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【小説】平成最後の恋人

「平成も終わるっていうのに、なんでまだ渋滞はなくならないんだよ」

イライラとした様子でタバコに火をつけながら年上の恋人が言った。電子タバコだから火をつけるとは言わないんだろうか、まずいって言ってるのにどうして吸うんだろう、口さびしいならおしゃぶりでもしゃぶっていればいいのに、と思いながらその横顔を見やる。
雨の環状線は大渋滞で、さっきからちっとも前に進まない。スマホの充電は十パーセントを切っていた。充電がなくなるのと、渋滞を抜けて家に帰るのとどちらが早いだろうと考えたあと、モバイルバッテリーを取り出した。
今日、お別れの言葉を告げようと思っていたけれど、渋滞中の車で言う勇気はなかった。その場で車から降りろと言われるか、別れたくないとごねられるか、はたまた今までお前に奢った分の金額を返せ、と言い出すか。
恋人はまだブツブツ言っている。イヤホンを耳に突っ込んで好きな音楽でも聴いていたいけれど、そんなことをすれば、ますます機嫌を損ねさせるのはわかっていた。代わりに車内のBGMのボリュームを上げる。

「これ歌ってるの、誰だっけ」

恋人が答えたアーティストの名前は九十年代に歌姫と呼ばれていた人だった。そうだ、確か好きだって言っていたなあ、と思い出す。お前の声とちょっと似てるよな、と言われて、嬉しくなってカラオケで練習したことがあった。

「またカラオケでも行くか」

同じことを考えていたらしく、彼が嬉しそうに言った。「んー、渋滞を抜けられたらね」と答えながら、スマホをいじる。
かつての歌姫はあなたの愛がないと満たされないと歌っていた。切なげな声を聞いていると、そばにいてあげなければこの人は死んでしまうのではないと脅迫観念に駆られる。あなたがいなきゃダメなの、だなんて刹那的な感情を叫んでいるのを聞いているこちらが恥ずかしくなってくる。そもそも恋愛なんて永遠に続くはずがないのに、どうしてすがりつこうとするのだろう。
車がようやく少し動き始めた。さっき、ネットで検索したら事故渋滞だと出ていたので、処理が終わったのかもしれない。これ以上、恋人の機嫌が悪くなるのは回避できそうだ。
曲が変わった。今度は二〇一〇年代の歌姫のものだった。ずいぶんと脈絡のないプレイリストだ。彼が作ったものだろうか。先ほどまでの歌姫と違い、彼女は私を選んでくれてありがとうと幸せそうに歌っていた。

「この歌ってる女、かわいくないよな」
「そう?」
「選んでくれてありがとう、ってナマイキ」

早く高速抜けないかな、とこっそりため息をつく。この人のこういうところがイヤだった。女は男のいうことを聞くのは当たり前だって言うし、仕事でデートに遅れたりすると大した仕事もしていないくせに、となじる。典型的なおっさんだった。いつのまにそんなふうになってしまったんだろう。
新卒で小さな編集プロダクションに入った私が初めてひとりで担当したクライアント。大手の広告代理店で窓口になっていたのが彼だった。失敗ばかりの私をフォローし、そこの代理店と継続で仕事ができたのは彼のおかげだ。背も高くて顔も整っていてジムで鍛えている体はたくましく見えた。いろんなところに連れて行ってもらったし、人との付き合い方、店の選び方、文章の書き方も指導してくれた。公私ともに彼は尊敬できる人、のはずだった。
二年が経ち、編プロをやめた私はフリーで仕事をするようになった。編プロ時代に付き合いのあった会社から細々と仕事をもらっていたけど、最近ではそれなりに案件も増えて忙しくしている。彼と少し高いレストランに行くよりも、仕事をしているほうが楽しかった。そして、気がついてしまった。彼が連れて行ってくれるレストランで食事をしても、大しておいしいとは感じないことを。

「この渋滞、事故によるものらしいから次の出口で高速下りない?」
「え? ああ、そうだな。下道のほうが早いか」

同じ判断をした人は多かったのかもしれない。次の出口が近づくと、続々と車がウィンカーを出し、左車線へと入ってくる。助手席に乗りながら、運転ができる人はすごいなあ、といつも思っていた。こんな渋滞の道路で間に割り込むのも大変だろうし、ボーッとしてアクセルとブレーキを踏み間違えそうだし、そもそも、車間距離がよくわからない。細い道を走っているときも、よくこすらないものだと感心する。歩いているだけなのに、距離感が分からずに物にぶつかってしまうこともある私にとって、常時車を乗り回す人は尊敬に値する。
この人と出掛けるときはどこに行くのにも車だった。近所に買い物に行くときも、旅行のときも。
高速の出口を通過して、ゆっくりと一般道に合流する。混んではいたけれど、先ほどまでは動かない景色に辟易していたので、街の灯りが流れていくのを見るのがなんだか嬉しかった。

「映画でも行くか?」

私が言葉少ななことを気にしているのかもしれない。いつもなら、沈黙が怖くてどうでもいいことをペラペラと喋っている。仕事の話をすると不機嫌になるのでそれを避けるので、友達の話ばかりになる。会ったこともない私の友達の話を彼は上機嫌で聞いてくれる。つまらなくないのかと思っていたが、自分が知らない私の世界を知れるのは嬉しいそうだ。それが支配欲によるものだというのに気がついたのは付き合い始めてからだいぶ経ったころだった。

「お前が好きだって言ってるシリーズものの新作が公開になっただろ」

私が好きだということを覚えていたのが意外だった。マメなところはあるのは知っていたけれど、それは私に対しては発揮されないものだと思っていた。

「そのあと、この前行ったバーに行くか。マスターもお前のこと気に入ってたぞ」
「確かに、あそこのカクテル、美味しかったね。でも車だし」
「代行呼べばいいだろ」
「いいや、今日は帰りたい」
「お前なあ……」

そっけなく言うと、彼はムッと押し黙った。次、地下鉄の入り口が見えたら下ろしてもらおう。最寄だとどこだろう。検索をしようとスマホを見ると、メッセージが来ていた。新しい恋人からだった。
そうだ、今日、帰る前に告げなければ。別れたいと。
お前って呼ばれたくない。名前を呼んでほしい。
映画館のカップルシートで最新作を観るより、Netflixで海外ドラマをダラダラ観たい。
おしゃれなバーでカクテルを飲むより、缶ビールのほうがいい。
モコモコのかわいいパジャマも、ホテルのゴワゴワして着づらいバスローブもいらない。
もう私のほしいものをあなたは何もくれない。
違う。もともと、私が欲しいものをあなたは何も持っていなかったのだ

「別れようか」

顔を上げ、運転席のほうに視線を向けた。
車が止まる。彼の瞳は赤信号を見つめていた。

「別れるって」
「だって別れたいんだろ」

別れを切り出すつもりだったのに、逆に言われる側になると言葉に詰まる。何より、「お前が別れたいんだったら別れてやるよ」という姿勢が私の神経をそっと逆なでしていった。
ああ、でもそうだ。別にこの人は私だけじゃない。私の名前を呼ばないのは『他の誰か』と間違えないためだ。でもまあその割にセキュリティはユルユルで、スマホはロックもかけないし、財布からは私が行ったことのないホテルの領収書がでてくる。

「あなたは別れたいの?」
「俺が独占欲強いの知ってるだろ? 仕事よりも、俺を優先しない女は嫌なんだわ」
「そう」

なら言うことは何もない。シートベルトを外した。

「今日は、別れ話をするために来たの。あなたから切り出してくれてよかった」
「女にフラレたなんて格好が悪いからな」
「そうだよね、そういう人だよね」
「まあ、お前ももう若くないしな。適当な男と結婚しろよ」

言葉が肌を撫でていく。気持ち悪い。ねっとりと粘膜が肌を覆っていくような感覚。
青信号。走り出した車はすぐに路肩に止まった。もう何も言われなかった。それでいい。車から降りて、乱暴にドアを閉める。
外は冬の始まりを告げるような冷たい雨が降っていた。
車を見送ってから「あ」と声を漏らす。車の中でかかっていたプレイリストは私が作ったものだ。付き合い始めてすぐに、「若い子が聴く曲も知らないとダメだよ」と言ったら「お前も俺の青春時代の曲を勉強しろ」と言われて、新旧織り交ぜたプレイリストを作った。
今日、最初からあの人はわかっていたのだ。私が何を言おうとしているかも。
恋人にメッセージを『傘を持っていない』とメッセージを送る。すぐに既読マークがついた。

『いまどこにいるの? 迎えに行くよ』

夜遅くに呼び出されるのが嬉しかった。私を必要としてくれている気がして。
恩着せがましい言い方も嫌いじゃなかった。大事にしてくれている気がして。
でも、今は違う。
あの人は何も変わっていない。変わったのは私だ。

『コンビニで傘を買うから大丈夫。うちで待ってて』

そういえば、結局、あの人は一度も私の家には来なかった。
家の近所のコンビニでお弁当とビールを買おう。それを食べながら、海外ドラマの続きを彼と観よう。背の低い恋人と。

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