「おもてなし」を繰り出し合う日常”を探りあてる嗅覚なのかもしれない。

[あとがき]
一連の内容を考えるきっかけになったのは、林さんの「恋はいつもなにげなく始まってなにげなく終わる。」を読んだことからでした。なぜなら、この本にはスペック!とか、学歴!とかそういうものを度外視したピュアな恋愛が詰まっているから。そして、それが2018年に発売されてしまったからです。とっても素敵な本なので、みなさんぜひ読んでみてください!対談もしたよ。

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