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ラッシュの失敗

週に二回、会社帰りにボクシングジムに通っている。
会員にはプロもいるが、基本的には会社員を対象にしたジムだ。
ボクシングを始めてそろそろ十年になる。ひとりでもくもくと練習できるところが、性に合っていたようだ。
ボクサーにはシャイな人が多いと感じる。
いくつかの動作の精度を極限まで高め、無限の組み合わせのうちに使用するボクシングは、どこか短い詩の形式を思わせるスポーツだ。

新型コロナウイルスの感染が拡大していたとき、ジムはピンチだった。外出自粛が続いていた時期は、ほとんど誰も練習に来ていなかったと思う。
だが、会員がみんな辞めてしまうことはなかった。特に常連は、隙あらば練習したくてうずうずしていたはずだった。革のグローブをはめて、ミットやサンドバッグにパンチを打ち込むことは、他のなにものにも代えがたい快感がある。
結局、常連たちはコロナ禍のあいだも、安くはない会費を払い続けてジムを守ったのだった。

ようやく練習を再開できるようになった頃のことである。
常連のひとりが、ミット打ちのときに、トレーナーに向かってマイナンバーの話を始めた。

――あれ、なんていうんでしたっけ。なんとかナンバー。
――マイナンバーですか?
――そうそう、マイナンバーとかって、結局利権なんだよね。

ミット打ちの順番を待つ会員たちは、床に座り込んで、特に注意もせずに話を聞いていた。

――はは、そういう説もありますね。

トレーナーの避け方は悪くなかった。否定するでもなく、肯定するでもなかった。
しかし、「いける」と思ったのか、思いがけぬラッシュが始まった。

――そうなんですよ! だからワクチンが......

癖のあるフォームで左ジャブと右ストレートを繰り出しながら、彼は猛然としゃべり出した。内容は、さまざまな陰謀論のつぎはぎだった。
話している彼は、うれしそうだった。外出せず、人に会わず、ジムに来ることもできないあいだ、孤独に考えていたことだったにちがいない。

しかし、「ようやく話ができる」という彼の見込みは間違っていた。
トレーナーは、あいまいな笑みを浮かべたまま固まって、何も答えられなかった。
1ラウンドが終わったことを知らせる電子ゴングが「ピピッ」と鳴った。

ラッシュは失敗だった。本人もそれを悟った。興奮で輝いていた顔が、サッと無表情に切り替わった。
あっけにとられた会員たちは、誰も口をきかなかった。
彼は何も言わずにリングを降り、ジムの端まで行って、突っ立ったままストレッチを始めた。誰も彼に話しかけることはできなかった。

次のラウンドの開始を告げるゴングが「ピピッ」と鳴った。

みな、ほっとしたように動き出した。
サンドバッグの破裂音、「一分経過!」の掛け声、シューズと床が擦れる音が戻ってきた。
いっぽう、彼はジムの隅で壁に体を押し付けるようにして、必要以上に念入りなストレッチに没頭していた。
ていねいにストレッチするのは大事なことだ、そうだろ? とでも言うように、彼は長い間、体中の筋肉を曲げたり伸ばしたりしていた。


テーマ:男(文字数:1,235)


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