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芸術性を競うアスリートたち・採点競技を考える


料理コンクールの世界


 私の仕事のひとつに料理関係の業界団体の広報がある。構成員はフランス料理にかかわるレストランオーナーシェフやホテル総料理長など。マエストロであり企業役員を兼ねる方も多く、料理にもフランス語にも心得の浅い私には緊張感のある仕事だ。とりわけ緊張するのが協会が主催する料理コンクールの取材。対象は若手、とはいっても予選から勝ち上がってきた中堅以上のプロの料理人、各ホテル・レストランのエースである。
 細かいルールは毎回同じではないが、選手たちが作る料理に対し複数のジャッジが付ける点数で順位が決まる採点競技であるところはフィギュアスケートや体操、高飛び込み等のスポーツと同じ。技術、繊細さ、スピード、体力、判断力、そしてセンスを問われる。
 職人でありアーティストである参加者はコンクール会場で「選手」と呼ばれる。事実、コンクールへ臨む姿勢はアスリートと変わらない。複雑で手間のかかる技法を用い、重い鍋や道具を使いこなし、時には初めて聞いた料理を決められた時間内に最高のレベルで仕上げるために、肉体と頭脳をフル回転して取り組む。厨房内で4〜5時間動き続ける体力と集中力も必須だ。課題があらかじめ決まっていれば毎日の業務を終えてから、何カ月間も毎日その料理を作り、美しく、おいしく仕上げるために工夫を重ね、秒単位で作業の段取りを構築し、スムーズにこなせるようにトレーニングを繰り返す。課題が当日まで知らされないブラックボックスなら、過去のテーマを検証し、出題されそうな料理にトライして技を磨く。どこも人手が足りない中でコンクールに出るためには勤務先や先輩、同僚の協力が不可欠だ。そうして参加してくる彼らは、自分の野心だけでなく周囲の多大な期待を背負って挑んている。

公平性への厳格な配慮


 コンクール当日、各選手は15分程度の決められた時間差で料理をスタートする。課題が当日発表の場合は、各人がスタートする際に初めて知らされるようにしなければならない。決勝進出者が8人なら1人目と8人目の差は2時間あるので、仮に全員が1番スタートの選手と同時に課題を知ってしまうと最終スタート選手は2時間長く考える時間が与えられることになり、公平性を欠いてしまうからだ。開始前に抽選があり、各選手は番号を与えられ、最終発表まで名前を呼ばれることなく番号で管理される。調理中の厨房には複数の作業審査専門の審査員が立ち、ルール違反がないか監視する。食味審査を担当する審査員たちは厨房や選手の控室とは離れた部屋に隔離され、どの選手の作品か全くわからな状況で試食し、定められた基準に従って点数を付けていく。

 準決勝、決勝進出者の所属企業関係者は審査員にはなれないことが決められている。もちろんだれかを贔屓したり審査に手心を加えるような審査員はいないが、これは万が一選手の情報が漏れたとしても結果に対して疑いが持たれないようにするためだ。情報が漏れたり、手心を加えたりする可能性を徹底的に無くして、どこからも、誰からも公平性、審査の誠実さに疑いを向けられることがないように運営することが重要なのだ。

審査員の熱き矜持


 ほぼ15分おきに各選手の作品が厨房から上がってくると、食味審査に携わるグランシェフたちが一斉に作品の盛られたプラッターを取り囲み香りや外観をチェックする。熱心なその目線からはジャッジとしての務めだけでなく、全国から勝ち抜いてきた挑戦者、次世代の担い手たちの腕前がどれほどのものかを見定めてやろうという料理人としての熱さが伝わってくる。一般企業なら定年をとっくに超えている年齢の方もいるが、グランシェフと呼ばれるほどの方々のエネルギーにはいつも圧倒されてしまう。

 近年は一皿盛りが当たり前となっているが、かつての伝統的なフランス料理は銀の大きなプラッターに数人分を美しく盛り付けてワゴンでテーブルサイドに運び、メートル・ドテルと呼ばれるサービス担当が1人ひとりの客に取り分けるのが普通だった。丸焼きのほろほろ鳥や大きな魚のパイ包みなど、見るからに豪華な料理を洗練された身のこなしで取り分けるメートル・ドテルはレストランの花形であり、料理人をしのぐ存在であったという。
 フランスではメートル・ドテルの技を競うコンクールが料理コンクールと同時開催されたりするが、日本にはそうしたスタイルが根付いていないこともあり、取り分けは料理人が担当する。食味審査を担当するグランシェフほどの重鎮クラスではなくても、各ホテルの花形シェフが何人も肩を並べて手際よく取り分けていくさまは壮観の一言だ。
 会場にはプロ用の包丁類が揃っているが、わざわざ特注の刃物一式を持参して臨むシェフもいる。コンクールで役割を果たすことへの誇り、そして選手たちと料理への敬意が感じられる場面だ。

 審査用に小さく取り分けられた料理は一人ずつ離れて座って待つ食味審査担当のグランシェフたちの前に運ばれる。互いに料理について、審査についての会話はせず、丹念に味わい、手早く審査用紙に点数を書き込んで行く。最期の選手の作品を評価し終えた後、各項目ごとに最低点、最高点を切り捨てた合計が集計され、順位が確定する。

高まる日本人シェフへの国際的評価


 フランス料理に限らないが、日本の料理と料理人への評価は近年大変高くなっている。2010年頃からはパリで店を開いた『Restaurant KEI』の小林圭、『Passage53』の佐藤伸一、『Sola paris』の吉武広樹などが評判を呼び、フランスにおいて日本人シェフブームとも呼ぶべきムーブメントを引き起こした。目端の利く投資家たちは有能な日本人シェフを共同経営者にして次々とフランス国内にレストランを開店し、ミシュランの星を獲得する日本人シェフが増え続けている。
 国際的なグルメガイドの評価に加えて日本の料理業界のレベルを端的に示しているのが今回ご紹介したようなコンクールの運営であると思う。長時間拘束され責任も重い審査員をボランティアとして引き受ける有名ホテル、レストランの総料理長が何人もいるからこそコンクール開催が可能となる。所属企業の選手が準決勝、決勝進出者となればそのホテルの総料理長は審査員をはずれ、代わりに無関係なシェフが審査員に就任する。当たり前のようにハイレベルな人材が確保できることも凄い。

運営側の姿勢が左右する勝利の価値


 参加選手にとって他の料理人の仕事ぶりを見たり別のホテルの総料理長の講評に学んだりと、コンクールから得るものは多い。しかし。一番大事なのは「勝つこと」だ。結果は生涯ついて回り、優勝すれば料理人としての人生が変わるのだから。
 だが、審査が公正であるという共通認識が成立しなければ勝利の価値は失われ、勝者の名誉は地に堕ちる。敗者も自分の立ち位置が不明では評価から学ぶことが困難だ。

 審査を担当するシェフたちは、選手が死力を尽くして作り上げた作品に対峙し、経験、知識、五感すべてを集中して判定していく。そこから伝わってくるのは、人の上に立ち、国賓級のおもてなしにも携わる立場への責任感と、選手と同じく現場の料理人としての素朴、かつ熱い矜持である。どんなに立派なルール、判定基準を作っても、正しく運用されなければ意味がない。
 あるグランシェフの
「勝者の名誉が確実に守られ、敗者が誇りとモチベーションを持って挑戦を続けられられる審査でなければならない」
 という言葉がすべてを表していると思う。

 いわゆる西洋料理は幕末・明治の頃から日本に存在したが、フランス料理というカテゴリーが一般に認識され、急速に発展し始めたのは高度成長期以降のことである。そこから今日の評価を得るまでには、多くの先輩料理人たちが夢とファイティングスピリットを持ってチャレンジし、獲得した技とノウハウを後進に伝えてきた積み重ねがあった。日本でグランシェフと呼ばれるような方々のなかには1970年代頃に身ひとつでフランスに渡り、本場の厨房で言葉や差別に苦労しながら修行した方が何人もいる。その方たちが日本に技と文化を持ち帰り、彼らの料理や仕事ぶりに接した後輩たちがあこがれを持って続くことでレベルの高い料理人たちが輩出される仕組みが形成されてきたのだ。60年余りでここまでの層の厚さ・質の高さへ到達したのは驚異的なことではないだろうか。

 もちろんこの業界も少子高齢化による後継者不足、働き方改革に対応するための労働時間適正化から生じる諸問題など様々な課題を抱えている。私だって精神論だけで片付く問題などないことは知っているつもりだ。しかし、「障害を乗り越えて進化し続けるためにまず何が必要か」に対する答えの一端をこの料理コンクールに携わる方々の姿勢から学ばせていただいたことは確かである。
 学び、伝え、育てることに生涯を賭け、大変な労力を費やしてきた料理人の皆様に心から敬意を表します。

PS:

 フィギュアスケート界のGOAT羽生結弦選手が競技を離れて間もなく1年が過ぎようとしています。プロとなってさらに磨かれていく彼のアイスショーはいつも満員御礼ですが、ライブビューイングや配信でも演技が見られるからファンは幸せです。
 その一方で競技会は空席が目立つようです。羽生選手があれほど活躍し、輝かしい記録を残した競技が低迷するのはやはり残念でなりません。私の知っている採点競技会の流れを追って整理してみました。伝わるものがあればうれしいです。


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