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白銀色の奇跡 羽生結弦の「レゾン」

 ファンタジーオンアイス2022神戸の楽日を拝見した。宮川大聖が唄う「レゾン」は斬新な選曲だ。楽曲はやや難解というか歌詞のウェイトが大きく、リズムははっきりしているがある意味単調でもあって、映画音楽やミュージカル、バレエ曲のようなドラマチックな盛り上がりは少なく、フィギュアスケートの魅力である疾走感やのびやかなスケーティングの美しさに自然と寄り添ってくれるような曲調ではない。歌としてもかっこよく聴かせるのが簡単ではなさそうだし、踊るにも一見ダンサブルなようで、踊り手の技量や個性が薄いと見どころがなくなってしまうリスクがありそうだ。

 しかしデヴィッド・ウィルソンが振り付けたという羽生結弦の「レゾン」はこれまでのイメージを粉砕し、「RealFace」で見せた彼の「変身に近い進化」をさらに鮮明にした。羽生のレゾンはスプリングのように揺れて反復しながら流れていく曲に正対し、その雰囲気に埋没することのない強烈な主張があった。あいまいな「それらしさ」ではなく、歌の哲学を、痛みへの予感やおののきをヴィジュアル化しようという明確な意志が見えて、これまでになく演劇的要素が強く感じられた。

 上体を悩ましく揺さぶりながらのベスティスクワットイーグル、苦悶の表情とともに全身を投げ出すコンテンポラリーダンスのようなアクション、巨大な弧を描いて滞空するバレエジャンプなど、多彩な技をたたみかける様に操る縦横無尽な表現。それらが透きとおるようにしなやかな色香を纏って展開してゆく。

 際立っているのは足元の確かさと鋭く緩急に富んだ上体の動き。羽生のとびぬけたエッジワークは足元だけ見ていても酩酊感をもたらすほど魅力的だ。そして、そのしたたかでしなやかな足技に支えられてこそ上体は解き放たれて変幻自在に舞うことができる。オープニングの群舞を見るとよくわかるが、同じふりで踊っていても羽生の動きには独自の呼吸があり、複雑な「遊び」が加わっている。例えば腕の上げ下ろしひとつでも、他のスケーターなら点から点へと直線的に動かすところにうねるような、しなうような曲線的な動作が加えられ、別もののように華やかに飾られているのだ。羽生はバロック音楽の演奏家が即興で装飾音を入れて演奏するように、湧き上がる感興を形にしながら星屑を撒き散らすようにして滑ってゆく。その輝きがパフォーマンスに命を与え、観客の視線と魂をことごとく吸い寄せ、酩酊の渦に熔かし込んで別の宇宙へとトリップさせてしまうのだ。

 私は競技の緊張感が好きで、以前はエキシビにもアイスショーにも興味がなかった。しかし、羽生に関してはショープログラムにも張りつめた空気感があって競技とあまり差を感じない。FAOI神戸最終日、白色矮星の爆発のような「レゾン」の目撃者となれたことは幸運であり光栄なことだった。北京の屈辱を処理する方法として彼が選んだのは、より美しく、強く進化することだったようだ。どのように滑るのか、何が美しいのか、その基準は羽生自身が定めればよいのだ。古来、法を作り、価値を定め、権威によってそれを裏付けるのは帝王の役割なのだから。


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