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議論で、人を殴らない

尊敬する先輩と呑んでいるときに、「優秀だが惜しい人」の話をしたことがある。

「うちの会社にAさんという人がいるんだけど。Aさんはすごく優秀だけど、『議論で人を殴ろうとする』んだよね。この間も同じチームの人がAさんと違う意見を言ったときに、それが間違っている理由を沢山並べてひたすら批難して、相手が萎縮してしまって結局その場はAさんの意見が通ったんだけど」

うーん、と先輩は唸って続ける。

「議論の意味って、異なる意見を組み合わせて3つめの答えを見つけ出すっていうことじゃない?」

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私自身も学生の時はとてもプライドが高くて、自分の意見を誰かに見せたら、「意見を通す(意見aがあればaのまま実現する)」ということが是だと思っていた。しかし、社会人になってから、"企画"ということを仕事にするようになり、自分の意見がそのまま通ったことなんて、数えるほどしかない。というか、自分の意見が議論もなしにそのまま通ってしまったら、ものすごーーーく不安を感じる。「なにか抜け漏れていないか?そもそも面白くなかったのではないか?」というふうに思う。

反対に、自分が後輩の企画を見ていて、それが世の中に出てヌケモレがあったとき、自分自身も責任を感じる。自分の至らなさを感じる。

「こんな風なケースもありますよね」「こういう時はリスクがあるんじゃないですか?」「こうしたほうがいいのではないですか」「この部分について考えられていないと思います」

間違えがちだが、新しい答えを出すための議論は勝ち負けではない。

アイデアは、誰かの愛ある気づきによって強くなる。

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最近、Twitterが日々なにかの事件で燃えている。女性に関する問題や、働き方に関する問題や、もう、なんでも。Twitterを開けば何かしらやり玉にあげられているような気がする。

平成が令和になって、時代が変わろうとしているのかもしれない。その中で、新しい時代の批評家よろしく、日々自分の意見を世の中に投げている人達がいる。

けれど、その人達があまりにも愛がないと思うのは私だけであろうか。

批判するけれど、どうすれば良さそうなのか明確じゃないフィードバックばっかくれるし、実際に代替案をくれるわけでもないし、ただ「クソ」というだけなことがほとんどなのである。

「クソ」というのは簡単で、クソなことを変えていくことは38294723892倍むずかしい。それは、アイデアを考えるのは簡単で、実現するのは何倍も難しいのと似ている。

「クソ」とだけしか言わない人は、世の中を良くすべきだという顔をして、本当は世の中を本気で良くしようという気なんてないのである(というふうに私には思える).

ミスに対して意見を述べるとき、「殴る」ことが目的になってはいけない。正しい意見として「議論に勝つ」ことが目的になってはいけない。だって私たちは、もっと世の中をよくしようと思っているから、このように語っているのではないか。

新しい年号が来て、明らかに時代は変わろうとしている。そんな中で、世の中の社会問題に対してアンテナが高いのは素晴らしい。あとは自分の知恵を少しずつ絞って、次回以降のミライに反映できそうなフィードバックができたら、きっと良い世の中になりそうだ。だってみんな、そうやってミライのために頭を捻り足りていない人たちに怒ってるんでしょう?


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