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惑乱を操るロックスター 羽生結弦の「鶏と蛇と豚」


 RR_PRAY公演で初演された「鶏と蛇と豚」はこれまでの羽生とは少し印象が異なる作品だった。
 振りが大きく、変化に富み、上体やフリーレッグの華やかさ、鋭さがたまらない。生まれてこの方少しの恐れも後悔も知らず、いっさいの制約に縛られたことがない魔物のようだ。
 奔放に舞いながら、突き刺さるようにきっちりと音を捉える羽生の動きが途方もないエネルギーを放出して大空間を支配する。
 怪異な楽曲と濃厚な照明。
 氷上に熱と瘴気が充満し、マグマが沸き立つ火口を覗き込んでいるかのよう。
 ツアー2日目だったさいたまスーパーアリーナでは硫黄の匂いがしそうなほど強烈な空気感に圧倒された。千秋楽は1週遅れのディレイビューイングで拝見したが、大画面、音響の迫力もあり、それ以上にショー全体を通しての羽生本人の進化が明白で素晴らしかった。

 羽生の動きには独特の呼吸がある。鋭く力強く始動し、しなやかな曲線を見せながら緩やかに減速し、時には切れ上がるように再び加速する。それぞれの動きに意志的な流れが作られ、加速・減速のグラデーションが細やかで揺るぎがない。
 吸い付くように旋律とリズムに憑依し、謡うように、奏でるように動いてゆく。曲に乗るというより、彼の動きが音を作り出しているかのようだ。

 RR_PRAYツアー期間中、横浜公演のためにイタリアから来日された作家でバレリーナのアレッサンドラ・モントゥルッキオ様にお会いした。「惑星ハニューにようこそ」のNymphea様の通訳+テレパシー!?でお話ししたなかで、アレッサンドラ様は「羽生結弦の演技を超スローにして分析すると、音の始まりよりほんの僅か早く動き始めている」というとても興味深いことを教えてくださった。
 だから指揮者のように演奏をリードし、曲を支配しているように見えるのだろう。
 
 おそらく他の日本の音曲も共通だと思うが、能楽の世界では笛、大鼓、小鼓、太鼓の四拍子も、謡も「間」が重視される。音と音の間、あるいは演奏開始前の一瞬の隙間だ。「間が良い」、「間抜け」という言い方があるように、リズムを決め、場を作るのは「音」以前に「間」なのだ。間よくすべてが嵌ったときには、鬼、あやかし、神さえも出現するのが能の醍醐味であろう。
 もちろん謡、装束、四拍子、舞、舞台上のすべてに様々な技が施されてのことだが、間の良さ タイミングの良さ、は人を心地よくさせ、誘い込み、常ならぬ世界へとワープさせるトリガーだ。
 
 羽生結弦とそのチームが作り出すショーもまた技巧、演出が幾重にも張り巡らされ、彼の魔力を増幅させる装置となっているが、幻惑へのトリガーを引くのは羽生の動きである。

 ほんのわずか、数値にするには微妙すぎるくらいに間合いを詰めて始動することによって彼は流れを支配し、鼓動のように逆らえない「間」でその場に居合わせる諸々の呼吸をつかみ、感性を刺激し、惹きよせ、束ねて思いのままに引きまわす。
 羽生が音嵌めしているというより、観ている我々・観客が羽生の動きに嵌められ、絡めとられているのでないか。
 
 音と動きのシンクロ、そして間によって羽生から醸し出される波動が目から、耳から、皮膚から浸透して大脳辺縁系に強く働きかけるのにちがいない。その結果、情動、感覚、呼吸、血流がかき乱され、時には記憶までが消失する。

 そして熱狂と混乱の観客席で増幅し、反射された「気」がまっしぐらに羽生に集中し、取り巻き、渦巻き、スパークして彼の輝きの一部となるのだ。
 2023年11月上旬の埼玉から2024年2月の横浜千秋楽まで、羽生結弦も進化したが観客も進化し続けた。ライブビューイングや配信、SNSは多少の時間、空間のずれなど乗り越えてエネルギーを交換できることを示している。ディレイビューイングの映画館でも、手拍子、歓声、コーレスが響き渡っていた。

 ライブの醍醐味に溺れさせてくれる羽生結弦こそ、真正のロックスターと呼ばれるにふさわしい。

PS:
「鶏と蛇と豚」の羽生選手が衣装も含めて素敵すぎて、蛇足かなあと思いながら、いろいろと書いてしまいました。
「間」については競技者だった頃から感じていたのですが、書ける気がしなくて手を付けなかった部分です。
Nymphea様、アレッサンドラ様とお話していて何かが見えた気がしたのでトライしてみました。
やはりうまく書けませんでしたが、多くの方が体感されていることではないかと思います。少しでも伝わればうれしいです。

RE_PRAYの追加公演が決まったと先ほど知りました。
改めて拍手喝采を送ります。
すごいことですけれど、よく考えれば当然という気もします。
時を越えて語り継がれるべき名舞台なのですから。
  

 
 


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