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映画『ガザ 素顔の日常』を見る

※映画『ガザ 素顔の日常』の内容を含みます

雨の降る日曜日の朝、午前九時に家を出た。ドトールでホットサンドを注文すると、届くなり指をケチャップで汚した。隣の席に座った白髪の男性が広げた朝日新聞の隅では、「世界の賢人」たちが集うフォーラムの開催が告知されていた。

電車の吊革につかまると、目の前の人が『風の谷のナウシカ』を広げて読み出した。カバーでは、王蟲の血で青く染まった服を身にまとったナウシカが、彼女の胴体ほどもある鋼色の銃を両手でぶら下げていた。背後はにじんだ朱色の空だった。

表参道駅から地上へ出ると、金色のDIORロゴが交差点の一角に展示されていた。渋谷方面に向かって歩いていくと、小雨が降っているにもかかわらず、国際連合大学前の広場ではファーマーズマーケットが開かれていた。

映画館には、私とほぼ同時に、小学校三年生くらいの男の子とたぶん母親、黒いアウトドアウェアを着た中年男性二人組が到着したが、当日券を買ったのは私だけだった。チケットには「ガザ 素顔の日常」と印刷されていた。客席へ入ると、予想外に四分の三ほどが空席だった。

冒頭に現れたのは、自分の漁船を持つことを夢見る少年だった。ガザは豊かな地中海に面している。だが海は監視されており、5km以上岸を離れるとイスラエル軍がやってきて捕縛されるので、浅瀬で小魚をとることしかできない。

感受性が人一倍強く、政治学を志している女性は、よその国の人からみれば私たちは戦争ばかりの国でくらす人間だろうが、表面の浅いところだけではなく、もっと深いところを見て欲しいと語り、チェロを演奏する。

写真家を廃業したという青年は、自由がない、意志を表現できる人間もいない、旅もできないと語った。200万人が40km×10kmの土地に押し込められている。封鎖された国境沿いでは若者たちがタイヤを焼いて煙幕をはり、軍に向かって投石する。

薬も満足に手に入らないので、撃たれた若者たちを十分に治療することもできないと救急隊員は語る。タクシードライバーの男性や仕立て屋の老人の話によれば、電気の供給はひんぱんに停止するし、健全な輸出入もできないから、負債を抱えていない者はいない。

かつて両親を撃たれた女性は幼い頃兵士を殺すことを夢見ていたが、いまでは戦闘以外にも方法はあると知ったと言う。子供に戦争を何度も経験させたことを後悔しながらも、ファッションの力で希望を与えようと奮闘する。

おそらくガザで一番子供が多い男は名前を書いた大きな紙を開いて、22人だ、と子供の数を数えなおす。二年間拘束されていた息子を年老いた父親が迎えに行き涙ぐんで抱き合う。少年たちは素焼きにされた小魚の山を手づかみで旺盛に平らげる。

ただ生きたいだけ、傷つけられたり殺されたりしたくないだけと語る人々を空爆が襲う。街だった場所が完全に灰色のがれきの山になる。銃声が鳴り、少年の顔色が変わる。救急隊員は、パレスチナ人以外のすべての人に怒りをおぼえることを告白する。

映画が終わると、立ち上がった前の席の毛糸の帽子をかぶった人と目が合った。客の誰一人声を発さなかった。

帰りの電車でデジタルサイネージを見上げると、毛並みの良い猫の映像が流れた後に、介護施設のコマーシャル映像が流れ始めた。非常コックの隣には、国民的ミステリ作家による新作の広告が貼られていた。

電車が止まり、扉が開いたが誰も乗ってこなかった。下を向いたままでいると、向かいの乗客が履いている高級ブランドのローファーが目に入った。駆け込み乗車はおやめください、という音声が流れて扉が閉まった。

テーマ:命(文字数:1,519)


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